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雪中の回転

雪は、音を立てない。音を立てないものほど、あとで世界の形を変える。

越後の冬の朝、長岡城の土塁は白く沈み、堀の水面だけが黒く息をしていた。雪は天から落ちてくるのではない。地面から立ち上って、こちらの膝を奪い、歩幅を縮め、言葉の熱まで薄くしてしまう。武士の誓いも、雪の前ではひどく慎ましい。

私は厩の裏手で、木箱の釘を抜いていた。木箱の板は異国の匂いを持っていた。油と樹脂と、見知らぬ港の風。そこに貼られた紙の文字は読めず、読めぬ文字のまま、この城に「未来」が届いたのだと分かった。

「丁寧にやれ」

背後から声がした。河井継之助だった。

継之助の眼は、いつも眠りに似ている。眠りに似ているのは穏やかだからではない。眠りに似ているほど、覚めている。覚めた者の眼には、世界が余計な飾りを落として見える。その余計な飾りが落ちた世界ほど、残酷なものはない。

「これが噂の…」

私が言いかけると、継之助は頷いた。

「回る鉄だ」

箱を開けると、黒い鉄の塊が、濡れた獣のように身を縮めていた。ガトリング。異国の銃。銃というより機械だった。刃の束が輪になり、輪が回り、回転のたびに鉛が吐き出される。祈り車のように静かな顔で、念仏のかわりに死を撒く。

私は思わず喉が乾いた。刀は一本だ。刀は人間の腕に従う。だがこの鉄は、腕の外へ出ていく。腕の外へ出た殺しは、倫理の外へも出ていく。倫理の外に出た殺しほど、後から「正しさ」の衣を着せやすい。

継之助は手袋もせず、鉄に触れた。指先が油で光り、その光が雪明かりに鈍く反射する。欠けたもののない指だった。だが私は、その指がすでに“欠ける運命”を握っているように見えて仕方がなかった。

「これで守れる、と皆は言う」

継之助は、輪の冷たさを確かめるように言った。

「だが守るという言葉は甘い。甘い言葉はよく燃える」

私は返す言葉を失った。燃える、という言葉が、この白い城の中で妙に赤く響いたからだ。

春が来る前に、京からの風が来た。「新しい世」だの「王政復古」だの、言葉だけが先に走り、走った言葉の後から、必ず銃口が追いかけてくる。言葉は軽い。軽い言葉ほど、人を死なせる。

継之助は、戦を望んでいないように見えた。望んでいない者が、最も深く戦に縛られる。望まぬ戦を避けようとして、避けられぬ形で戦を選ぶからだ。

「俺は、越後の雪を守りたいだけだ」

夜、火鉢の炭が青く燃える中で、継之助がふいに言った。

「雪を守る?」

私が問うと、彼は笑わなかった。笑わないことが、笑いより重かった。

「この国は、守るものが多すぎる。旗も、面目も、名分も、過去も。守るものが多いほど、人は燃やす。燃やして軽くする。燃やした灰の上に、新しい旗を立てて安心する」

その夜の継之助の横顔は、ひどく疲れて見えた。疲れは、英雄の顔を壊す。英雄の顔が壊れたところにだけ、人間の顔が現れる。私はその人間の顔に、どうしようもなく惹かれてしまう自分を恥じた。恥は熱い。熱い恥は、生の証だ。

北越の戦は、雪解けの泥から始まった。泥は足を奪う。足を奪われると、人は頭で戦い始める。頭で戦う者は、よく言葉を使う。言葉を使う戦は、たいてい長引き、たいてい腐る。

ガトリングは土手の上に据えられた。継之助が、回転の柄に手を置いた。柄は木で、木はまだ温かかった。温かいものが、冷たい死を呼ぶ。それが機械の恐ろしさだ。

「回せ」

命令は短い。短い命令ほど、逃げ場がない。

私は柄を握り、回した。回転が始まると、鉄は生き物になった。音が、布を裂くように走る。銃声というより、世界の皮膚が剥がれる音だった。

敵の列が崩れ、黒い影が雪解け水のように倒れていく。倒れる影の中に、顔が見えた。顔は、驚くほど普通だった。普通の顔が、普通の瞬間に、普通でない速度で死ぬ。そこに戦の本質がある。戦とは、普通を破る装置だ。

私は吐き気をこらえながら、なお回し続けた。回す手が、だんだん熱を持つ。熱を持つ手は、罪を持つ手だ。だが熱を止めれば、こちらが死ぬ。生きるために罪を重ねる。その繰り返しが、結局、国家というものの正体なのだろうか。

その日、長岡城は一度落ちた。落ちる城は、声を上げない。声を上げるのは人間だけだ。城はただ燃える。燃える城の赤は、雪国の白にいちばんよく映える。映えるからこそ、残酷だ。残酷だからこそ、人はその光景を「歴史」と呼んで保存したがる。

継之助は燃える城を見て、言った。

「美しいだろう」

私は息を止めた。美しいという言葉が、こんな場所で口にできる人間を、私は恐れた。だが同時に、私の胸の奥のどこかが、その言葉に頷いてしまった。頷いた自分が、いちばん怖かった。

