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第1章 潮のない波音   雨と霧の国書(くにぶみ)—日本建国、風土の記憶 

第一部「白い世界の輪郭」

第1章 潮のない波音

まだ岸がないのに、波は音を持っていた。名もない水のひろがりが、名もない空を押し返し、押し返された空が、また水を撫でて戻る。そこには潮もなく、ただ“揺れ”だけがあった。

御前は、思っていたより乾いていた。

雨の気配をまとって廊下を歩いてきた私の袖は、広い板間に入った途端、場違いな匂いを放った。濡れた木と土の匂いが、香の匂いに混ざると、まるで田に香を焚いたみたいに、少しだけ不自然になる。

上座に座る方の言葉は短かった。

「国の始まりを整えよ」

それだけで、済ませてしまえると思っている口ぶりだった。国の始まりは、短い言葉で済むものだと。済むように見せるのが私たちの仕事だと。

「異伝が多うございます」私は言った。言ってしまった。言わずに飲み込めるほど、私の喉はまだ達観していない。

上座の方は眉を動かしただけで、顔色を変えない。

「多いなら、選べ」

選べ、と来た。

雨も選べたら、都合が良いのに。稲に降る雨だけを選び、旅に降る雨を避け、書く日にだけ降る雨をやめさせる。そうしたいのは人間の常で、空の常ではない。

「人心を乱すことなきように」上座の方は続けた。「誰が読んでも、道が見える文にせよ」

道が見える文。一本の道。迷いのない道。けれど国の始まりにあったのは、道ではない。道以前の泥だ。道以前の湿り気だ。歩けば足跡が残り、残った足跡がまた誰かの足を誘う――そうやって、いつの間にか道になってしまう、心もとないものだ。

私は頭を下げた。

「承りました」

承った、とは言った。だが胸の内で、もうひとつ別の返事が湿り気を帯びて膨らんでいた。

――選べるわけがない。異伝は、国土の癖なのだ。

編纂局へ戻ると、ナガタが待っていた。彼は布を掛けた紙束の上に両手を置き、まるで重病人の胸に手を当てるように静かにしていた。紙は病でもないのに、守りたくなる。

「どうだった」「短かった」「短いのは、だいたい無茶ぶりだ」

私は濡れた袖を振り、墨台の前に座った。硯の水面はまだ冷たく、朝の雨の音がどこかに残っているようだった。

「“選べ”だそうだ」私が言うと、ナガタはため息をひとつ、紙束に落とした。

「選ぶのは好きだよな、上は。……で、何から始める」

何から始める。

国の始まりは、始め方で決まってしまう。始め方が、その国の癖になる。だから始め方を誤ると、後で何度も書き直す羽目になる。私たちが一番恐れるのは、神の怒りより、書き直しだ。書き直しは神でも救えない。

私は筆を持ち、しばらく墨に触れずに硯の縁を見た。黒い石の表面に、薄い水の膜がある。膜の上で、光が小さく揺れている。

「“はじめ”の前だ」私は言った。

「……は?」ナガタが顔を上げた。

「天地が分かれる前。名が付く前。岸ができる前。潮がまだ潮じゃない頃だ」「そんなの書けるのか」「書けるふりをするのが仕事だろう」

ナガタは笑いかけて、笑いきれなかった。笑いきれないところが、今日の天気に似ている。

「でも、日本書紀は“書”だ。言葉がないところに言葉を置くのは、いつだって乱暴だぞ」

乱暴。そうだ。言葉は乱暴だ。名づけるだけで、世界の輪郭を勝手に決める。水を水と言った瞬間、私たちはもう“水ではないもの”を切り捨てる。湿りと霧と湯気と、涙と汗の区別が立ってしまう。

それでも、置くしかない。

私は墨を摺り始めた。石が墨を削る音が、雨上がりの川底の小石を転がす音に似て、腹の奥を静かにする。墨の匂いが立つと、部屋の空気が少しだけ締まる。匂いは、世界の輪郭を作る。

「最初の一行だ」私は言った。

筆が紙の上に触れる直前、紙がわずかに息を吸ったように見えた。紙も、湿り気を欲しがる。

私は書いた。

――古、天地未だ剖けず、陰陽も分かれず。

書きながら、頭の内側に、まだ誰も見たことのない景色が浮かんだ。浮かんだ、というより、湿り気が形を取った。

そこには、岸がない。

海という言葉を使うのも違う。海という言葉は、どこかに陸がある前提でできている。陸がないのに、海とは言えない。だから、ただ“水”だ。水のひろがり。ひろがりという言葉も怪しい。ひろがるには、端が要る。端がないのに、ひろがりと言ってしまうのは、人間の癖だ。

それでも、その水は揺れていた。

揺れには理由が要る。だが、理由はまだ生まれていない。生まれていないのに揺れている。その揺れが音になっている。音があるということは、誰かの耳があるということだろうか。いや、耳はない。聞く者はいない。ただ、音は音としてそこにある。

潮がない。満ち引きがない。月がまだ月の役を持っていない。時間もまだ役を持っていない。役がないから、遅いも早いもない。ただ揺れだけがある。

揺れは、やがて霧を生む。

霧は水のため息だ。ため息は、命がある証だ。命があるかどうかも決まっていないのに、ため息のような霧が漂う。霧が漂うと、空と水の境が曖昧になる。曖昧になると、境界が欲しくなる。欲しくなると、境界が生まれる。世界は、欲しがることで形になる。

――一書曰く、世界は混沌の中に鶏卵の如し。

ナガタが紙束から抜き出してきた異伝の一枚を、私は思い出した。鶏卵、と書くと、急に台所の匂いがする。混沌が、急に生活に近づく。卵は割れば白身が流れ、黄身が丸く残る。世界もそうやって分かれるのだと書くのは、妙に納得がいく。

けれど、卵に例えると、今度は“割る手”が必要になる。

誰が割った? 誰が最初に手を伸ばした?

