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離婚協議書の空欄

 山崎行政書士事務所に、その女が来たのは、夕方の雨が駅前の舗道を黒く濡らし始めた頃だった。

 女は三十代後半に見えた。薄いグレーのコートを着て、濡れた髪を耳の後ろに押し込んでいる。化粧はしていたが、目の下の痣のような影だけは隠せていなかった。

 名刺を差し出す手は、ひどく細かった。

「立花千尋と申します」

 声は、小さかった。

「離婚協議書を作っていただきたいんです」

 山崎は向かいの席を勧めた。

「ご夫婦で離婚条件について合意はされていますか」

「ほとんどは」

「ほとんど、というと」

 千尋は鞄から折り畳まれた紙を出した。

 そこには、財産分与、慰謝料なし、年金分割、退去日、連絡方法、荷物の引き渡しなどが、細かい字で書かれていた。

 几帳面というより、怯えた人間が何度も書き直した字だった。

 山崎行政書士事務所では、離婚協議書や内容証明、契約書、相続関係の書類などを扱う。感情を裁くことはできないが、合意した内容を曖昧なままにしないための書面を整えることはできる。

 だからこそ、山崎は最初に必ず聞く。

「これは、あなたの意思ですか」

 千尋は顔を上げた。

「はい」

「ご主人に言われて来たのではなく」

 その瞬間、彼女の喉が小さく動いた。

「私の意思です」

 山崎は、紙に目を落とした。

 夫の名前は、立花慎吾

 市役所勤務。福祉課の係長。地域では評判の良い公務員だという。町内会の防災訓練にも顔を出し、高齢者の見守り活動にも参加し、役所では「困った人に親身な立花さん」と呼ばれている。

