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雪どけの光

プロローグ:ほんのりと咲く花

 新しく迎えた春。 遠くの山々にはまだ雪が薄く残るが、町の麓(ふもと)では早咲きの桜が淡い色をまとい始めていた。幹夫(みきお)は母と二人、家の縁側に並んで腰をおろしている。 「また巡回展の話、来てるんでしょう?」と母が少し照れたように訊く。 「うん。湖畔のギャラリーに続いて、いくつか地方の施設から声をかけてもらってるんだ。ありがたい話だよ」 幹夫は湯呑から立ちのぼる白い湯気を見つめて微笑む。母は誇らしそうに頷くが、少しだけ寂しげな目をしているようにも見えた。 「父さんが生きてたら、きっと大喜びしただろうね……」 幹夫は母の肩にそっと手をのせる。すぐ側の窓辺には、かつて父が大切にしていた東山魁夷の画集が静かに置かれていた。そこから広がる青や緑の風景が、まるで柔らかな風となって家中を包み込んでいるようだ。

第一章 酒蔵の春まつり

 幹夫が久しぶりに夏子(なつこ)の酒蔵を訪れた日は、ちょうど「春まつり」の準備が進んでいた。朝早くから、軽トラックが行き来し、大きな樽が何本も蔵へ運び込まれている。 門をくぐると、夏子が慌ただしく帳簿を抱え、走り回っていた。声をかけると、彼女はぱあっと明るい顔で微笑む。 「来てくれたんだ! ごめんね、いまちょっとバタバタしてて……。でも、手が足りないから助かるよ」 いつもながら、夏子の笑顔には静かな力がある。蔵の改装を始めた頃よりも、ずっと生き生きとした輝きを帯びているように見えた。

 幹夫はさっそく荷運びや会場設営の手伝いをしながら、蔵の中を見回す。古い梁(はり)や柱はそのまま生かしつつ、窓を拡張して外からの光を取り込む工夫がされている。樽の置き方や照明にも気が配られ、まるでギャラリーのような優しい空間になっていた。 壁際には小さな書画スペースが設けられ、幹夫がデザインを手がけた案内パネルやポスターが飾られている。 「ここは蔵だけど、何かアートイベントも出来る場所にしたいんだ。美術や音楽、いろんな人が気軽に集まれるようにね」 夏子はそう言うと、すっと視線を上げた。梁から吊るされたガラスの照明が、柔らかに光を散らしている。埃っぽかった蔵とは思えないほど、空気が透明に感じられた。

第二章 祭りの賑わい、心の閑けさ

 翌日は快晴。酒蔵の春まつりには、地元の人だけでなく観光客も多く訪れ、大いに賑わった。 幹夫も蔵の軒先で、来訪者に紙コップを手渡しながら試飲をすすめる。もちろん未成年には勧められないが、ちょうど大学生くらいのグループも興味津々に蔵の見学をしてくれた。 「すごくきれいな空間ですね。倉庫ってもっと暗いかと思った」 「ああ、ここは改装したばかりなんだ。まだまだ工夫次第で変わっていくはず」 幹夫は笑顔で答えるが、その背後に夏子が通りかかると、不意に彼女と目が合ってお互い照れくさそうに逸らしてしまう。そんなささやかな気配が、祭りの喧噪に溶けていく。

 ときおり吹いてくる春の風には、わずかに雪どけの湿った匂いが混じっている。鼻をくすぐるようなその匂いに、幹夫はふいに森の奥底を思い出す。 「この蔵も、自然の一部なのかもしれないな……」 誰に言うでもなく、そう呟いて、幹夫はそっと奥の蔵へ足を向ける。そこには改装前のままの古い一角が残っており、低い扉をかがんでくぐると、ひんやりとした闇が支配していた。 まるで森の樹陰に足を踏み入れるときのような、静かな息づかいを感じる。頭上の梁には、白い蜘蛛の巣がわずかに揺れている。 幹夫は思わず目を閉じた。すると、どこかで白い馬が吐息をついているような気がした。あの馬が森の奥から幹夫を導いてくれたように、この酒蔵の暗がりにも「まだ見ぬ光」が潜んでいるように思われる。

第三章 めぐり逢う故人の影

 祭りが終わり、片付けがひと段落した頃、幹夫と夏子は酒蔵の入り口で夕暮れの空を眺めていた。オレンジ色に染まる空の向こうには、うっすらと山並みが浮かび上がっている。 「お客さん、たくさん来てくれたね。ほんとに助かったよ」 夏子はそう言いながら、ぽつりと続ける。 「実はね、今日はお父さんの命日だったの。だから、なんだか私も落ち着かなくて……でも、これで少し肩の力が抜けたかも」 そうか、だからこそ夏子はこの祭りの成功に人一倍こだわっていたのだ、と幹夫は思い至る。 幹夫の父も、夏子の父も、今はもういない。けれど彼らの面影は、こうして残されたものの中に、静かに息づいている。

