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露を纏う刃

露は、血よりも先に袖を濡らす。だが血は、露よりも長く袖に残る。乾けば黒くなり、黒くなったものは「なかったこと」にされやすい。私はその黒さを、のちに何度も憎んだ。黒いものほど、歴史の中で清潔に見えるからだ。

中大兄皇子の袖は、いつも白かった。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを最初から知っている者の色だ。白い袖を選び続けるということは、汚れを恐れることではなく、汚れを受け止める覚悟に近い。覚悟は美しい。美しい覚悟ほど危険だ。美しさは、殺しを清めた気にさせる。

あの朝、板蓋宮の廊は薄い水を含んでいた。春の気配はまだ遠く、木の床板は冷え、冷えた木は正しい。正しい冷たさは、余計な熱を叱る。だが叱られるほど、胸の奥の熱は強くなる。熱は、決意の苗床だ。

私は書記で、皇子のすぐ後ろを歩くことを許された。許されたと言っても、それは幸福ではない。幸福は甘い。甘いものは腐る。腐った幸福の上で、人は平気で「仕方がない」を口にする。私の役目は、仕方がないという言葉が生まれる瞬間を、墨で固定することだった。

皇子は歩きながら、私に言った。

「今夜の文言は、整えておけ」

整える。整えるという行為は、崩れる前提を含んでいる。崩れないものを整える必要はない。整えるのは、崩れが怖いからだ。私は喉が乾くのを感じた。喉の乾きは、戦の前に必ず来る。

簾の向こうに女帝の気配があった。簾は柔らかい。柔らかいものは、人を安心させる。安心は危険だ。安心は、刃を隠す。

皇子は簾に向かって一礼し、顔を上げた。目は澄んでいなかった。澄んだ目は正義の目だ。皇子の目は濁っていた。濁りは恐れでも迷いでもない。濁りは、決意が人間の肉を通るときに生まれる色だ。

廊の端に、中臣鎌足が立っていた。鎌足の手は、祈りのように静かだった。祈りに似た手ほど危険なものはない。祈りは叶わぬからこそ強い。叶わぬものを叶えるために、人は現実を壊す。

そして、蘇我入鹿が来た。歩き方が重い。重い歩みは支配の歩みだ。支配はいつも足音を惜しまない。入鹿の鎧は光をまとい、その光が廊の薄い水を拾って、妙に「祭り」のように見えた。祭りに似た場ほど危険なものはない。祭りは陶酔を呼び、陶酔は死を軽くする。

皇子は、入鹿を見た。それは「敵を見る眼」ではなかった。もっと奇妙な、もっと人間的な眼だった。――傷の位置を測る医者の眼に似ていた。

私は思った。この人は、入鹿を憎んでいるのではない。入鹿がいることで、国の形が歪むのを嫌っているのだ。形の歪みを嫌う者は、やがて人の骨まで矯正したがる。矯正は美しい。美しい矯正ほど危険だ。

合図は言葉にならなかった。言葉にならぬものほど、人を動かす。

刃が走った。

最初の刃は空を切り、空を切る音は惨めだった。惨めさは怒りを呼ぶ。怒りは手首を強くし、視野を狭くし、世界を「敵」と「味方」に分ける。分けられた世界では、命は軽い。

入鹿の声が上がった。声は叫びの形をしていたが、叫びではなかった。叫びは外へ向かう。入鹿の声は内へ落ちた。内へ落ちる声は、喉の奥で血の味になる。血の味は温かい。温かい現実は、どんな標語より強い。

床に赤が落ちた。白い床板の上で、赤はあまりにも明快だった。明快な色ほど残酷だ。明快さは事件を「終わり」に見せる。終わりに見えた瞬間、次の始まりが始まる。

皇子の袖の白に、ほんの一点、赤が跳ねた。点は小さい。小さい汚れほど、洗っても消えない。消えない汚れほど、後で「意味」を持たされる。意味は麻酔だ。麻酔は苦い現実を甘くする。甘い現実ほど腐る。

皇子は、その一点を見なかったふりをした。ふりをするという行為は卑怯に見えるが、王のふりは時に誠実だ。誠実とは、崩れない形を保つことで誰かを生かす、という残酷さだからだ。

その日、都の空には煙が上がった。蘇我の邸が燃えた。火は美しい。美しい火ほど危険だ。美しさは破壊に意味を与えたがる。意味は麻酔だ。麻酔を欲しがる者は、次の火を呼ぶ。