 書類上の夫は、善人だった。

 だが、千尋の手首には、時計で隠しきれない古い傷跡があった。

「お子さんはいらっしゃいますか」

 山崎が尋ねると、千尋の指が止まった。

「……います」

「未成年のお子さんですね」

「はい」

「では、親権者、養育費、面会交流について協議書に記載する必要があります」

 千尋は黙った。

 紙の中で、親権欄だけが空白だった。

 他の項目は異様なほど細かい。食器棚の処分、車の名義、通帳の返却日、夫からの連絡はメールに限ることまで書かれている。

 なのに、子どもの欄だけが、白い穴のように空いていた。

「お子さんのお名前は」

 千尋は唇を開いた。

 しかし、声が出なかった。

「言えませんか」

「言ったら」

「はい」

「戻ってきてしまう」

 山崎はペンを置いた。

「戻ってきてしまう、とは」

 千尋は急に笑った。

 それは笑いというより、喉の奥で何かが壊れる音だった。

「先生、変なことを言ってすみません。親権欄は、あとで埋めます。今日はそのほかのところだけ」

「お子さんのことを避けたまま、離婚協議書は作れません」

「お願いします」

 千尋は頭を下げた。

「ここだけ、空欄のままにしてください」

 その額が机につくほど深く下げられた時、山崎は思った。

 この女は、夫から逃げようとしている。

 だが、本当に逃がしたいものは、自分ではない。

     *

 翌日、山崎は慎吾と面談した。

 立花慎吾は、完璧な笑顔で事務所に現れた。

 紺のスーツ、磨かれた靴、整えられた髪。声は穏やかで、言葉遣いは丁寧だった。

「妻がお世話になっています。お恥ずかしい話ですが、夫婦としてはもう限界でして」

「離婚条件について確認させてください」

「もちろんです。私は争うつもりはありません。彼女が望むなら、できるだけ穏便に」

 穏便。

 その言葉を、慎吾は何度も使った。

 穏便に別れたい。

 穏便に終わらせたい。

 穏便に、彼女を刺激しないように。

 その優しげな言葉の端々に、千尋を「不安定な女」として扱う匂いがした。

「お子さんについてですが」

 山崎が切り出すと、慎吾は微笑んだまま首を傾げた。

「子ども?」

「千尋さんは、お子さんがいるとおっしゃいました」

 慎吾の笑みが一瞬だけ固まった。

 だがすぐに、困ったように眉を下げた。

「ああ、それですか」

「それ?」

「妻は、以前から少し精神的に不安定でして。子どもがいると思い込んでいる時期があったんです」

「思い込み?」

「流産したことがありました。その後、空想の子どもの話をするようになって」

 慎吾は胸元からハンカチを出し、目元に当てた。

 涙は出ていなかった。

「私もできる限り支えました。でも、彼女は私を支配者だと言い、近所の人にも妙なことを言って回った。先生、妻の言葉をすべて真に受けないでください」

「戸籍上、お子さんはいないということですか」

「少なくとも、私たちの間に現在養育すべき子はいません」

「現在、という言い方をされるのですね」

 慎吾の目が、ほんのわずかに鋭くなった。

「行政書士の先生なら、書類を見れば分かるでしょう」

「はい。だから確認します」

 山崎は静かに言った。

「書類は、嘘を隠すこともありますから」

 慎吾の笑顔が消えた。

     *

 山崎は、千尋の委任を受けて戸籍や住民票関係の記録を確認した。

 そこには、子どもの名前があった。

 立花紬。

 つむぎ。

 出生の記載がある。父、慎吾。母、千尋。

 だが、その後が奇妙だった。

 数年前、紬は千尋の住民票から抜けている。転居扱いになっていた。しかし、転居先の記録は途中で途切れていた。通常なら続くはずの生活の痕跡が、ある地点から先、紙の上で薄く消えている。

 死亡届はない。

 養子縁組もない。

 施設入所の明確な記録もない。

 学校の在籍情報も、不自然に途切れていた。

 まるで、子どもが一枚の紙の端から、現実の外へ滑り落ちてしまったようだった。

 山崎は立花夫妻が住んでいた住宅街を歩いた。

 古い分譲地で、住民同士の距離が近い。玄関先の植木鉢、掲示板の回覧板、町内会の防犯ポスター。そこには地域の温かさと同時に、他人の家の悲鳴を聞かなかったことにする冷たさがあった。

