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鋼の盾は折れない

 朝8時の始業直後。営業部の風間翔平は、まだ血の巡りきらない頭を、熱いコーヒーで誤魔化しながらデスクの書類を眺めていた。今日もまた、一筋縄ではいかない一日になりそうな予感がする。先日から続いている顧客対応――いわゆるカスタマーハラスメント(カスハラ)の問題が、社内を重苦しい空気で包んでいた。

 今回の相手は、老舗取引先の専務・多田恒雄。高圧的な言動と、終わりの見えないクレームを繰り返しては、風間や部下たちを長時間拘束し、時には人格を否定するような暴言を浴びせる。ときには「お前らなんかすぐクビにしてやる」と物騒な脅しまで口にする始末。社内では“あの専務”として有名で、皆ができるだけ関わりを避けたいと願う相手だ。

 しかし営業部の中堅として、取引先との調整を任されるのは風間の役目。「なんとかうまくまとめてこいよ」と上司の岡林課長から念を押され、風間は胃の痛みをこらえながら専務のもとへ赴いていた。

***

 午後2時、取引先の応接室。多田専務はいつもどおり、不機嫌そうな顔で腕組みをして座っていた。机の上には大量の資料が並べられている。

「風間さんよ、こっちは長年の取引先だって言ってるんだ。少しくらい融通きかせろっていうのがスジだろう?」

 厚かましい要求。しかも、契約書の文面に反する“特別サービス”を要求してくる。返品ポリシーを無視して、在庫品をすべて引き取れと迫るなど、完全に不当な要求だった。

「申し訳ありませんが、それは弊社の規定上、対応しかねます」

 風間が丁寧に説明するも、多田専務は聞く耳を持たない。むしろ苛立ちを募らせるように、手元の書類を大きな音を立てて叩いた。

「俺がいいって言ってるんだよ! 会社の規定がどうだろうと関係ない。何とかするのがお前の仕事だろうが!」

 風間の胸がざわつく。心の奥から何かが込み上げそうになるが――ここで感情的になるのは逆効果だ。彼はふと、最近社内で改定された「カスハラ対応マニュアル」を思い出した。そこに書かれていた“冷静な対応”と“毅然とした態度”という基本方針。それを胸の中で唱える。

「恐れ入りますが、弊社の方針と法律に則り、対応可能な範囲を超えています。これ以上はお受けできません」

 風間はわずかに声を強め、言い切った。限度を設定する姿勢を示したのだ。

 すると、多田専務の顔色が変わった。今度は手を机に叩きつけ、椅子を蹴立てるように立ち上がる。

「ふざけんな! そっちがその気なら、うちも考えがあるぞ。覚悟しておけ!」

 乱暴にドアを開け放ち、専務は応接室を出て行った。見送る風間の肩から力が抜ける。だが、ここで終わりではない――いや、ここからが本当の戦いかもしれない。

***

 会社に戻った風間は、まず今回の一部始終を事細かに上司へ報告し、状況を上層部にエスカレーションした。マニュアルの「4.2 エスカレーション」の章に基づき、上司だけでなく法務部・総務部へも共有する。

 岡林課長や法務部の北見は深刻そうにうなずき、すぐに対策会議を開くことを決めた。「最悪の事態」に備え、警察や弁護士などの専門機関へ連絡する準備も視野に入れる。

「何があっても、うちの社員を守るのが会社の責務だ。風間、これ以上おかしなことを言われたらすぐに報告しろ。迷わずにだ」  岡林課長の目は厳しいが、その言葉には温かい決意が感じられた。

***

 そして翌日。予想通り、多田専務は会社の受付に電話をかけ、執拗に「風間を出せ」と居丈高な声を上げた。受付の若い女性が怯えてしまい、引き継いだ総務部の担当も苦慮しているという報告が、風間のもとへ入る。

 そこで総務部の新井が風間の席を訪れた。 「もし再度暴言や脅迫があるようでしたら、録音や記録をきちんと取ってくださいね。うちも法的手段に備えますから」

 マニュアルの「4.3 事後対応」にあるとおり、従業員のケアはもちろん、事実関係の記録作成は欠かせない。万が一、脅迫罪や暴行罪に該当すると判断されれば、警察への通報も視野に入る。

