陽光の葉先 ――「新茶の夢」続編――

第一章　きらめく朝

静岡市の外れにある茶畑の里。さわやかな初夏の風が吹き渡り、緑の海を柔らかく揺らしていた。七歳の幹夫は、小さな籠を抱えたまま、その海のほとりに立っている。見渡す限りの茶の木が、朝の陽射しを浴びて明るい黄緑色を輝かせていた。まるで一面に光の粒が降り注いでいるように見える。

「……すごいなぁ」幹夫は思わず息を呑んだ。今年は去年よりも茶葉がふっくらと育ち、風が吹くたびに葉先がきらきらと反射している。指先で一枚つまんで光に透かしてみると、葉脈が薄い金色に縁取られ、その中にほんのり赤みを帯びた若葉の色彩がにじんでいた。

一口かじってみたい衝動に駆られたが、朝露に濡れた茶葉はただ穏やかな苦みを想像させるだけで、幹夫は笑って「やっぱり淹れたほうが美味しいよね」と呟いた。まだ自分でお茶を摘むには早いと母から言われているが、去年と比べて、何となく指先の感覚が違う気がする。もしかしてもう少し大きくなったら、父や母と同じように新芽を摘めるようになるのだろうか。

ぽかぽかした陽射しを背に受けながら、幹夫はふと竹籠をのぞいた。籠の中には、朝食代わりのひと口大のおにぎりが包まれている。いつもなら家族みんなで畑へ繰り出して摘み取りをするところだが、今日は幹夫が一足先に家を出たのだ。理由は「ちょっとね、あの道を探検したくなったんだ」と祖母に告げ、こっそり出発してきた。

それは、茶畑の奥に続く細い山道。あの春に幹夫が不思議な夢――茶の精霊たちとの出会い――を経験した場所に通じる道でもある。以来、幹夫はときどき、その夢が現実だったのかどうかを確かめるために、ひとりで散策に出かけるようになったのだ。

「また、あの大きな茶の木に会えるかな……」祖母が時折話してくれる、集落でいちばん古い茶の大木――かつては龍神が宿ると伝えられ、地元の人たちが大切にしてきたと言う。その木がまるで観音様のように葉を広げ、遠い昔から畑と人々を見守っているという話を、幹夫は密かに信じていた。

第二章　光を追う足取り

朝露で濡れた畝の道を慎重に歩きながら、幹夫は時折、葉先を手でそっと撫でてみる。すると「さわさわ……」と葉同士が擦れ合い、小さな音が広がっていく。まるでどこかの森の精たちがささやき合うようで、胸がわくわくしてきた。

やがて畑の奥にある苔むした石の祠（ほこら）が見えてきた。そこは幹夫があの夢の世界への入り口だと勝手に思い込んでいる場所でもある。「おはようございます、茶の神様」幹夫は一礼して通り過ぎる。すると、背後からひゅうっと風が吹き、わずかに涼しい気配を感じた。朝日を浴びたはずなのに、不意に竹林の陰が深まったような気がする。幹夫は一瞬だけ背筋を伸ばし、振り返ったが、誰の姿もない。ただ祠の白い御幣（ごへい）がかすかに揺れていた。

そのまま竹林の小径を奥へ進む。先日まで枯れた竹の葉が堆積していた道には、淡い緑の新芽が顔を出していた。陽射しが斜めに射し込み、斑（まだら）模様の光の道が続く。まるで、どこか他所の世界へ誘われているようだ……。

幹夫は心臓が高鳴るのを感じながら、いちだんと足を速めた。すると、竹林の向こうから眩しい光があふれ出し、一面の茶畑とはまた違う、不思議な光景が目に飛び込んできた。

第三章　若葉の揺れる丘

そこは小さな丘だった。見慣れたはずの地形なのに、朝日の角度なのか、まるで見たこともない輝きに満ちている。草むらの合間に所々茶の木が自然生えしており、どれも葉がゆらゆらと風に揺れていた。

幹夫は「あれ……ここにこんな場所あったかな？」と目をこすりながら、丘の斜面を登っていく。昼前とは思えないほど空気がひんやりしていて、甘やかな花の匂いが混じっている。耳を澄ませば、鳥の鳴き声とともに、かすかに笛の音のような旋律が聞こえる気がした。

