雨のバス停・時刻の方程式(舞台:静岡市清水区 御門台)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月27日
- 読了時間: 5分

幹夫青年は、御門台の坂を下りきったところの、小さなバス停の屋根の下に立ってゐました。 屋根は低く、板は薄く、しかし雨を受けるには十分です。 雨は、強くはありません。けれど、やめる気もありません。
ぽつ。 ぽつ。 たた。
屋根に当たる雨の音は、板の厚さで少し変はります。 薄い板は、雨をそのまま教へます。 ――いま、落ちた。 ――いま、また落ちた。 音が短いから、言ひ訳が入りこめません。
幹夫が息を吐くと、白い息がふうっと出て、雨の湿り気に触れて、すぐほどけて消えました。 消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。
(ことばも、白い息みたいならいい。 出て、消えて、でも少しあたたかい。)
けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。
――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」
そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。
バス停の柱に、時刻表が貼ってありました。 透明なカバーの中で、数字が並んでゐます。 雨粒がそのカバーを伝って、縦の線になり、数字の上をゆっくり滑りました。 数字が濡れても、数字は変はりません。 変はらないものがあると、人は少し落ち着きます。
幹夫は、時刻表の数字を見ました。 次のバスまで、あと何分。 “あと何分”といふのは、時計の上ではただの差です。 けれど雨の中では、その差に温度がつきます。 寒い差。 あたたかい差。 待つといふことが、皮膚の上に出るからです。
雨は舗道にも落ちてゐました。 雨粒がアスファルトへ当たり、いちどだけ白い点になって、それからすぐ闇へ溶けます。 点はたくさん落ちるので、やがて地面の上に、見えない方眼紙が出来ていくやうに思へました。 点が打たれれば、座標ができる。 座標ができれば、式が書ける。
(舗道が、方程式を受け取ってゐる。)
幹夫は、そう思ひました。 方程式は、叱りません。 ただ「成り立つかどうか」を静かに示すだけです。 胸の裁判官の机の音は、いつも叱りの音なので、幹夫は、式の静けさが好きでした。
そのとき、バス停の向うから、傘の骨が少し歪む音がしました。 見れば、学生らしい女の子が、小さな傘を持って走って来ます。 走ると、雨が透明な粉になって跳ね、靴のまはりに小さな輪を作りました。
「……すみません、次、来ますか」
女の子の声は、雨の音に少し削られて、短く届きました。 削られると、余計な飾りが落ちます。 落ちた声は、まっすぐです。
幹夫は、時刻表を見て、指で数字をなぞりました。 雨粒が指先に当たり、冷たいのに、冷たいだけではありません。 冷たいものは、いまをはっきりさせます。
「……あと、七分です」
言ってしまったあとで、幹夫は少し驚きました。 自分の声が、きちんと外へ出たからです。 でも、その驚きは白い息みたいにすぐ消えました。
女の子はほっとして、白い息を吐きました。
「よかった……遅れたら、終わりで」
終わり。 その言葉が、幹夫の胸に小さな火花を作りました。 幹夫も、返事が遅れたら終わりみたいに思ってゐたのです。 でも、雨は終わらない。 点が落ちて、消えて、また落ちる。 消えるのに、続く。
幹夫は、ふいに理科の授業の黒板を思ひ出しました。 速さは、距離を時間で割る。 v = d / t そんな式が、白いチョークで書かれてゐました。
(待つ時間 t は、ただの t ぢゃない。) (雨の温度と、息の白さと、胸の重さが混ざった t だ。)
でも、式はやっぱり式です。 混ざってゐても、どこかで整理できる。 整理できれば、一本だけ残る。
女の子が、傘の縁から落ちる雨を見ながら言ひました。
「雨って、時間の音みたいですね」
幹夫は、その言葉に、こくりとうなづきました。 雨は、秒針です。 秒針は短い。短いから、言ひ訳が入りこめません。 だから、雨の中では、いまがよく見えます。
やがて、遠くから、バスのエンジンの低い音が来ました。 音は、見えないのに近づきます。 近づくと、雨の音の粒が、少しだけそろって聞こえました。 まるで、方程式の右辺と左辺が、ぴたりと合はさる瞬間みたいに。
バスが停まり、ドアが開くと、あたたかい空気が一すじ流れ出ました。 その一すじに押されて、幹夫の白い息がふわりと曲がり、すぐ消えました。 消えるのに、あたたかい。 あたたかいのに、残らない。 残らないから、重くならない。
女の子は「ありがとうございます」と言って、先に乗りました。 幹夫はその背中を見送りながら、胸の中の裁判官の机の音が、いま、ひどく遠いのに気づきました。 雨の点が机の上にまで落ちて、机の輪郭を曖昧にしてしまったのです。
幹夫は、バスに乗りませんでした。 乗らないのは、強がりではありません。 ただ、いまはこの屋根の下で、式が一つ解けた気がしたからです。
幹夫はポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、少し厳しい。 けれど、雨粒がガラスの上に点を打つのを見ると、その白さが少しやわらぎます。 にじむ白は叱りません。 にじむ白は、短いものを通します。
幹夫は長い文を書きませんでした。 雨は点で十分です。 点が集まれば、道になる。 なら、ことばも一行でいいのです。
幹夫は、たった一行だけ打ちました。
――「御門台の雨のバス停。雨が時間の方程式みたいで、胸がほどけた。元気?」
送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、雨の点が地面に落ちて円を広げるみたいに、ことばが一つ、外へ広がったのです。
雨はまだ降ってゐます。 降ってゐるのに、幹夫はもう「困った」とは思ひませんでした。 雨は答へをくれません。 けれど雨は、時間を点にして、式の形にして、御門台の舗道へ置いてくれます。 式になれば、次に何をすればいいかが、すこしだけ分かります。
幹夫青年は、御門台の雨のバス停で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、雨の点と時刻表の数字を見て、ひとこと送っただけです。 けれど、その“一行”は、雨の点と同じやうに、確かに落ちて、どこかの心の舗道に、小さな円を広げるかもしれません。





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