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青い壁の中の契約書

――山崎行政書士事務所事件簿――

序章 草薙に来た、古い家の匂い

静岡市清水区草薙の午後は、妙に明るかった。

春の終わりでも夏のはじまりでもない、空だけが先に六月へ行ってしまったような日だった。山崎行政書士事務所の窓からは、静鉄の電車が小さく走り去るのが見えた。踏切の音が、事務所の中にあるコピー機の作動音と重なって、日常という名の薄い膜を作っていた。

その膜を破ったのは、一冊の契約書だった。

「住宅リフォームの契約書を見ていただきたいんです」

受付でそう言った女性は、七十歳前後に見えた。名前は望月春江。清水区の古い住宅街に一人で暮らしているという。白いブラウスに薄紫のカーディガン。声は丁寧だったが、目の奥だけが、ひどく疲れていた。

契約書の表紙には、こうあった。

住宅改修工事請負契約書施工業者:駿河住環境リフォーム株式会社工事内容:耐震補強、断熱改修、屋根補修、床下換気設備設置、内装改修一式請負代金:八百九十万円

山崎は書類を受け取り、いつものように落ち着いた声で言った。

「まず確認します。契約書のチェックはできます。ただ、紛争性が強い場合や相手方との交渉、法律判断が必要な部分は、弁護士さんと連携する形になります」

春江は小さく頷いた。

「それで構いません。ただ……」

「ただ?」

「この契約書を持ってきた日の夜から、家の電話が鳴るんです」

「電話?」

「出ると、誰もいないんです。でも、最後に一度だけ、声がしました」

彼女はそこで息を止めた。

事務所の空気が、少しだけ冷えた。

「なんと言われたんですか」

春江は、紙袋の持ち手を握りしめた。

「青い壁を壊すな、と」

第一章 普通ではない条文

契約書を開いた瞬間、りなが眉をひそめた。

りなは、事務所の中でもっとも論理的に文書を読む。条文の流れ、責任の所在、例外規定の置き方、定義の揺れ。彼女は文章の隙間に落ちた針の音まで聞き取るような読み方をする。

「これ、かなり危ないです」

「どこが?」

みおが隣から覗き込む。小悪魔的な笑みを浮かべる余裕も、この時はなかった。

りなが指で条項をなぞった。

「まず追加工事です。『施工上必要と判断した場合、乙は甲の個別承諾なく追加工事を実施できる』となっています。しかも追加費用の上限がない」

「高齢者向けのリフォーム契約で、それは危ないですね」

山崎が静かに言った。

りなは続けた。

「次に解約条項。着工前でも契約金額の八割を違約金として請求できる。さらに、残置物処分の条項が変です」

そこにはこう書かれていた。

第十九条 残置物および壁内・床下・天井裏等に存在する物品、記録物、その他一切の物については、施工の円滑化のため、乙が任意に撤去、処分、保管、移転または取得できるものとする。甲はこれに異議を述べない。

