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鏡の中の青年

 下宿の部屋は、六畳という数字の割に狭かった。畳はいつもどこか湿っていて、壁紙は清潔のふりをしながら黄ばんでいる。窓の外には静岡の夜があり、電車の走る音が遠くから、周期的にこの部屋の空気を震わせていた。幹夫はその震えを、まるで「生きている証拠」のように聞き取ろうとして、すぐにやめた。生きていることを証明する必要など、本来はないはずだったのに、最近は何もかもが証明を要求してくる。

 部屋の隅に、鏡が立てかけられていた。安物の姿見で、縁の木は擦れ、銀紙の裏打ちはところどころ疲れて、映る像に微かな歪みを与える。幹夫はその歪みが好きだった。歪みは、現実より美しい嘘を作ることがある。嘘が美しいとき、人は真実よりも救われる。

 上着を脱ぐ。ネクタイを外す。シャツのボタンを一つずつ解く。これらの所作は、勤め人としての一日をほどいてゆく儀式に似ていた。やがて裸身が現れた瞬間、彼は軽い恥じらいと同時に、恥じらいを感じる自分への嫌悪を覚えた。恥じらいは肉体の純潔から生まれるのではない。精神の臆病から生まれる。

 鏡の中に、青年が立っていた。

 幹夫はその青年の肩の角度を見た。鎖骨の浅い影。胸筋の下に走る薄い線。腹のあたりの硬さ。そこには、日々の反復が刻み込まれている。腕を少し上げれば、上腕二頭筋が、いかにも自分の存在を誇示するように浮き上がる。彼はわざとゆっくり動き、筋肉の起伏が皮膚の下で起立し、沈み、また起立するのを確かめた。その線は美しい。美しいという判断が、すでに陶酔である。

 美がここにある、と彼は思った。

 しかし、その瞬間、別の声がすぐに追いかけて来た。美がここにあるなら、なぜそれは役に立たないのか、と。

 彼の肉体は、鍛えられつつあった。けれど精神は、いつも仕事場の蛍光灯の色を引きずっている。書類に判を押し、他人の言葉にうなずき、衝突を避け、疲労を笑いでごまかす――そういう生活が、筋肉の線とは別の線を、幹夫の内側に刻んでしまった。その線は、どんな鏡にも映らない。映らないからこそ、消えもしない。

 幹夫は鏡の前で、拳を握った。拳は硬くなる。手首に筋が立つ。だが拳が硬くなるほど、彼は空虚を意識した。拳が握るべきものがない。柄がない。刃がない。剣の重さがない。重さのない拳は、ただの形であり、形だけの勇気は、いちばん惨めなものだ。

 ――戦うことのない身体は、美たり得るのか。

 駿府城の天守台で自分に投げた問いが、今度は鏡の奥から返ってくる。鏡の中の青年は、答えを持っているように見えた。青年の胸の線は、答えのように明晰だった。だがその明晰さは、ただの表面である。表面の明晰さほど、人間を欺くものはない。

 幹夫は、腰をわずかに捻った。腹斜筋の線が浮かび、光がそこへ滑り落ちる。彼はその光の移動に、倒錯した快楽を覚えた。自分の肉体を眺めることは、自分を愛することのようでいて、実は自分を「物」として扱うことだ。物として扱われた身体は、ついには破壊されることを望む。破壊は、物にとって唯一の完成だからだ。

 そして、彼はぞっとした。

 自分がその完成に憧れていることに。

 鏡の中の青年は、口を結んでいた。口が語らないぶんだけ、身体が語っている。身体の雄弁さは、しばしば精神の沈黙を暴露する。幹夫は、青年が自分を嘲っているように感じた。嘲っているのは青年ではない。幹夫の中の、もっと冷たい審判者だ。審判者は言う。筋肉をいくら磨いても、そこに理念が追いつかなければ、君はただの飾り物だ、と。

 飾り物。

 その言葉が、彼の皮膚に触れた瞬間、汗が滲んだ。汗は美を汚す。汚すが、汗は同時に現実でもある。現実は汚れを伴う。幹夫は汚れを憎むくせに、汚れがなければ自分の身体は永遠に“清潔な空虚”のまま残ることを知っていた。清潔な空虚ほど、人を卑小にするものはない。

 彼は鏡に近づき、指先で自分の鎖骨のあたりをなぞった。肌は温かい。温かいのに、どこか他人のもののように感じられる。鏡が作る距離が、彼を二人に割ってしまう。

 ――ここにいるのは私か。

 ――それとも、私が欲した理想の青年か。

 答えは出ない。出ないが、出ないことそのものが焦燥を増幅する。精神が肉体に追いつかないのではない。肉体がすでに、精神を追い越してしまったのだ。追い越した肉体は、後から来る精神を待たない。待たない肉体は、やがて自分だけで完結しようとし、完結のために、何らかの劇的な終止符を欲しがる。

 幹夫は、鏡の中の青年の眼を見た。眼は濡れていない。泣く準備がない。泣く準備のない眼ほど、残酷に美しい。彼はその美しさにうっとりし、同時にそのうっとりに吐き気を覚えた。自己陶酔は、自己を拝むふりをしながら、実際には自己を軽蔑している。軽蔑があるからこそ、拝む必要が生まれる。

 やがて彼は、シャツを手に取った。白い布が、これからまた彼の肉体を隠す。布は社会の皮膚であり、社会の皮膚はいつも無臭で、いつも安全だ。幹夫は一瞬、その白を引き裂きたくなった。引き裂けば、鏡の青年は現実になる。現実になった瞬間に、青年は醜くなるかもしれない。だから引き裂けない。美は保存されることでしか成立しない――その保存こそが、彼の嫌悪の根だった。

 シャツを着ると、青年は消えた。鏡には、服を着た勤め人が映った。線は布の下へ引っ込み、光はただの蛍光灯の光へ戻り、部屋は六畳のまま、いつものように狭い。だが幹夫の内部には、まだ青年が残っていた。残っているのは像ではない。残っているのは、追いつけぬという感覚、つまり永遠に届かない距離そのものだった。

 彼は鏡を伏せようとして、やめた。鏡を伏せれば青年を殺せると思ったが、殺せるのは映像だけで、残響は殺せない。残響こそが、彼の生の不穏な音楽だった。

 幹夫は息を吸い、静かに吐いた。

 吐いた息は、鏡に一瞬の曇りを作り、すぐに消えた。曇りの消え方が、あまりにも潔く、あまりにも無意味で、彼はその無意味にひどく惹かれた。

 
 
 

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