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銀のはがき

 九月の蒲原は、朝だけ、夏の肩をそっと押して「もう少し向こうへ」と言うような風を吹かせました。畦道の草の先には露がころんと乗って、ひと粒ずつ小さな水晶になっています。みかん畑の葉はまだ暑さを抱えたままなのに、裏の白い粉が、今日はいつもよりはっきり見えました。薩埵峠の影は細く長く、駿河湾の上には鰯雲が骨のように並んで、空が少しだけ“高い顔”をしていました。

 運動会の翌日、教室は、まだ昨日の砂の匂いを残していました。床板にこびりついた白い粉、赤白帽の汗、笑い声の薄い名残。先生が、黒板の前から封筒の束を配りながら言いました。

「写真ができました。家へ持って帰ってごらん。昨日の風も、しゃらりも、紙の中に入ってるぞ」

 “紙の中に入ってる”という言い方が、幹夫の胸をちょん、と叩きました。胸の奥の空洞が、からん、と鳴る感じがして、幹夫は思わず封筒を机の上で押さえました。押さえたところで、封筒は逃げないのに、逃げるのは自分の心のほうでした。

 隣でこういちが、封筒を指先で撫でました。こういちは撫でながら、口の端をほんの少しだけ上げて、でも目は慎重のままでした。

「開ける?」とこういちが言いました。「……あとで」と幹夫は言いました。

 あとで、というのは、いつも幹夫が“こわいもの”に使う言葉でした。あとで開ければ、今はまだ“見ていない”で済む。見ていなければ、胸の奥の空洞はまだ静かでいられる。静かでいられるのに、静かすぎると、今度は息が詰まる。

 休み時間、教室のあちこちで封筒が開く音がしました。紙が擦れる、しゃっ、という音。誰かの「うわ、写ってる!」という声。笑い声。ざわざわ。ざわざわは軽いのに、幹夫の胸には重たく落ちました。

 幹夫は、封筒の口を指でつまみました。封筒は薄いのに、指の先に抵抗がありました。抵抗は、紙の抵抗ではなく、幹夫の心の抵抗でした。

 ――写真の中で、ぼくが笑っていたらどうしよう。 ――父さんが来ていないのに。 ――笑っているぼくは、俊のことも、忘れたみたいに見えるだろうか。

 そんなふうに思う自分が嫌で、でも嫌だと思うほど、思いは濃くなって、濃い思いは喉の奥で熱くなりました。

 幹夫は、いっぺん息を吸って、封筒を開けました。

 中から出てきた写真は、白黒でした。黒白の世界は、虹も夜光虫も持っていないはずなのに、幹夫にはその白黒が、なぜだか“光の匂い”を持っているように感じられました。紙は少し冷たく、指先がひやりとします。

 写っていたのは、徒競走の途中の幹夫でした。

 口が少し開いて、眉がまっすぐで、足が宙に浮いている。浮いているのに、地面を蹴った砂の粒が、ちゃんと後ろに飛んでいる。幹夫は自分の顔を見て、胸がぎゅっと縮みました。

 ――笑ってない。

 ほっとしたのに、すぐ次の気持ちが来ました。

 ――でも、顔が…必死だ。 ――必死なのに、どこか、楽しそうにも見える。

 その“どこか楽しそう”が、幹夫の胸をちくりと刺しました。刺されるのは痛いのに、同時に、胸の奥で小さな温かさが灯りました。温かさは、罪の灯ではなく、“生きてる灯”でした。

 こういちが、自分の写真を覗きこんで言いました。

「幹夫、走ってる顔、いい」「……いい?」「うん。ちゃんと走ってる顔。嘘じゃない顔」

 嘘じゃない顔。 その言葉が、幹夫の胸の中の結び目を、すこしだけゆるめました。嘘じゃないなら、笑っていても笑っていなくても、そこにいるのは“本当の自分”なのだ。

 先生が教卓から言いました。

「追加で焼き増しがほしい人は、放課後、写真館へ行っていいぞ。家族に送るなら、いいことだ」

 送る。 その言葉で、幹夫の胸の中の“蜘蛛の交換台”が、静かに動きました。送るというのは、握るのと違う。握ると苦しい。送ると、胸の中に道ができる。

 幹夫はこういちを見ました。

「……父さんに、送りたい」「じゃ、一緒に行く」とこういちが言いました。言い方が、太鼓の糸のときみたいに、押さないで、ただ隣に立つ言い方でした。

 放課後、二人は畦道を通って、駅の方へ少し下り、町の小さな写真館へ向かいました。道の横の田んぼは、稲が少しだけ首を垂れはじめていて、風が渡ると、さわさわ、と金色の前触れの音がしました。赤とんぼが一匹、すっと横切って、空の鰯雲の列に、見えない線を引きました。

 写真館の戸を開けると、外の光よりずっと静かな匂いがしました。紙の匂い、木の匂い、それに、少しだけ酸っぱいような、金属のような匂い。匂いは“水の中の匂い”に似ていて、幹夫はなぜだか、用水の底や、井戸の暗さを思い出しました。

「焼き増し?」と、写真館のおじさんが言いました。 おじさんの指は黒いところがありました。インクではなく、薬品の跡のような黒。黒いのに、汚れではなく、仕事の色でした。

