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雨粒を磨くブロンズ――サンクトペテルブルク、騎馬像の広場で

ネフスキー大通りを外れて石畳を数ブロック。空はいつものように低く、早い。雲が北の街の屋根を押しながら流れていく。角を曲がった瞬間、視界がぱっと開けて、広場の真ん中に後ろ脚で立つ馬と皇帝が現れた。赤い花崗岩の台座、周りを囲むガス灯風の街灯、ぐるりと巡る鉄の柵。ブロンズは小雨でうっすら黒蜜色に濡れ、筋肉の盛り上がりが乾いた日よりもはっきり見える。サンクトペテルブルクの彫像は、晴れより曇りや雨のほうが雄弁だと、この時いつも思い出す。

最初の“やらかし”は、柵越しに写真を撮ろうとしたとき。風にあおられたストールの端が柵の渦巻きに噛んでしまい、身動きが取れない。困っていると、近くの露店のバーブシュカが、ポケットから小さな安全ピン(булавка)を取り出し、端をひとねじりして八の字で止めてくれた。「Готово(もう大丈夫)」。ピンの銀が一瞬きらりと光り、雲の切れ目から差す薄日と呼応した。

台座のレリーフには、勝利や正義を擬人化した女性像が腰をおろし、金属の衣のひだが、雨粒でさらに深く刻まれて見える。台座の銘板の年号を指さしていると、横にいた少年が身を乗り出してきた。彼の手から10ルーブル硬貨がスルリとすべって石畳の上をコロコロ。私はつま先でそっとストップ、掌に乗せて返すと、彼は「Спасибо」と照れ笑い。お母さんが紙袋からプリャーニク(はちみつクッキー)を取り出し、半分こして私に渡してくれた。砂糖の衣が指先にくっつく。私はポケットののど飴を同じく半分に割って返す。「Half for luck」。北の空にも、分け合う合言葉はよく効く。

柵の外側では、観光バスが次々停まり、ガイドが旗を高く掲げる。私はもう一枚、像の横顔を撮ろうと身構えた。ここで二度目の“やらかし”。カメラのストラップの金具が緩んで、ぶらりと危うい角度に。胃の位置が一段ずれるあの感じ。隣にいた青年がさっとキーリングを差し出し、金具に通して即席のロックを作ってくれた。「Так безопаснее(こっちが安全)」。キーリングがチリと鳴り、心臓が元の棚に戻る。

像の周りを一周して、イサーク聖堂の方へ回り込む。雨はやや細かくなり、コートの胸に茶色い点。さっき立ち寄った屋台のクヴァスをこぼしたらしい。あちゃ、と唸る私に、通りがかりの青年が炭酸水を含ませたナプキンを差し出し、「Ничего страшного(たいしたことない)」と肩をすくめる。言葉に合わせて、私はしみの上をトントン。金属の街は、汚れの落とし方も即物的で優しい

広場の隅で地図を広げていると、風が地図を凧にしていく。押さえる指が足りない。ベンチに座っていたおじいさんが、使い古しの糸巻きから細い糸を抜き、「八の字」で私のボタンにループを作る。「これで親指一本で押さえられる」。たしかに糸の輪に地図の角を引っかけると、風が来ても意外なほど踏ん張る。私は深く頭を下げ、彼は胸の前で短く十字を切った。

小雨が上がると、ブロンズの面にうっすら自分の姿が映った。像の馬は今にも前脚を振り下ろしそうで、皇帝のコートは一枚の鉄板みたいに重そうだ。けれど近づいて眺めると、手綱の皮の裏馬具の鋲まで丁寧に打ち出され、無骨さより細やかさが勝っている。金属の街の彫像は、力より手仕事を誇っている気がする。

昼を過ぎ、広場脇のカフェでボルシチを頼んだ。赤いスープの湯気に顔を近づけていると、隣のテーブルのカップルがパンを半分に割って私の皿へ少し置く。私は代わりにピロシキを一口分ける。「пополам(半分こ)」。卓上の塩をつまむ音、窓ガラスを走る雨筋、外のガス灯の丸い影――音と形が少しずつ柔らかく溶けていく。

店を出ると、広場の一角で修復作業の足場が組まれていた。職人がブロンズの継ぎ目を布で磨き、別の人が防錆の薬品を小さな筆で差す。私は柵越しにしばらく見とれ、胸の内で小さくうなずく。この街の像が美しいのは、偉人の名より毎日の手入れが積み重なっているからなのだ、と。

帰り際、朝のバーブシュカにピンを返そうとすると、彼女は手を振った。「Оставь. Следующему туристу пригодится.(取っておきなさい。次の旅人に役立つから)」私はピンを内ポケットに移し、ストールの端をもう一度ひとねじり

今日の小さな出来事――安全ピンの八の字、コロコロ転がった硬貨、キーリングのチリ、炭酸水のトントン、糸のループ、ボルシチの半分こ。どれも大事件ではないのに、騎馬像のリベットと同じくらい確かに、胸の中で像を支えている。

サンクトペテルブルクの彫像は、勝利や栄光の記念碑である前に、暮らしの手つきを教えてくれる教師だ。風と和解する結び方、落ちる前に受け止めるつま先、汚れを軽くトントンと叩く指、そして“半分こ”の勇気。次にまたこの広場を訪れたら、私はきっと最初にピンを確かめ、誰かの小さな“やらかし”にそっと手を貸すつもりだ。ブロンズは雨でまた磨かれ、馬は静かに宙を踏み、北の空は今日みたいに低く速いだろう。

 
 
 

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