電線の風琴(ふうきん)
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 7分

十一月の蒲原は、朝の空気が薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ、白い道が一本すうっと通ります。畦道の土は夜のあいだに固くなり、踏むと、こりっ、と小さく鳴りました。薩埵峠の影は長い帯になって町の端を撫で、駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光っています。波は低く、しゅう……ざあ……と、控えめに息をしていました。
その朝は、風が最初から強くて、家の屋根の端を細い指で叩くみたいに、ひゅう、と鳴っていました。
幹夫は縁側に立って、窓辺の並びを一つずつ見ました。
青いガラスの星。 割れた貝の星座の箱。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。――輪の紐のそばには、松葉が一本、そっと結ばれていて、風が通ると、ひゅう、と小さく言う。
匂いの星袋の瓶は、もういません。父のところへ旅に出て、瓶の代わりに「匂いのしおり」が本に挟まれて、机の上で待っています。
風が縁側の柱を撫でて、窓辺の紐を揺らしました。
青い星が、からり。 銀の輪が、きん。 松葉が、ひゅう。
いつもの短い会話が、今朝もありました。 けれど、今日はその音が、どこか“乾いた音”に聞こえました。乾いた音は、軽いのに、胸に刺さります。刺さると、喉の奥が紙みたいに乾きます。
そのとき、表の道で――
ちゃりん。
郵便屋の鈴が鳴りました。
幹夫の胸は、いつもどおり一度、きゅっと縮みました。うれしいのに怖い。怖いのにうれしい。二つが同じ皿に乗ると、息が少しだけ苦しくなります。
祖母が戸口へ出て、何か小さな紙を受け取りました。封筒ではありません。厚い紙でもありません。掌に乗るほどの、固い紙片。
祖母が振り向いて言いました。
「幹。父さんからだよ」
幹夫はその紙を受け取って、まず指先で角を撫でました。紙は固く、冷たく、匂いがほとんどありません。匂いがない紙は、胸の中で音だけが立つ紙です。
黒い字が、短く並んでいました。 昔の電報の、あの字。 文は、ふしぎなほど短い。
祖母が読んでくれました。
「……『ミキオ ゲンキカ シゴトツゴウ ショウガツ カエレズ ユルセ チチ』……」
それだけ。
幹夫の胸の奥が、すとん、と底へ落ちました。底は冷たい。冷たいと、心が勝手に「いない」を大きくします。
――帰れず。 ――許せ。
短い言葉は、切り株みたいに立って、周りの空気まで固くしました。 幹夫は、口の中が乾いて、何か言いたいのに、言葉がひっかかって出てきませんでした。涙は出ない。出ないかわりに、胸の中で“こつこつ”と硬い音がします。
祖母は、紙を畳に置いてから、何でもない声で言いました。
「電報はね、言葉を削るんだ。削ると冷たく見える。でも、削った分だけ、余白に心が残る」「……余白」「うん。書いてないところが、いちばん長い」
幹夫は電報の白いところを見ました。白はたしかに広い。でも白は、何もない白じゃない。霜の星図の白みたいに、見えない線が潜んでいる白かもしれない。
祖母が続けました。
「帰れないって言うのは、帰りたいってことだよ。帰りたくない人は、そんな手間のかかる紙をよこさない」「……でも、短い」「短いのは、急いでるからだ。急いでるのは、幹に知らせたいからだ」
幹夫はうなずいたのに、胸の底の冷たさはまだ残りました。残る冷たさは、消えない傷の冷たさではなく、“これから来る冬”の冷たさでした。冬は、どこにも来る。父の町にも来る。蒲原にも来る。
幹夫は、匂いのしおりを挟んだ本をランドセルに入れて、学校へ向かいました。電報は、折らずに、そっと胸の内側のポケットへ入れました。胸の近くに置くと、紙が少しだけ温まって、字がやわらいで見える気がしたからです。
校庭の松が、ざわざわと鳴っていました。松の針葉が擦れ合う音は、さささ、と細いのに、たくさん重なると、空が一枚震えるみたいです。
休み時間、こういちが近づいてきました。袖をまくった手首が風で少し赤くなっています。目はいつもどおり慎重で、踏みこみすぎない目でした。
「幹夫、顔、かたい」 こういちが言いました。 かたい、と言われた瞬間、幹夫は自分の頬の裏が、ほんとうに固くなっているのを感じました。固いと、声が出にくい。声が出にくいと、胸の中の言葉が溺れます。
「……電報、来た」「電報?」 こういちは目を丸くして、でもすぐ声を小さくしました。「……息して。見せて」