 そのとき、不意に携帯電話が震えた。表示された番号は、先日の湖畔ギャラリーで幹夫の作品を観たという美術館関係者だった。 「実はこちらで巡回展を検討したいのですが、一度、お話を伺えませんか?」 そう言われ、幹夫は驚きに胸を弾ませつつも、視線を夏子の方へ向ける。夏子は穏やかに微笑み、無言のままうなずく。 この町で得た新たな繋がりと、外へ広がろうとする波──その両方が、今の幹夫を形作っているのだろう。胸に淡い感慨が広がる。

第四章 森へ通ずる廊下

 幾日かして、幹夫は美術館関係者との打ち合わせのため、近隣の都市へ向かうことになった。ちょうど同じ日、夏子も新しい取引先との商談で町を出るらしい。 朝の駅で二人は偶然鉢合わせになった。空は薄曇りだが、雪混じりの冷気がまだ名残を留めている。 「気をつけてね。なんか遠出するときって、いつも思い出すんだよ。あの白馬のこと」 夏子は笑って言う。幹夫も、思わず笑みがこぼれる。 「うん、あれがいるなら、どこへ行っても心強い気がする」 電車が来るまでの短い時間、二人はベンチに並んで腰を下ろし、小さく息を吐いた。吐息は白くなり、すぐに消えていく。 この先、それぞれの道が離れても、きっと森の奥でつながっている──そんな気がしてならなかった。

第五章 未完の地平

 美術館の関係者との話は思いのほかスムーズに進み、幹夫は夏の終わり頃に巡回展を開催する方向で話がまとまった。幹夫の中には同時に大きな不安もあるが、それを超える期待が湧き上がってくる。 夜になって帰宅し、アトリエ代わりに使っている古い離れでキャンバスを開いた。描きかけの作品には、酒蔵の梁の影と森の木立、そして都会の街並みが不思議な角度で交差している。 しかし中心には、まだ何も描き込んでいない空白がある。あえて最後まで塗らないつもりでいたが、じっと眺めていると、そこに淡く白い輪郭が揺らめいているのを感じる。 あれは、白馬だろうか──? あるいは、父や夏子、そして自分自身の思い出が結晶した何かの姿だろうか。 幹夫は目を細め、筆をとりかけるが、結局また置いてしまう。まだ、ここに何を描くべきかわからない。未完のままでもいい。今の自分にとっては、それが自然な形なのだ。

第六章 夜明けの静寂

 そして迎えたある朝、幹夫は突然に目を覚ました。外はまだ薄暗く、鶏がかすかな声を上げ始めたところだ。 ふと、無性に森へ行きたいと思い立つ。家の扉をそっと開け、夜明け前の空気を吸い込む。凍えるほど冷たいわけではないが、肌を刺すような清涼感がある。 足元の道を辿っていくと、やがて裏山の小径に入った。苔むした石段を昇ると、木立の切れ目から遠くの稜線が微かに白み始めている。 深呼吸をし、幹夫は耳を澄ました。すると、いくつもの樹が小さな声でささやいているように感じられる。夜と朝の境界に宿る不思議な静けさ。 ──やはり、この森は、自分が帰るべき場所なのだ。酒蔵も、この木立も、東山魁夷の絵がくれたあの“深い青”と繋がっている。 立ち止まると、どこか奥から白い気配を感じる。幹夫はふと微笑み、「またいつか会えるかな」と小さく呟いてみる。白馬は姿を見せない。けれどその静寂が、優しく答えているように思えた。

第七章 雪どけの光(エピローグ)

 春も深まり、山里では雪どけ水がせせらぎとなって川を満たし、桜の散り際の花びらが淡いピンクの絨毯を作り出している。 幹夫は巡回展の準備を少しずつ進めながら、時折夏子の蔵を訪れ、イベントのアイデアを話し合ったり、母の家で晩酌をともにしたりして過ごしていた。 夕刻、町外れの坂道を歩いていると、ちょうど遠くの稜線に沈む夕日が雲間に映え、雪どけの山肌を金色に染めている。その光景は、東山魁夷の「道」を思い起こさせるほど、静謐で鮮やかなものだった。 「白馬の森も、きっと春を迎えているのだろう」 そう心の中で思いながら、幹夫は道の先をじっと見つめる。まだこれからどこへ行くのか、自分でもはっきりとはわからない。だが不思議と焦りや恐怖は感じなかった。

 最後に振り返ると、遠くに夏子の酒蔵の屋根が見え、母の住む古い家が見え、そして深い森が一帯に広がっている。そのすべてが、幹夫の人生を支えてくれるような温もりを放っていた。 風のない空気の中、淡い風鈴のような音が聞こえた気がした。実際には何も鳴っていない。けれど、それは幹夫の胸にすとんと落ちるような、静かで優しい旋律だった。 雪どけの水音と混じり合い、やがて夜の静寂へ溶け込んでいく音色。 幹夫はそっと目を閉じ、「ありがとう」と心の中で呟く。白い馬の吐息も、東山魁夷の青も、亡き父や母の想いも、夏子の笑顔も、すべては一緒にあるのだ。 そして、そのままゆっくりと、未来へ向けて歩み出す。染まりゆく空の下、道はまだまだ遠く続いている。それでもきっと、もう寂しくはない。 雪どけの光が、薄紅色の花びらとともに、幹夫の足元をやさしく照らし始めていた。

 
 
 

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