「あの家に子ども?」

 隣家の主婦は、眉をひそめた。

「いませんでしたよ。奥さんが時々、子どもの服を干していたことはありましたけど、あれは……ねえ」

「ねえ、とは」

「立花さんがおっしゃってました。奥さん、気持ちが弱いから、赤ちゃんを亡くしたことを受け入れられないんだって」

 向かいの老人も同じことを言った。

「市役所の立花さんは立派な人だよ。奥さんのこともよく面倒見ていた。夜中に泣き声が聞こえたことはあるが、子どもじゃなく奥さんだろう」

「子どもの声を聞いたことは」

 老人は口を閉じた。

 その一瞬の沈黙が、答えだった。

「聞いたことはありませんか」

「……昔は、あったかもしれん」

「昔?」

「でも、立花さんが言っていた。奥さんが録音を流しているんだと。子どもがいると思いたくて」

 町は、夫の説明を選んだ。

 その方が楽だったからだ。

 公務員の夫。

 不安定な妻。

 その構図に当てはめれば、夜の泣き声も、小さな靴も、庭に落ちた赤い髪留めも、すべて「奥さんの妄想」で片づけられた。

 人間は、見たくないものを見ないためなら、どんな筋書きでも信じる。

     *

 山崎行政書士事務所には、古い相談記録が残っていた。

 三年前の冬。

 匿名の電話相談。

 受付メモにはこう書かれている。

 近所の子どもが長期間姿を見せない。 母親は「遠くへ行った」と言う。 父親は「妻の妄想」と言う。 相談者、通報を迷う。

 相談者の名前は残っていない。

 ただ、最後に一文があった。

 子どもは「つむちゃん」と呼ばれていた。

 山崎は背筋が冷たくなった。

 紬は、いた。

 誰かは見ていた。

 だが、その誰かも最後には沈黙した。

 地域の沈黙は、時に加害者の共犯になる。

 たとえ悪意がなくても。

     *

 千尋は、二度目の面談で何も話そうとしなかった。

 山崎が紬の戸籍記録と住民票の途切れを示すと、彼女の顔から血の気が引いた。

「調べたんですね」

「離婚協議書を作るには、お子さんの存在を確認する必要があります」

「作らなければよかった」

「千尋さん」

「先生も同じです」

 千尋の声が震えた。

「書類、書類、書類。慎吾もそうでした。『紙にないものは存在しない』って。『お前の言うことより、記録の方が正しい』って」

「私は、記録だけが正しいとは思っていません」

「でも記録がなければ、誰も信じてくれない」

「だから、確認しています」

 千尋は両手で顔を覆った。

 しばらくして、指の隙間から声が漏れた。

「紬は、夫に殺されると思いました」

「虐待があったのですか」

「殴るだけなら、まだ説明できたかもしれません」

 千尋は顔を上げた。

「慎吾は、紬を壊そうとしていました」

 その言葉は、静かで、重かった。

「食べる時間を決める。泣く時間を決める。笑う声の大きさを決める。間違えたら、椅子に座らせて何時間も謝らせる。『お母さんは病気だから、紬がしっかりしないと』と毎晩言う。私には『お前が不安定だから、この子までおかしくなる』と言う」