 風間は深呼吸して受話器を取り上げると、録音機能をオンにしてから電話に出た。

「お待たせしました、営業部の風間です」 「なんだ風間、ようやく出やがったか! いいか、今すぐ俺の要求を飲まないとどうなるか分かってるんだろうな?」  鋭く突き刺さるような声。しかし風間は、社内研修で学んだとおり落ち着きを崩さない。

「承服しかねます。何度も申し上げておりますように、契約上お受けできる範囲を超えています。もしよろしければ、こちらの弁護士を交えて話し合いの場を設けませんか?」 「弁護士だと……貴様ら、俺を脅す気か!」 「いいえ、われわれとしては公正に手続きを進めたいだけです。お客さまであっても、私どもにも守られるべき権利がありますので」

 ――この一言で専務は一気に勢いを失ったのか、一方的に電話を切った。

***

 数日後。会社の会議室では、今回のカスハラ事件を受けての「再発防止策検討会」が開かれていた。法務部、総務部、そして営業部の面々が集まり、資料をもとに協議する。

 法務部の北見が刑事法上の観点を解説する。 「今回の多田専務の行為は、暴言や脅迫に該当する可能性があります。場合によっては警察への通報、刑事告訴を視野に入れてもよいかもしれません」

 総務部の新井が続く。 「内部通報窓口や苦情処理機関の設置については、すでに検討しています。今回の件を機に制度を整備し、従業員が迷わず相談できる仕組みを社内に周知しましょう」

 さらに岡林課長が口を開く。 「従業員研修も大事だな。『定期的なカスハラ対応研修』の実施を推進しよう。カスハラの定義や具体例、冷静な対応方法を、全員が知識として持っていれば慌てなくて済む。メンタルヘルスへのサポート体制も充実させるんだ」

 風間はその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。今回の件は正直、気力も体力も相当消耗した。だが会社はその辛さを理解してくれ、具体的対策に動き出している。この瞬間を見ただけでも、耐えた価値があったと感じられた。

「ところで風間、お前、大丈夫か?」  会議がひと段落ついたタイミングで、岡林課長が声をかける。 「ええ……ちょっと疲れましたが、なんとかやれています。ありがとうございます」 「何かあれば、産業医の受診や社外カウンセラーへの相談だってある。会社としてもサポートを惜しまないぞ」

 その言葉が、今の風間には救いだった。自分は一人ではない。周囲が応援してくれる。自分の“盾”を持ち続けることが、会社のみんなを守る力にもなるのだ。

***

 それからしばらくして、多田専務とのやり取りは、法務部と弁護士が窓口となり進められることになった。営業部が直接矢面に立たず、適切な距離を保ちながら対応する体制が整えられたのだ。

 結果として多田専務は、これまでの暴言や脅迫が公的な手段に問われる可能性を認識し、態度を改めざるを得なくなった。取引自体はしばし保留となったが、いずれにせよ社員への不当な要求を続けることは難しいと悟ったのだろう。

 ――こうして、長年“あの専務”に苦しめられてきた社内の空気が、少しずつ晴れやかに変わっていった。

***

 夕方、残業を終えた風間は、オフィスに残る数少ない灯りの下でマニュアルの改訂版に目を通していた。そこには「カスハラは許される行為ではなく、法律や会社のルールに基づいた適切な対処が必要」であること、そして「従業員が安心して働ける環境を守るのは会社全体の責任」であることが強調されている。

「……よし、次に誰かが悩んでいたら、今度は自分が助ける番だな」

 書類を閉じて椅子から立ち上がると、いつものようにコーヒーの空き缶を片手にごみ箱へ向かう。背筋がすっと伸びたような感覚とともに、風間の表情には安堵と自信が混じった笑みが浮かんでいた。

 カスハラの嵐に立ち向かうのは一人ではない。会社という組織が後ろ盾になり、法的な基盤が自分たちを支えてくれる。どんなに強固な壁に見えても、その鉄の扉を叩き続ければ必ず道は開く――風間はそう確信した。

 どんなに理不尽な言動にも、従業員を守る鋼の盾がある。もう二度と、社員が理不尽な暴言や脅迫にさいなまれることは許さない。そのためにも、今日も明日も、マニュアルにある「冷静かつ毅然」とした対応と、会社が結束しての取り組みを続けていくのだ。

 ――“鋼の盾”は折れない。その強い想いを胸に、風間は夜のオフィスをあとにした。

 
 
 

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