「壁の中の物まで業者が取得できる?」

奏汰が思わず声を出した。

「普通、こんな書き方しません」

りなは即答した。

山崎は契約書を閉じず、しばらく眺めていた。

「望月さんのお宅に、何か心当たりはありますか。壁の中、床下、天井裏。たとえば古い書類や金庫、封筒、写真など」

春江は首を振った。

「夫が生きていた頃、書斎だけは触るなと言っていました。北側の部屋です。壁が一面だけ、青いんです」

ゆいが、ふと顔を上げた。

「青い壁……」

それは電話の声と同じ言葉だった。

第二章 見積書の数字

契約書だけではなかった。

見積書にも、異常があった。

屋根補修材、十三枚。床下換気ユニット、十七台。断熱材、十九束。補強金具、二十三個。養生費、二十九万円。仮設費、三十一万円。

「全部、素数ですね」

律斗が言った。

律斗は冷静なリーダー型で、数字の癖に強い。見積書をざっと見ただけで、数量の並びが自然ではないことに気づいていた。

「偶然では?」

奏汰が言う。

「住宅リフォームで、床下換気ユニット十七台は多すぎる。屋根補修材十三枚も半端です。しかも、金額の端数まで素数に寄せている」

りなはページをめくった。

「工事工程表も変です。着工予定日が六月二日。解体開始が六月三日。書斎壁面撤去が六月五日。床下撤去が六月七日。天井裏撤去が六月十一日」

「また素数日」

みおが呟いた。

山崎は沈黙していた。

単なる悪質リフォームなら、問題点は多い。しかし、これは違う。条文と数字に、意思がある。誰かが読まれることを前提に、契約書を作っている。

「望月さん。この契約書を渡した担当者の名前は」

「久能怜司さんです」

その名を聞いた瞬間、みおが検索しかけた手を止めた。

「久能……」

「知っていますか」

「いえ。ただ、名刺を見せていただけますか」

春江は紙袋から名刺を出した。

駿河住環境リフォーム株式会社特別顧問 久能 怜司

肩書きが、営業でも設計でも現場監督でもない。

特別顧問。

その曖昧さが、むしろ不気味だった。

第三章 青い壁の写真

春江の許可を得て、山崎たちは弁護士と警察への相談を前提に、まずは契約書上のリスク整理を進めた。行政書士として越えてはいけない線は越えない。だが、書類に現れた違和感を見逃すこともしない。

夕方、春江から事務所に一枚の写真が送られてきた。

青い壁だった。

古い和室の一面だけが、深い藍色に塗られている。畳は日に焼け、障子は少し黄ばんでいる。それでも、その壁だけは異様に鮮やかだった。まるで部屋の奥に、夜の海が貼りついているようだった。

「これ、壁紙じゃないですね」

ゆいが言った。

「塗り壁?」

「たぶん。しかも何度も塗り重ねています」

写真を拡大した律斗が、壁の隅を指差した。

「ここ、何かあります」

壁の右下。畳との境目に、細い傷があった。縦に三本、横に五本。傷というより、記号に近い。

三、五。

また素数だった。

次の瞬間、事務所の電話が鳴った。

ふみかが出る。

「山崎行政書士事務所でございます」

受話器の向こうに沈黙が流れた。

ふみかの表情が変わった。

「どちら様でしょうか」

また沈黙。

そして、低い声。

「読める者だけが、死なずに済む」

電話は切れた。

事務所の中から、日常の音が消えた。

コピー機も、踏切も、電車も、遠くなった。

山崎は静かに言った。

「これはもう、契約書チェックだけの案件ではありません。望月さんの安全確保を優先します」

第四章 久能怜司

久能怜司について調べると、奇妙な経歴が出てきた。

元建築士。元大学非常勤講師。専門は構造計算と都市防災。十年前、耐震補強の研究で注目されたが、ある公共工事の不正疑惑に巻き込まれて表舞台から消えた。

その後、複数のリフォーム会社の顧問を転々としていた。

だが、問題はそこではなかった。

過去五年、静岡市内で高齢者住宅の大規模リフォーム契約を結んだ後、着工直前に所有者が体調を崩し、工事が中止になった事例が複数あった。その家々には共通点があった。

いずれも、古い家。

いずれも、一人暮らし。

いずれも、北側の部屋に「色の違う壁」があった。

「壁を狙ってる」

みおが言った。

「でも、何のために?」

山崎は春江の契約書をもう一度見た。

「壁内、床下、天井裏等に存在する記録物……」

言葉の並びが妙だった。

普通なら、残置物、家具、廃材、備品などと書く。だが、この契約書には「記録物」とある。誰かは、壁の中に記録物があることを知っている。

「久能は、家を壊したいんじゃない」

りなが言った。

「壁の中から、何かを取り出したい」

その時、春江から再び連絡が入った。

「家の前に、白い封筒が置かれていました」

中には一枚の紙。

そこには、青いインクで短く書かれていた。

契約したら助かる。契約しなければ、青い壁があなたを殺す。

第五章 行政書士の線

山崎は、すぐに春江へ外泊を勧めた。家に一人で戻らないこと。警察へ相談すること。契約相手との接触を控えること。弁護士へつなぐこと。

「先生、私はどうしたらいいんでしょう」

春江の声は震えていた。

山崎は答えた。

「まず、生きてください。契約はその後です」

その言葉に、春江は電話口で泣いた。

行政書士の仕事は、万能ではない。

犯人を逮捕することはできない。相手を問い詰めることも、代理交渉もできない。だが、書類の異常を見抜くことはできる。危険な契約を止めることはできる。専門家へつなぐことはできる。人が崖の縁に立っている時、その足元に「ここから先は危ない」と線を引くことはできる。