 千尋の目に、涙はなかった。

 涙を流す時期は、とうに過ぎていたのだろう。

「外では優しい父親でした。町内会では子どもにお菓子を配る。役所ではひとり親支援の担当。学校でも先生たちに丁寧に挨拶する。誰も信じてくれませんでした」

「相談はしましたか」

「しました」

「どこへ」

「いろいろなところへ」

 千尋は笑った。

「全部、夫の知り合いでした」

 山崎は黙った。

 慎吾は市役所の福祉課係長。

 制度の窓口を知っている男は、制度の隙間も知っている。

「ある日、紬が言いました」

 千尋の声が小さくなった。

「『お母さん、私、紙から消えたい』って」

 山崎はペンを握る手を止めた。

「それで、あなたは」

「消しました」

 千尋は言った。

「私が、紬を消しました」

     *

 その告白は、事件の終わりではなかった。

 むしろ始まりだった。

 千尋は詳細を語ろうとしなかった。山崎が問うても、首を横に振るだけだった。

「どうやって消したのですか」

「言えません」

「誰かの協力がありましたか」

「言えません」

「紬さんは生きていますか」

 千尋は初めて、山崎をまっすぐ見た。

「生きています」

「どこに」

「言えません」

「なぜ、今になって離婚協議書を」

 千尋は唇を噛んだ。

「夫が、探し始めたからです」

「慎吾さんが?」

「最近、私の荷物を調べるようになりました。古い服、写真、母子手帳、全部。『そろそろ空想の子どもを終わらせよう』と言って」

「離婚すれば安全になると?」

「いいえ」

 千尋は首を振った。

「離婚協議書に親権欄を空欄のまま残せば、夫は気づくと思いました。私がまだ紬を守っていることに。だから先生に頼んだんです」

「つまり、私を巻き込むためですか」

 千尋は目を伏せた。

「はい」

 山崎は息を吐いた。

 怒りはあった。

 だが、それ以上に、この女が何年ものあいだ、どれほど孤独に嘘を抱えてきたかが見えた。

「千尋さん。紬さんが生きているなら、書類上存在しないままにはできません」

「戻せば、慎吾に見つかります」

「戻さなければ、紬さんは医療も教育も、将来の身分証明も、すべて奪われます」

「それでも生きていればいい!」

 千尋は叫んだ。

 事務所の窓が震えた。

「紙の上で存在して、夫に殺されるくらいなら、どこにもいない子として生きていた方がいい!」

 その声には、母親の愛と狂気が混じっていた。

 山崎は静かに言った。

「紙から消えることは、生きることではありません」

 千尋は泣き崩れた。

「じゃあ、どうすればよかったんですか」

 山崎は答えられなかった。

 その問いに、簡単な正解などなかった。

     *

 慎吾は、三度目の面談で本性を見せた。

「妻に余計なことを吹き込むのはやめていただけますか」

 山崎事務所の応接室で、慎吾は低く言った。

「私は事実確認をしているだけです」

「事実なら私が話しています。子どもはいません」

「戸籍には、紬さんの出生記載があります」

 慎吾の顔から笑みが消えた。

「妻の妄想に付き合うつもりなら、先生も危ないですよ」

「どういう意味ですか」

「行政書士としての信用がありますよね」

 慎吾はゆっくり身を乗り出した。

「家庭の問題に深入りして、虚偽の記録や不明児童の話に関わる。先生の事務所が妙な噂にならなければいいですが」

「脅しですか」

「忠告です」

「では、こちらからも忠告します」

 山崎は慎吾を見た。

「離婚協議書は、夫婦の一方を黙らせるための道具ではありません。まして、子どもの存在を消すための紙でもありません」

 慎吾は笑った。

「先生は、何も分かっていない」

「何をですか」

「あの女は母親じゃない」

 慎吾の声は冷たかった。

「紬を消したのは千尋です。私は探した。何度も探した。だが、あの女は隠した。母親の顔をして、娘の人生を壊した」

「あなたは紬さんに何をしたのですか」

「教育です」

 即答だった。

「人は正しく育てなければならない。泣けば許される、弱ければ助けられる、女だから守られる。そんな甘えを叩き直していただけです」

「それを虐待と言います」

 慎吾の目が細くなった。

「言葉は便利ですね。先生方の仕事もそうでしょう。紙に書けば、何でもそれらしく見える」

「紙に書いても、事実は変わりません」

「変わりますよ」

 慎吾は立ち上がった。

「この町では、私が事実です」

 その瞬間、山崎は理解した。

 千尋が恐れたのは、夫の暴力だけではない。

 慎吾が持つ「信用」だった。

 地域の善人。

 役所の顔。

 制度を知る男。

 そういう人間が家庭の中で牙を剥いた時、被害者の声は、妄想として処理される。

 千尋はその世界から紬を逃がすために、紬を紙から消した。

     *

 手掛かりは、古い母子手帳の間に挟まれていた。

 千尋が山崎に預けた荷物の中に、小さな赤い髪留めと一枚の写真があった。

 写真には、幼い紬が写っている。

 隣には、白髪の女性。

 その背後に、古びた看板が見えた。

 海鳴り文庫

 山崎はその名前を調べた。

 隣県の海沿いにある、小さな古書店だった。

 店主は、相原澄子

 元小学校教諭。

 三年前に閉店し、その後の所在は不明。

 山崎は過去の相談記録をもう一度見た。

 匿名相談のメモの端に、受付担当者が書いた小さな文字があった。

 声、年配女性。教育関係者か。

 相原澄子。

 彼女が、紬を見た人間だったのか。

 そして、沈黙した人間だったのか。

     *

 海鳴り文庫は、もう店ではなかった。

 潮風に錆びたシャッター。色褪せた看板。窓の内側には、売れ残った本が積まれている。

 裏口から出てきた老女は、山崎の名刺を見るなり顔を強張らせた。

「山崎行政書士事務所……」

「以前、お電話で相談されましたか。立花紬さんのことで」

 老女は黙った。

「相原澄子さんですね」

「帰ってください」

「紬さんはどこですか」

 澄子の目が揺れた。

「知りません」

「生きていますね」

「帰って」

「書類上、紬さんは途切れたままです。このままでは、現実の世界に戻れなくなります」

 澄子は山崎を睨んだ。

「現実の世界?」

 声が震えていた。

「あの子にとって、現実は地獄でした。父親は笑顔であの子を縛り、母親は泣きながら嘘をついた。近所は見ないふりをした。学校は家庭の事情と言った。役所は書類を見ろと言った。じゃあ、あの子はどこへ逃げればよかったんですか」

「だから、あなたが匿った」

「違います」

 澄子は扉に手をかけた。

「匿ったんじゃない。取り返したんです」

「取り返した?」

 老女の顔が、悲しみで歪んだ。

「紬は、私の孫です」

 山崎は言葉を失った。

「千尋は、私の娘です。二十年前、家を出ました。私の再婚相手から逃げるために。私は娘を守れなかった。千尋は、私を母親と思っていません」

「では、千尋さんはあなたに紬さんを」

「預けたのではありません」

 澄子は言った。

「ある夜、千尋が紬を連れて来た。顔を腫らして、裸足で。『この子をいなかったことにして』と言いました」

 潮風が、古い本の匂いを運んできた。

「私は最初、警察へ行こうと言いました。児童相談所へ行こうと。でも千尋は笑った。『慎吾は全部知っている。全部先回りする』って。あの子の目を見て、私は分かりました。あの子はもう、制度を信じていなかった」