幹夫は電報を出しました。こういちは字を追い、最後の「チチ」を見て、ほんの少しだけ口の端をゆるめました。
「“父”って書いてある」「……うん」「それ、最後に残したんだね。言葉が少なくても、最後に“父”だけ残すの、なんか……強い」
強い。 その言葉が、幹夫の胸の中で、こつん、と別の音になりました。冷たい硬い音ではなく、地面を確かめる音。
そのとき、風が強く吹いて、校庭の上を電線が鳴らし始めました。
ぼおお……ん。 ううう……ん。
高い音と低い音が重なって、まるで空に見えない楽器が吊られているみたいでした。電信柱の腕から腕へ渡る線が、弦になって、風が指になって弾いている。
幹夫の胸の奥が、ふっと息をしました。 怖さがほどける息ではありません。 “聞いてしまう息”でした。
「電線、風琴みたい」と幹夫が言うと、こういちはうなずきました。
「うん。遠くの音が、ここで鳴ってる」
遠くの音。 幹夫は胸のポケットの電報を指で押さえました。紙の角が、胸の中の空洞の縁に当たって、ちくりとしました。でも、電線のぼおんがそのちくりを包んで、針ではなく縫い目の痛みに変えてくれる気がしました。
こういちが言いました。
「電報ってさ、電線を走るんでしょ。じゃ、いま鳴ってる電線の音の中にも、電報の名残りが混ざってるかも」
名残り。 幹夫は、電線のううん……を聞きながら、ふっと思いました。
――父さんの言葉も、こういう音みたいに、短くしか来ない日がある。 ――でも短いのは、途切れたんじゃなくて、線の上を急いで走ってきたからだ。
幹夫は、松葉を一つ拾いました。 親指と親指の間に、“置く”。 息を吸って、吐く。
ひい。
細い音が出て、風にほどけていきました。ほどけるのに、確かに出た。確かにここから外へ行った。
幹夫は、胸の中でそっと言いました。
――父さん。 ――電報、受け取ったよ。 ――帰れなくても、父の字が来た。 ――ぼくの返事は、ひい、で送る。
こういちも隣で、ひい、と鳴らしました。二つの音が重なると、電線のぼおんの中に、ほんの小さな白い道ができた気がしました。
放課後、二人は踏切の手前まで一緒に歩きました。踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと薩埵峠の影へ入っていきます。汽車の音も、電線の音も、みんな“運ぶ音”に聞こえました。
家に帰ると、祖母が火鉢の灰を整えていました。灰の上で炭が、ぱち、と瞬いています。窓辺では、青い星と銀の輪と松葉が、木枯らしに揺れて、
からり。 きん。 ひゅう。
短い会話を繰り返していました。 その向こうで、外の電線が、ぼおお……ん、と低く鳴りました。
幹夫は、電報を割れた貝の星座の箱のそばへ置きました。 紙の黒い字が、小さな星みたいに見えました。 星座は欠けていても星座。 電報は短くても電報。 どちらも“ある”という印。
幹夫は机に向かって、父へ短い手紙を書きました。電報ほど短くはできませんでした。でも長すぎるのも、糸を張りすぎる気がしました。だから、息が苦しくならない長さだけ。
「とうさん」 「でんぽう きました」 「よめました」 「でんせんが きょう ふうきん みたいでした」 「ぼおん と なって いました」 「ぼくは まつばで ひい と ふきました」 「ことばは すこし しか でないけど」 「おとは でました」 「こっちは からり と きん と ひゅう と ぼおん でした」
書き終えると、胸の底の冷たさが、少しだけ丸くなっていました。 消えてはいません。 でも、角が取れると、冷たさは“冬”になって、怖さだけではなくなります。
布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。木枯らしが電線を鳴らして、ぼおお……ん、と低く歌いました。
窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。 松葉が、ひゅう。
幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。
――言葉が短い日もある。 ――短い日は、切れた日じゃない。急いで来た日だ。 ――返事は、息のぶんだけ送ればいい。
電線の風琴が、もう一度、ぼおお……ん、と鳴りました。 その音は、遠さを消す音ではありませんでした。 でも、遠さの中に“線がある”と教えてくれる音でした。







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