奪われたものを、長岡は奪い返した。城を奪い返すという行為は、歓喜ではなく執念だ。執念は、祈りよりも重い。重い執念ほど、折れるときに音が大きい。

継之助は前に出た。前に出る背中は、いつの時代も人を酔わせる。背中は顔より物語になりやすいからだ。私は背中に酔わないように必死だった。酔えば、死が美しく見えてしまう。

銃声が走り、継之助の身体が小さく揺れた。膝のあたりを押さえ、雪の残る土に片膝をつく。血が、雪に落ちる。赤は、白の上で驚くほど純粋に見える。純粋に見える赤ほど、不潔なものはない。

「殿!」

誰かが叫んだ。私は駆け寄ろうとして、足が泥に取られた。泥は、戦場で最も正直だ。正直なものほど、こちらを止める。

継之助は私を見て、目だけで笑った。笑いはない。だが目の奥に、確かな嘲りがあった。——人は最後まで、走り方さえ選べない。

「切るな」

彼は言った。足を切れば助かる、と誰かが叫んでいた。だが継之助は首を振った。

「この身体を切って生きるなら、最初から生き残る意味がない」

私はその瞬間、分かった。継之助が守ろうとしていたのは城ではない。藩でもない。自分の形だ。形を守ることが、彼にとっては忠義であり、誇りであり、唯一の救いだったのだ。

救いは美しい。美しい救いほど危険だ。美しい救いは、周囲の者に同じ救いを強いる。

私は泣きそうになった。泣けば、私は継之助の美に負ける。だから歯を食いしばり、ただ彼を担いだ。担ぐ肩に、血が温かく滲んだ。温かい血は、私の罪を確かなものにした。

撤退は、戦より醜い。戦は一瞬で決まるが、撤退は長く続く。長く続く醜さの中で、人は自分の弱さを数える。弱さを数えることは、刀を研ぐより疲れる。

山道の小屋で、継之助は寝かされていた。彼の足は腫れ、熱を持ち、皮膚が光っていた。光る皮膚は、生の最後の輝きだ。輝きが強いほど、消えるのは早い。

「長岡の雪が見たいな」

彼は突然、子どものように言った。その言い方が、胸を刺した。あれほど鋭い男が、最後に欲したのは勝利でも名誉でもなく、ただの雪だった。雪は白い。白は何も救わない。救わない白を欲するところに、人間の終わりの正直さがある。

「いずれ、また」

私は嘘をついた。嘘は優しい。優しい嘘ほど、罪深い。継之助は嘘を見抜いたはずだ。それでも彼は頷いた。頷くことで、私の嘘を許した。許しは、死にゆく者の最後の特権だ。

夜、外で風が鳴った。風の音が、ガトリングの回転音に似ていた。回転は、祈りにも死にも同じ形を与える。輪廻という言葉が、妙に現実味を帯びる。輪廻など信じないと思っていた。だがこの夜、私は信じた。信じたというより、信じざるを得なかった。回っているのは鉄ではない。時代そのものだ。

継之助は、朝になって息をしなくなった。死は静かだった。静かすぎて、私は自分の耳が壊れたのではないかと思った。私は手を取った。もう温かくない。温かくない手は、形だけが残る。形だけが残った手は、美しい。美しいものほど危険だ、と私は何度でも自分に言い聞かせた。だが言い聞かせても、胸の奥の熱は消えなかった。

戦が終わり、長岡は焼け、残った者は飢えた。飢えは、英雄譚を食わない。飢えは、理想を噛み砕かない。飢えはただ、米を求める。米は正直だ。正直なものほど、人の美学を壊す。

ある日、百俵の米が届いた。俵は、雪国の倉に並ぶと、奇妙に温かく見えた。米の匂いが、喉の奥を刺激した。私の腹は鳴り、私の誇りは黙った。誇りが黙る瞬間、人間はもっとも素直になる。

「配れ」

誰かが叫んだ。当然だ。今夜を越えるために、米は必要だ。だが別の声が言った。

「売れ。学びのために」

学び。その言葉が、私には継之助の「形」に似て聞こえた。刀の形ではない。城の形でもない。未来の形だ。

私は俵に手を置いた。藁が指に刺さる。刺さる痛みが、生きている証だった。この米を食えば、私の腹は満たされる。だが腹の満足は一夜で終わる。この米を売れば、私の腹は空のまま、だが誰かの目が開く。開いた目は、次の戦を避けられるかもしれない。避けられないかもしれない。だが、避けられないと決めるのはまだ早い。

私は俵から手を離し、言った。

「売れ」

声が震えた。震えは迷いではない。飢えと誇りが擦れる音だ。その音が、なぜかガトリングの回転音に似ていた。回るものは、殺しにも学びにもなる。回転の方向を選ぶのは、結局、人間の手だ。

外では雪が降り始めていた。雪は音を立てない。だが雪は、焼け跡の黒を隠さない。むしろ黒をいっそう黒くする。私はその白さの中で、ようやく誓った。

この雪を、二度と美しい火で照らさない。美しさに逃げずに、醜さを抱えて生きる。それが、あの城が燃えたあとに残された者の、最も不格好で、最も誠実な忠義なのだと。

 
 
 

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