夜、私は墨を磨り、白い紙を広げた。紙は無垢だ。無垢ほど危険なものはない。無垢は責任の顔をしない。皇子は私の前に座り、袖を畳の上へ落とした。あの赤い一点は、まだそこにあった。小さな紅。紅は血の色に似ているが、血でない赤もある。だがこの赤は、嘘をつかない赤だった。

皇子が言った。

「これからは、刀でなく、紙で国を縛る」

紙で縛る。軽い紙が、重い肉を縛る。肉を縛られた者は、やがて自分の骨を差し出す。骨を差し出すことを、人は「公」と呼ぶだろう。公は清潔に響く。清潔な言葉ほど残酷だ。

「だが、紙は血を嫌う」

皇子は続けた。

「だから、血の匂いを覚えている者が要る。……お前だ」

私は、喉の奥が締まった。締まる喉は感情移入だ。皇子の肩に乗ったものの重さが、私の喉へ移ってきた。私は頷いた。頷きは楽だ。頷けば、説明を省ける。説明ほど重いものはない。

皇子は、紙の上に最初の線を引いた。墨は黒い。黒は祝福の色ではない。黒は、祝福が届かぬ場所の色だ。その黒い線が、やけに美しく見えた。美しいものほど危険だ。美しさは、罪の匂いを消してしまう。

私は、墨の匂いが血の匂いに似ていることに気づき始めた。墨も血も、乾けば黒くなる。黒くなったものは、たいてい「正しい歴史」として整えられる。整えられた歴史ほど、不潔なものはない。

年が巡り、皇子は「天智」と呼ばれるようになった。名が増えるほど、人間は薄くなる。薄くなった人間は、象徴に近づく。象徴は危険だ。象徴は、誰かの死を軽くする。

近江の宮は風が強かった。湖面は青く、青は無関心の色だ。無関心は残酷で、残酷だから正しい。正しい湖の前では、勝利も敗北もただの波になる。波は反復する。反復は秩序に似る。秩序は安心に似る。安心に似たものほど危険だ。

白村江の報が来た夜、宮は静かだった。敗れたという言葉は、使者の口から出る前に空気に出ていた。空気が重い。重い空気は、声を遅らせる。遅れる声ほど残酷だ。遅れた声は、すでに救えぬ者の背中を照らす。

皇子——天智は、灯の下で文を読んだ。読む眼が、あの乙巳の朝と同じ濁りを持っていた。濁りは、決意の色であり、責任の色だ。彼は紙を置き、袖を見た。そこに、赤い一点はもうない。洗われ、乾き、白いままだ。

白いままの袖は、美しかった。美しいものほど危険だ。美しさは「清算できた」と思わせる。だが清算などない。あるのは、匂いだけだ。匂いは洗えない。匂いは、喉の奥に残る。

天智が、ぽつりと言った。

「秋の田の……」

私は息を止めた。あの歌だ。庶民の仮庵の苫の荒さに袖が露で濡れるという、あまりに清しい言葉。清しい言葉ほど危険だ。清しさは、血の臭いを覆う布になる。

天智は続けなかった。続ければ、歌は慰めになる。慰めは甘い。甘い慰めは腐る。腐った慰めの上で、人はまた「正しい国」を夢見る。

代わりに彼は、袖を握った。握る手に力が入った。力は生の執着だ。執着は醜い。醜い執着ほど、人間を人間に戻す。

「露は……乾くな」

彼は言った。露は乾く。乾くから露だ。乾かないのは露ではない。血だ。血は乾いても、匂いが残る。

私はその言葉が、私への命令だと理解した。匂いを忘れるな。紙の黒の下に、あの赤の一点を置き続けろ。改革も法も、勝利も敗北も、結局は人の喉の湿りと乾きの上にあるのだと。

天智は立ち上がり、廊へ出た。風が彼の袖を揺らした。揺れる白は、遠くから見れば「神」に見えるだろう。しかし私は知っている。その白の内側に、乙巳の朝の赤が、もう見えない形で残っていることを。見えないものほど残酷だ。見えないものほど、後世に軽くされる。

だから私は、書く。美しく整えすぎないように。清潔な物語にしないように。あの一点の赤が、どこかで必ず息をするように。

夜の近江の風は冷たかった。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私の胸の甘さを叱った。私は筆を持ち、墨を磨り、白い紙へ黒を置いた。黒い線は美しい。美しいものほど危険だ。だから私は、墨の匂いの奥に、血の匂いを探し続ける。

中大兄皇子の白い袖が、二度と「無垢の象徴」にならないために。そして、私自身が、あの赤を忘れてしまわないために。

 
 
 

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