「それで、紬さんを消した」

「ええ」

 澄子は頷いた。

「私は教師でした。子どもを現実から消すことが、どれほど恐ろしいか分かっていました。それでも、あの時はそうするしかないと思った」

「紬さんは、今どこに」

 澄子はしばらく沈黙した。

 やがて、奥の部屋へ向かって言った。

「紬」

 古書店の奥から、足音がした。

 現れた少女は、十歳ほどに見えた。

 細い体。

 切り揃えられた髪。

 古い紺色のセーター。

 手には、擦り切れた児童書を抱えていた。

 顔立ちは千尋に似ていた。

 だが目だけは、慎吾のように静かで、油断なく人を見ていた。

「あなたが、山崎先生?」

 少女が言った。

「はい」

「お母さん、離婚できる?」

 その第一声に、山崎は胸を突かれた。

「そのために、話を聞きに来ました」

「私が戻ったら、お父さんも戻ってくる?」

「簡単には言えません」

「大人はいつもそう」

 紬は小さく笑った。

「簡単には言えません。確認します。手続きがあります。様子を見ましょう。その間に、子どもは大きくなります」

 十歳の子どもの言葉ではなかった。

 大人たちの逃げ口上を、何度も聞かされて育った子どもの言葉だった。

「紬さん」

 山崎は膝を折り、目線を合わせた。

「あなたは、戻りたいですか」

 澄子が息を呑んだ。

 紬は山崎をじっと見た。

「紙に?」

「紙にも。学校にも。病院にも。あなたの名前が必要な場所に」

「戻ったら、お父さんの子になる?」

「法律上は、今もそうです」

 紬の唇が震えた。

「じゃあ、戻りたくない」

「でも、このままでは、あなたは何も選べなくなります」

「選ぶ?」

「はい」

「お父さんと暮らすか、隠れて暮らすか。それしかないのに?」

 山崎は、静かに言った。

「違います。その二つ以外の道を作るために、戻る必要があります」

 紬は黙った。

 しばらくして、抱えていた本を胸に押し当てた。

「お母さんは、私を捨てたの?」

「いいえ」

「じゃあ、どうして会いに来ないの」

 山崎は答えに詰まった。

 澄子が涙声で言った。

「紬、お母さんは」

「おばあちゃんは黙ってて」

 紬の声は鋭かった。

「私は、ずっと誰かのために消えていた。お母さんのため。おばあちゃんのため。お父さんから逃げるため。もう嫌だ」

 その言葉が、部屋に落ちた。

 誰も何も言えなかった。

 紬は山崎を見た。

「先生。私、名前を取り戻したら、お母さんを恨んでもいい?」

 山崎は頷いた。

「いいと思います」

「お父さんを嫌ってもいい?」

「いいです」

「おばあちゃんに怒ってもいい?」

「それも、あなたの気持ちです」

 紬の目から、大粒の涙が落ちた。

「じゃあ、戻る」

 彼女は初めて、子どもらしく泣いた。

「私、消えたまま大人になりたくない」

     *

 千尋と紬の再会は、美しいものではなかった。

 山崎事務所の応接室で、母娘は三年ぶりに向き合った。

 千尋は椅子から立ち上がることもできなかった。

「紬」

 その声は、祈りのようだった。

 紬は母を見た。

「お母さん、私を守ったの?」

「うん」

「私に聞かないで?」

 千尋の顔が歪んだ。

「ごめん」

「私、ずっと待ってた」

「ごめん」

「お母さんが迎えに来ると思ってた」

「ごめん」

「でも来なかった」

「ごめんなさい」

 千尋は床に崩れ落ちた。

 紬は泣かなかった。

 泣いている母を見下ろし、ただ言った。

「私、お母さんを許すか分からない」

「うん」

「でも、お父さんのところには戻らない」

「うん」

「私の名前、返して」

 千尋は顔を上げた。

 その言葉で、ようやく母親の目になった。

「返す。絶対に」

 山崎はその場で、離婚協議書の親権欄を埋めなかった。

 もはや、夫婦二人だけで協議して済む話ではなかった。

 子どもの安全、本人の意思、関係機関との連携、法的な保護、住民記録の是正、学校や医療につながる道。行政書士としてできる書類整理と専門機関への橋渡しはある。けれど、すべてを一人で抱えてよい案件ではない。