（また、あの精霊たちがいるのかな……？）期待と不安が入り混じった気持ちで丘を登りきると、そこには一本の古木が立っていた。太い幹がねじれ、そのまわりを若々しい茶の苗木たちがぐるりと取り囲んでいる。すぐに幹夫は思い出した。これは去年の幻の中で見た「龍神の木」そのものだ、と。

「あ……やっぱり、夢じゃなかったんだ……！」思わず幹夫は声を上げ、駆け寄ろうとした。しかしそのとき、背後の草むらから何かが動く気配がした。振り向くと、そこには白い手ぬぐいを頭に巻いた年配の女性……そう、前に幹夫を導いてくれた“しゃくし婆”によく似た姿があったのだ。

しかし、顔をよく見ると、以前会った婆さんとも微妙に違う。もっと若々しく、けれど凛とした雰囲気がある。幹夫が目を瞬かせていると、その女性はにこりと微笑んだ。

「珍しいねえ、こんな朝早くから、ここまで登ってきたのかい。」「え……あの……」幹夫は一瞬言葉を失う。この女性はいったい何者だろう。人間なのか、それとも精霊の一種なのか。以前会った“婆さま”と同じ霊的な存在にも見えるが、声はきわめて自然だ。

女性は幹夫の困惑など意に介さず、足もとにあった鍬（くわ）を持ち上げて土を軽く掘り返す。「ここはね、ずっと昔から茶の苗が育つ大事な場所なんだよ。古木の種がこぼれては芽を出して、自然に新しい茶の命が息づいている。人間が手をかけずとも育つのは、この地が龍神の恵みを受けているからだろうね。」

「龍神……」その言葉を聞いた瞬間、幹夫の脳裏には天空を舞う龍の姿が浮かんだ。去年、あの嵐の夜に対峙した龍神――たしかに幹夫は茶を守る力を託されたような気がしている。

「おばさんは……誰なんですか？」思い切って尋ねると、女性は涼しげな目で笑い、「私はこの辺りの茶の世話を頼まれている者さ。お前さんには縁があるみたいだから、いつか会うだろうと思っていたよ。」とだけ言った。

第四章　陽光の葉先

女性の横を通り過ぎ、幹夫は古木に近づいてみた。その枝先には、淡い若葉がこぼれるように輝いている。手を伸ばして一枚摘もうとしたが、なぜか気が引けた。これほど美しく光る葉を、自分が勝手に摘んでいいのだろうか。

「摘んでみるかい？」女性が声をかける。「きちんと“ありがとうございます”って心の中で唱えれば、木も嫌がらないよ。」幹夫はドキリとしながらも、そっと背伸びをして葉をつまむ。柔らかな葉先が抵抗なく取れ、指先に冷んやりとした感触が残った。「ありがとうございます……」と小声で呟くと、葉がぷるんと小さく震えたように見える。まるで「いいんだよ」と言っているかのようだ。

陽光に透かすと、その葉は今朝見たどの葉よりも透き通った緑色をしていた。葉脈の一つ一つが金色に縁取られて、どこまでも奥深い光を湛えている。幹夫は思わず「きれい……」と呟く。その葉を鼻先へ近づけると、甘くかぐわしい青い匂いがほんのり漂った。

「その葉は特別さ。お前さんが大切に思うなら、家へ持って帰るといい。茶として飲んでもよし、飾ってもよし。」女性は鍬を置き、腰に巻いた手ぬぐいで汗を拭いながら言う。「ただし、龍神さまの息吹が込められた葉だからね。丁寧に扱うんだよ。」

「はい、わかりました！」幹夫は少し緊張しつつも、その葉を丁寧に包んで籠に収めた。やがて女性は微笑み、「そろそろ帰りなさいな。お父さんやお母さんが待っているでしょう」と促す。幹夫は名残惜しかったが、言われてみればもう昼近いかもしれない。朝早く出たつもりが、あっという間に時間が過ぎていたのだ。

「ありがとう、おばさん。またここに来てもいい……ですか？」幹夫が聞くと、女性はひらりと手を振り、「いつでもおいで。お前さんが茶を愛する気持ちを忘れない限り、ここもお前さんを迎えるだろうさ」と応えた。