 幹夫は写真を差し出し、小さく言いました。

「これ、もう一枚。……父に送る」

 おじさんは頷いて、奥へ引っ込みました。奥のカーテンの向こうから、赤い灯がちらりと見えました。赤い灯は、提灯の灯とも、夕焼けとも違う、変な色でした。変なのに、怖くはありませんでした。赤い灯は、暗いところで物を守る灯だ、と幹夫は直感で分かりました。

 おじさんが、少しだけカーテンを開けて言いました。

「見たいかい」

 こういちが「いいんですか」と言い、幹夫は喉がからからなのに、うなずきました。

 暗室は暗いのに、真っ暗ではありませんでした。赤い灯が一つ、天井の近くでぼんやり光っていて、その光の下で、白い紙が、いっそう白く見えました。白い紙は、灯籠の白さに似ていて、幹夫の胸が一度だけきゅっとなりました。

 おじさんが、白い印画紙を持ち、機械に入れて、ほんの短い時間だけ光を当てました。次に、その紙を、浅い皿の中の液体へ、すっと沈めました。

 すると。

 最初、紙はただの白でした。白いまま、何も言いません。 けれど数息のうちに、白の底から、うすい灰色がにじみはじめました。にじみは、霧みたいに広がって、霧の中に、線が生まれ、線が集まって、形になっていきます。

 幹夫の顔が、そこに浮かびました。 旗の糸が、空に一本、線を引いているのも見えました。 砂の粒が飛んでいるのも見えました。

 白い紙の中で、昨日の光が、ゆっくり“目を開ける”のです。

 幹夫は息を止めました。止めた息は胸の奥で固まり、すぐ、ほどけました。ほどけた瞬間、胸の空洞が、冷たい穴ではなく“朝が出てくる井戸”みたいに感じられました。

 ――見えないものは、最初から無いんじゃない。 ――ただ、まだ出てきていないだけなんだ。

 そんなふうに思ってしまって、幹夫の喉の奥が熱くなりました。涙が出る前の熱。熱いのに、痛くはない。痛いのではなく、胸の中で何かが“整う”熱でした。

 おじさんは紙を別の液に移しながら、ぽつりと言いました。

「急ぐとね、曇るんだ。光も、心も。じっと待つと、ちゃんと出てくる」

 幹夫は、その言葉が自分に向けられたみたいで、少しだけ恥ずかしくなりました。恥ずかしいのに、救われました。見透かされるのは怖い。でも、見透かされないと、ひとりで引っぱって糸を切ってしまう。

 写真は最後に水で洗われて、白い洗面の上で、静かに光を返しました。白黒のはずなのに、幹夫にはそれが、夜光虫みたいに“嘘のない光”を持っているように見えました。

 こういちが小さく言いました。

「……出てくるね。白から」「うん」と幹夫も言いました。

 白から出てくるものがあるなら、胸の空洞の底からも、いつか何かが出てくるのかもしれない。父の帰る日も、突然“現れる”のではなく、どこかで静かに準備されているのかもしれない。そう思うと、待つことが、ほんの少しだけ怖くなくなりました。

 家へ帰る道、夕方の風が稲を揺らして、さわさわ、と音を立てました。遠くで踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと峠の影へ入っていきました。幹夫は、その音の並びが、暗室で紙から像が出てくる順番に似ている気がしました。最初は何もなくて、次にうすく現れて、だんだんはっきりする。

 家に着くと、祖母が縁側で網を直していました。青いガラスの星は窓辺で静かに待っていて、割れた貝の星座の箱は、夕方の光を控えめに返していました。空の蛍瓶も、虹の海硝子も、短冊も、みんな「置いておくもの」として並んでいます。

 幹夫は、焼き増しの写真を封筒に入れ、鉛筆で短い手紙を書きました。

 「とうさん」 「うんどうかいの しゃしんです」 「しゃらりの かぜが いました」 「ぼくは ちゃんと はしりました」 「とうさんの こえも ちゃんと きこえました」

 “来て”とは書きませんでした。書けない自分がまだいます。けれど今日は、その“書けない”が、逃げではなく、糸を張りすぎないための“加減”に思えました。

 夜、窓辺に一枚だけ、自分の分の写真を立てかけました。月の光が写真の白い縁に当たって、紙がうっすら青く見えました。青いガラスの星が、風でからり、と鳴りました。

 幹夫は写真を見て、小さく言いました。

「……父さん、これ、見るかな」

 返事はありません。けれど、返事がないことが、今夜は前ほど怖くありませんでした。暗室の白い紙が、しばらく黙っていて、それでもちゃんと像を出したことを、幹夫は見たからです。

 布団に入ると、遠くで波がしゅう、と引き、踏切が――カン、カン、と夜を渡し、汽車がことことと小さく鳴りました。鈴虫が、りん……りん……と細い糸で夜を縫っていました。

 幹夫の胸の奥の空洞は、まだあります。消えません。けれど今夜の空洞は、冷たい穴ではなく、赤い灯の下の暗室みたいでした。暗いのに、守る灯がある。暗いのに、白い紙が待っている。待っているものは、いつか、ゆっくり現れる。

 そう思ったとき、眠りはすぐそこまで来ていました。 窓辺で青い星が、もう一度だけ、からり、と鳴りました。 その音は、銀のはがき――写真――が、遠い父の胸に届く道を、静かに確かめてくれる音でした。

 
 
 

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