 山崎行政書士事務所は、書類を作る場所だ。

 だが、作ってはいけない書類を止める場所でもある。

     *

 慎吾が逮捕されたわけではない。

 少なくとも、すぐには。

 世の中の悪は、物語のように分かりやすく裁かれない。

 彼は職場ではまだ「立花さん」と呼ばれ、近所の人々は「あの奥さん、やっぱり何かあったのね」と囁いた。誰も、自分たちが何を見なかったのかを語ろうとはしなかった。

 だが、慎吾は初めて焦った。

 紬が生きている。

 千尋が黙らない。

 澄子が証言する。

 山崎が記録を整理している。

 そして何より、紬自身が話し始めた。

「お父さんは、私を正しくすると言いました」

 紬は関係者の前で、震えながら言った。

「でも私は、正しくなくていいから、生きていたかった」

 その言葉は、どんな診断書より重かった。

     *

 数週間後。

 山崎行政書士事務所の机の上には、新しいファイルが置かれていた。

 表紙には、こう記されている。

 立花紬 身分関係・生活再建資料

 離婚協議書の空欄から始まった案件は、もはや一枚の協議書では収まらなかった。

 戸籍。

 住民記録。

 学校関係。

 保護に関する相談記録。

 母子の今後の生活。

 慎吾との接触を避けるための取り決め。

 専門職や支援機関への連絡メモ。

 それらを一つずつ整理しながら、山崎は思った。

 書類は、人を消すことがある。

 だが、書類は人を戻すこともできる。

 少なくとも、戻るための道筋を示すことはできる。

 その日、千尋が紬を連れて事務所に来た。

 紬はランドセルを背負っていた。

 まだ正式にすべてが整ったわけではない。だが、彼女は近くの支援教室に通い始めることになっていた。

「先生」

 紬が言った。

「私、名前を書けるように練習しました」

 彼女は小さな紙を差し出した。

 そこには、少し歪んだ字で書かれていた。

 立花紬

 山崎はその紙を受け取った。

「きれいな字ですね」

「うそ」

「本当です」

「じゃあ、先生のところに置いておいて」

「なぜですか」

 紬は少し考えて言った。

「私が消えそうになったら、ここにあるって分かるから」

 千尋が泣きそうな顔をした。

 山崎は紙を透明なファイルに入れた。

「預かります」

 紬は頷いた。

 その時、事務所の電話が鳴った。

 山崎が受話器を取ると、無言だった。

 数秒後、慎吾の声が聞こえた。

「先生」

「はい」

「あの子は、私の娘です」

 山崎は紬を見た。

 紬はその視線に気づき、まっすぐ顔を上げた。

「いいえ」

 山崎は静かに言った。

「紬さんは、紬さん自身です」

 電話の向こうで、慎吾が何かを言おうとした。

 山崎は続けた。

「今後の連絡は、定められた窓口を通してください。これ以上、直接の接触を試みるなら、記録として残します」

 電話は切れた。

 千尋の肩が震えていた。

 紬はランドセルの肩紐を握りしめていた。

 山崎は受話器を置いた。

     *

 離婚協議書の親権欄は、最初、空欄だった。

 そこには、母の恐怖があった。

 父の支配があった。

 地域の沈黙があった。

 行政手続きの隙間があった。

 そして何より、一人の子どもが「存在しないこと」にされて生き延びた三年間があった。

 後日、山崎行政書士事務所の棚には、立花紬のファイルが収められた。

 その最初のページには、紬が書いた自分の名前が入っている。

 まだ、何も終わっていない。

 千尋が罪悪感から自由になる日は遠い。

 紬が母を許すかどうかも分からない。

 慎吾が完全に沈黙するとも限らない。

 それでも、紬はもう紙の外にいない。

 彼女は名前を持ち、声を持ち、怒る権利を持ち、未来を選ぶための場所へ戻り始めている。

 山崎はファイルを閉じた。

 窓の外では、雨がやんでいた。

 駅前の信号が青に変わり、人々が一斉に歩き出す。

 その流れの中に、いつか紬も入っていくのだろう。

 誰かの娘としてではなく。

 誰かの所有物としてではなく。

 消された子どもとしてでもなく。

 ただ、立花紬という一人の人間として。

 
 
 

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