その夜、山崎は契約書の条項を一つずつ分解した。

りなは契約上の不利益を整理した。みおは過去の類似事案を時系列に並べた。律斗は見積書の数字を解析した。ゆいは春江の家の写真を拡大し続けた。奏汰は何度もコーヒーを淹れ、何度も失敗した。

午前零時を過ぎた頃、ゆいが声を上げた。

「わかりました」

全員が顔を上げた。

ゆいは青い壁の写真を拡大していた。壁の隅の傷。三本と五本だと思われていた線。

だが、それは数字ではなかった。

「これ、五線譜です」

「五線譜?」

「縦の線は小節線です。横の線が五線。すごく省略されているけど、音符の跡があります」

ゆいは紙に書き起こした。

音階に直す。

ミ、ソ、ラ、シ、レ。

みおが呟いた。

「音名?」

りながローマ字に置き換えた。

E、G、A、B、D。

律斗が顔色を変えた。

「これ、座標じゃない。暗号のキーだ」

第六章 死んだ夫の書斎

翌日、春江は弁護士と警察に相談したうえで、家の確認に同行してもらうことになった。山崎たちは直接の捜査はしない。ただ、契約書と資料整理の立場で同席した。

春江の家は、草薙から少し離れた住宅街にあった。

古い木造二階建て。庭には枇杷の木があり、熟れかけた実がいくつもぶら下がっていた。玄関には亡き夫の靴べらがまだ置かれている。

北側の書斎は、冷たかった。

青い壁は写真よりもずっと深い色をしていた。群青というより、夜そのものだった。

春江は部屋の入口で立ち止まった。

「夫は、この部屋で亡くなりました」

「病気で?」

「心筋梗塞だと言われました。でも、その前の日、夫は言っていたんです。『家だけは守れ。壁だけは壊すな』と」

山崎は壁を見た。

久能怜司はなぜ、この壁を狙うのか。

壁の前に立ったゆいが、そっと言った。

「音がします」

全員が黙った。

風の音ではない。水の音でもない。

壁の奥から、かすかに、カチ、カチ、と規則的な音がしていた。

警察官が壁に近づく。

「何か機械が入っている可能性がありますね」

その瞬間、春江の携帯が鳴った。

非通知。

彼女は震える手で画面を見た。

山崎が言った。

「出ないでください」

しかし、画面には留守番電話の通知が残った。

再生すると、男の声が流れた。

「壁を開ければ、奥さんはご主人を二度殺すことになる」

春江はその場に崩れ落ちた。

第七章 契約書の罠

その日の午後、久能怜司から事務所に電話が入った。

「山崎先生ですね」

声は穏やかだった。薄い氷の上を歩くような、静かな声。

「久能さんですか」

「ええ。望月様の件で、先生が契約に口を出していると聞きました」

「契約書の確認依頼を受けています」

「では、専門家としておわかりでしょう。契約自由の原則です。ご本人が納得すれば問題ない」

「納得の前提となる説明が十分かどうかは、別の問題です」

久能は笑った。

「いいですね。書類を信じている人の声だ」

「書類は人を守ることもあります」

「逆です。書類は、人を静かに殺すためにある」

山崎は黙った。

久能は続けた。

「条文を読める者は少ない。読んでも意味がわからない者は多い。意味がわかっても声を上げない者はもっと多い。だから私は、書類にすべてを書いた。誰かが気づくか試したんです」

「試した?」

「ええ。あなた方は合格です」

電話は切れた。

みおが唇を噛んだ。

「何なの、あの人」

山崎は受話器を置いた。

「犯人は、自分の知性を見せたがっている。でも、本当に賢い人間なら、こんな目立つことはしない」

「つまり?」

りなが聞く。

「久能は、自分を見つけてほしいのかもしれません」

第八章 壁の中の録音

警察の立会いのもと、青い壁の一部が慎重に確認された。

壁の中には、古い小型録音機が埋め込まれていた。電池式ではない。壁内に細い配線があり、太陽光の小さな蓄電装置とつながっていた。

録音機には、古い音声データが残っていた。

春江の夫、望月誠一の声だった。

「これを聞く者がいるなら、私はもう死んでいるだろう」

部屋にいた全員が、息を止めた。

録音は続く。

「二十年前、私はある耐震改修事業の書類を偽装した。正確には、偽装に気づきながら止められなかった。補助金、検査記録、施工写真、報告書。全部が整っていた。だが、現場は違った」