第五章　真昼の帰路

再び竹林の道を抜けると、いつもの茶畑に戻っていた。辺りはすっかり日差しが強くなり、あちこちから摘み取りをする人々の話し声が聞こえてくる。まるで先ほどまでの静謐な世界が幻だったようだ。それでも幹夫の胸には、あの特別な茶葉の匂いがまだしっかりと残っていた。

家に帰り着くと、母や父が「どこへ行ってたの！　心配したわよ」と声をかけてきた。幹夫は胸を弾ませながら、「ちょっと丘の上へ行ってたんだ。すっごいきれいな場所だったよ！」と話す。その顔が生き生きとしているのを見て、両親は苦笑しつつも、「まったく、お前は探検好きだなあ」とあきれながら目を細める。

縁側でお昼ごはんを食べる間も、幹夫はそわそわしていた。少し眠そうな祖母が「ふふっ、何かいいことでもあったのかい？」と笑うので、幹夫は「うん、すごくきれいな茶の木を見つけたんだ。あとでおばあちゃんにも見せるよ」と、籠から包みを取り出した。

包みを開けると、中にはたった一枚の新芽が鎮座していた。さきほどまで鮮やかだった黄緑色は、幾分色が濃くなっているようにも見える。しかし光を当てると、やはり葉の内側からかすかな金色がにじむ。それを見た祖母は「あらあら、ずいぶん立派な葉だねぇ。まるで宝石みたい」と感嘆の声を漏らした。

幹夫は自慢げに「これ、龍神さまの息吹が入ってるんだって！」と言おうとしたが、言葉にしようとすると不思議と声が出ない。ただ、その尊い気配が祖母や家族にも伝わってほしいと願うだけだ。

第六章　緑の言の葉

その日の夕方、幹夫は祖母とともに茶の葉をほんの少し蒸し、釜で炒ってみることにした。古来から伝わる簡易的な製茶の方法で、せっかくの貴重な葉を無駄にしないように。湯気のなかから立ち上る青く甘い香りは、やはり特別な清らかさを感じさせる。幹夫が胸を高鳴らせながら急須に入れ、お湯を注ぐと、薄い金緑色の水色がふわりと広がった。

「こんなに少しじゃあ、みんなで分けても一口ずつくらいだねぇ。」祖母は笑いながら、小さな湯呑みに注いでくれる。母と父も興味深そうにのぞき込み、幹夫が最後に受け取った茶碗には、ほんの一口分の新茶が湛えられていた。

幹夫がそっと口に含むと、爽やかな苦味と淡い甘みが舌をくすぐる。そこに加えて、不思議な透明感がある。まるで山の湧き水そのものを飲んでいるようで、体の中から清らかに洗われるようだった。母は「うわあ、すごく優しい味だね」と目を丸くし、父も「まるで空気を飲んでるみたいだ」と感心している。祖母は静かに湯呑みを置き、「ありがたいねぇ……」と繰り返した。

（やっぱり特別なんだ……この葉。）幹夫は胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。あの丘の上で出会った女性や古木のことを、このまま家族に話してもいいのだろうか。でも、どうやって話そう。言葉にしきれないほどの不思議と尊さがあり、いまここで共有するには自分だけの宝物のようにも思えた。

結局、幹夫は「うん、すごくおいしいね！」とだけ言い、湯呑みを飲み干した。その喉を通り抜けていく一滴一滴が、たしかに自分と自然をつないでくれているように感じられて、胸がじんと温かくなった。

終わりに

こうして七歳の幹夫は、新茶の光あふれる季節にまたひとつ、不思議な出会いを重ねる。陽光に照らされた若葉を通じて、龍神の息吹を感じ、何より茶がはぐくむ命の尊さを深く心に刻む。もしかすると、また来年の新茶の季節には、幹夫はあの丘を訪れ、さらに新たな秘密や物語と出会うのかもしれない。だがそれはもう少し先の話。今はただ、一口の緑茶が紡ぐ温かな時間の中で、少年は大きく息をする。——茶の葉先に宿る小さな命と、静岡の穏やかな陽だまりとが、とけ合う瞬間の輝き。幹夫の瞳はそれをしっかりと見つめていた。