――一書曰く、清きものは上に昇りて天となり、濁きものは下に沈みて地となる。

それなら、手はいらない。勝手に分かれる。分かれるというより、そうなってしまう。重いものは沈む。軽いものは昇る。国の始まりが、物理の顔をする。雨が下へ落ちるのと同じだ。私たちがどう願っても、雨は落ちる。重力に従う。

だが、従うだけでは、物語が冷える。物語には、体温が要る。体温があるから、読んだ人の胸の中で続く。

私は筆を走らせながら、紙の上に“揺れ”を残そうとした。言葉の中に、境界以前の湿り気を混ぜようとした。そうしないと、この国の匂いが消える。

「で、どうする。“鶏卵”を採るか、“清濁”を採るか」ナガタが言った。彼はもう異伝の束を広げ、紙の上に小さな国を作っている。紙の国。異なる始まりが隣り合い、互いに知らん顔をしている。

「どっちも採りたい」私は言った。「採れるわけないだろ」「採れないなら、採れるように書く」

ナガタは肩をすくめた。

「上は“道が見える文にせよ”だぞ。混沌を混沌のまま残したら、迷子が出る」「迷子が出るのは、国がある証だ」「屁理屈」「屁理屈は、国を支える」

私は笑った。少しだけ。

笑った瞬間、雨の音が弱くなった気がした。笑いは空に届かない。それでも、部屋の中の空気の湿り気は、わずかに軽くなる。軽くなると、筆が滑る。

「最初に書くのは、“音”だ」私は言った。「音?」「潮のない波音。まだ岸がないから、波はどこにも届かない。でも、波は音を持つ。届かない音がある。届かないものを、私たちはいつだって書こうとしてきた」

ナガタはしばらく黙った。黙って、紙を一枚、指でなぞった。紙の繊維の感触を確かめるように。

「……届かない音、か」彼は小さく言った。「それなら、“神”の名前も届かないな」「届かないから、名前を付ける」「付けた瞬間、届いてしまう」

その言い方が、妙に叙情的で、ナガタが言ったとは思えなかった。雨の日は人を詩人にする。困ったものだ。

私は、墨の濃さを整えた。濃すぎると黒が勝ってしまう。薄すぎると、言葉が霧に負ける。どちらも嫌だ。国の始まりは、濃淡の調整から始まる。

私は次の一行を書いた。

――時に、其中に神有り。名づけて……

筆が止まる。止まったのは、私のせいではない。神の名が長すぎるのだ。

神々は、自分の名前の長さを知らない。名は、人が呼ぶためにあるのに、神は呼ばれる前に生まれる。だから、呼びづらい名を持つ。呼びづらい名は、書きづらい名だ。

「ほら来た」ナガタが言った。案の定という顔をしている。「来たな」「来た。……で、どれ採用する」「どれも採用したい」「また言った」

私は紙束の中から、異伝の中でも一番“空っぽ”に近いものを探した。神が少ないもの。説明が少ないもの。余白が多いもの。余白が多いと、風土が入れる。

「最初は、少なく書く」私は言った。「少なく?」「名を並べすぎると、国が名簿になる。名簿になった国は、匂いがしない」

ナガタは笑った。今度は、ちゃんと笑った。

「匂いがする国、ね。上が聞いたら怒るぞ」「上は匂いに弱い。香を焚くくらいだからな」「それはそうだ」

私は続けた。

――名づけて、国常立尊と曰ふ。

書きながら、胸の奥で、ひとつの“立つ”が起きた気がした。立つ、という行為は、地面が必要だ。地面がないのに立つ神。つまり、立ったのは地面の方だ。立つ神が生まれたのではなく、立てる“常”が生まれた。常が生まれると、世界は少しだけ落ち着く。落ち着くと、次の混乱を呼べる。

雨がまた強くなった。遠くで雷が鳴った気がした。空が、自分も物語に参加したいと言っている。

私は筆を置き、紙の上の黒を眺めた。黒は乾きかけ、乾ききらず、墨の匂いをまだ残している。その匂いが、さっきまで“岸のない水”だったものに、輪郭を与えている。

――潮のない波音。

届かない音は、言葉の中で届き始める。届き始めた瞬間、世界は次の段階へ行く。天と地を、分けたくなる。柱を立てたくなる。中心を作りたくなる。

ナガタが紙束を閉じ、言った。

「次は、“中心”だな」「そうだ」私は頷いた。「見えない中心。天の柱。……そして、やり直しの予感」

ナガタは嫌そうに顔をしかめたが、どこか嬉しそうでもあった。やり直しは地獄だが、やり直しがあるから国は“丁寧”になる。丁寧さは、風土の生存戦略だ。台風が来ても、雪が降っても、また作り直す。その癖が、国を長持ちさせる。

私は硯の水面を見た。波紋が小さく広がり、消えた。潮のない波音が、ほんの少しだけ近づいた気がした。

次の章の題が、自然に口の中に浮かんだ。

――天の柱、見えない中心。

私はまた墨を摺り始めた。雨の音と墨の音が重なり、部屋の湿り気が、少しだけ“始まり”の匂いに変わっていく。

 
 
 

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