春江が口を押さえた。

「久能怜司は、その時の構造担当だった。彼は止めようとした。だが、彼の報告書は握り潰された。私は見て見ぬふりをした」

録音の中の誠一は、何度も息を詰まらせた。

「久能は壊れた。いや、壊したのは我々だ。私はこの壁の中に、当時の資料の写しを残す。誰かがいつか、正しく読んでくれることを願って」

音声が途切れた。

壁の中からは、防湿袋に入った古い書類が見つかった。

施工写真。検査記録。会議メモ。金の流れを示す表。関係者名簿。

そこには、久能怜司の名前もあった。

ただし、加害者としてではない。

内部告発者として。

第九章 犯人は誰か

事務所に戻ったあと、山崎たちは沈黙した。

久能怜司は悪質リフォームの犯人なのか。それとも、過去の不正を暴こうとしているのか。では、脅迫電話は何だったのか。契約書の危険条項はなぜ作られたのか。

りなが、契約書をもう一度読み返していた。

「おかしい」

「何が?」

「この契約書、危険条項が多すぎるんです。悪質業者が使うには露骨すぎる。行政書士や弁護士に見せられたら一発で止まる」

律斗が頷いた。

「久能は止められることを前提にしていた」

みおが言った。

「でも、望月さんを怖がらせる必要は?」

ゆいが小さく答えた。

「怖がらせたのは、久能さんじゃないかもしれません」

全員がゆいを見る。

ゆいは電話記録を見ていた。

春江にかかってきた非通知電話。事務所への電話。声は加工されていた。だが、話し方に特徴があった。

「『青い壁を壊すな』って、言葉が変なんです」

「変?」

「本当に壁を守りたいなら、リフォーム契約を止めるはずです。でも脅迫文には『契約したら助かる』とあった。壁を壊す契約なのに」

りなが目を細めた。

「つまり、脅迫した人間は、契約内容をちゃんと理解していない?」

「はい。青い壁に何かあることだけを知っていて、契約書の意味までは読めていない」

山崎は静かに言った。

「久能ではない」

その時、ふみかが古い関係者名簿を見て声を上げた。

「この名前……」

名簿の中に、見覚えのある名前があった。

望月千紗

春江の娘だった。

第十章 娘の影

望月千紗は、春江の一人娘だった。

東京で不動産関連の仕事をしている。母とは疎遠。だが、春江の家のリフォーム契約には、千紗が強く賛成していたという。

「母が一人で古い家に住むのは危ない」「耐震補強した方がいい」「いい業者を紹介する」

一見、親切な娘だった。

だが、山崎はひとつ気になっていた。

リフォーム契約の紹介者欄が、空白だった。

業者を紹介した人間がいるなら、本来は何らかの記録が残る。だが、そこだけが不自然に消されていた。

みおが調べた限り、望月千紗は不動産ファンドに関係する会社に勤めていた。その会社は、静岡市内の古い住宅地をまとめて取得し、再開発する計画に関わっていた。

春江の家も、その区画に含まれていた。

「つまり、娘さんが家を手放させようとしていた?」

奏汰が言った。

「それだけなら、まだ普通の相続前整理の話で済むかもしれません」

山崎は言った。

「でも、青い壁の中に過去の不正資料があると知っていたなら、話は変わります」

久能は資料を表に出したかった。千紗は資料を消したかった。春江は何も知らなかった。そして山崎行政書士事務所は、契約書チェックという形で、その三者の中心に立たされた。

だが、まだ何かが足りなかった。

犯人が千紗なら、なぜ久能は危険な契約書を作ったのか。

山崎はそこに、最後の謎があると感じていた。

第十一章 久能からの手紙

翌朝、事務所に一通の封筒が届いた。

差出人は、久能怜司。

中には、手書きの手紙が入っていた。

山崎先生私は二十年前、正しさを証明できませんでした。書類はすべて整っていた。現場写真も、検査記録も、議事録も、すべて偽物ではなく、半分だけ本物でした。半分だけ本物の書類は、完全な嘘より人を騙します。 今回の契約書は、罠です。ただし、望月春江さんを陥れるための罠ではありません。書類を読める者に、異常を見つけてもらうための罠です。 私はもう表に出られません。追われているのは、私です。 青い壁を壊すな。それは私の言葉ではない。青い壁を、正しく開けてください。 久能怜司

みおが低く言った。

「じゃあ、久能さんは……」

その時、ニュース速報が流れた。

静岡市内の港近くで、男性が意識不明の状態で発見された。身元は久能怜司。命に別状はないが、強い衰弱状態。

春江の家の前に現れた不審者を追っていた途中だったという。

久能は犯人ではなかった。

では、知能指数マックスの犯人は、誰なのか。

第十二章 最も静かな犯人

山崎は、もう一度すべての資料を並べた。

契約書。見積書。工程表。青い壁の写真。録音。二十年前の資料。望月千紗の勤務先。久能の手紙。脅迫文。

りなは、ある一点に気づいた。

「脅迫文の文字、青いインクでしたよね」

「はい」

「でも、望月さんの家にあった夫の書斎にも、同じ青い万年筆がありました」

「それが?」

「脅迫文のインク、二十年前の書類に使われている修正メモと同じ色に見えます」

みおが写真を並べる。

青いインク。癖のある「壁」の字。横棒の最後が、わずかに跳ねる。

春江の夫、誠一の字と似ていた。

しかし誠一は亡くなっている。

では誰が書いたのか。

山崎は、春江の最初の言葉を思い出した。

「この契約書を持ってきた日の夜から、電話が鳴るんです」

その前ではない。契約書を持ってきた日の夜から。

契約書を山崎事務所に持ってきたことを知っていた人間。

春江本人。千紗。リフォーム会社。そして、もう一人。

山崎は春江に確認した。

「望月さん。ご主人の書斎に入れる人は、他にいましたか」

春江はしばらく黙った。

「弟がいます」

「弟さん?」

「夫の弟です。望月修一。今は、ほとんど会っていません。昔、建設関係の仕事をしていました」

ふみかが名簿を見直した。

そこにあった。

望月修一二十年前の耐震改修事業、現場管理補助。

りなが息を呑んだ。

「この人、名簿では下の方にいる。でも、現場に一番近い」

山崎は言った。

「書類を作った人間ではなく、書類どおりに現場を偽装した人間」

犯人は、表に名前が出る大物ではなかった。天才的な黒幕でもなかった。だが、誰よりも現場を知り、誰よりも証拠の場所を知り、誰よりも静かに生き延びてきた人物だった。

望月修一。

彼は兄の死後、青い壁に証拠があると疑い続けていた。だが、壁を壊せば春江に疑われる。だから娘の千紗に近づき、リフォームを勧めさせた。業者の久能が関わっていることを知ると、今度は久能を犯人に見せかけた。

契約書の危険条項は久能の罠。脅迫は修一の妨害。千紗は家を売らせたいだけだった。春江は何も知らなかった。

三つの思惑が、一冊の契約書で衝突していた。

第十三章 青い壁の正体

修一は警察の任意聴取を受けた。

だが、彼は簡単には崩れなかった。

「私は兄嫁を心配していただけです」「古い家は危険です」「脅迫など知りません」「久能という男の方が怪しいでしょう」

知能指数マックスの犯人。

それは、派手な犯罪者ではなかった。

証拠を直接壊さない。人を直接傷つけない。契約、親族、老朽化、善意、不安。それらを少しずつ押して、人が自分から危険な選択をするように仕向ける。

山崎は、修一の本当の恐ろしさをそこに見た。

彼は罪を犯すより先に、罪が罪に見えない状況を作る。

しかし、契約書は裏切らなかった。

修一が千紗へ送ったメールが見つかった。「壁内の古い物は業者に処分させろ」「母親に中を見せるな」「久能が関わるなら急げ」

さらに、春江の家の固定電話に細工した記録も確認された。

修一は最後に、こう言ったという。

「兄が悪い。あいつが黙って死ねばよかった」

その一言で、春江は泣かなかった。

ただ、青い壁の前に座り、長い時間、黙っていた。

終章 契約書は、人の心までは直せない

数週間後、山崎行政書士事務所に春江が訪れた。

以前より少しだけ背筋が伸びていた。

「家は、どうされるんですか」

山崎が尋ねる。

春江は静かに微笑んだ。

「直します。でも、急ぎません。まず、夫の書類を整理します。それから、娘と話します」

「千紗さんと?」

「はい。あの子も、家を売りたかっただけかもしれません。でも、私を見ていなかった。家の値段は見ていたけれど、私がそこで何を失うのかは見ていなかった」

ゆいが目を伏せた。

春江は続けた。

「青い壁は、一部だけ残します」

「なぜですか」

「怖い壁でした。でも、夫が最後に残した、謝罪の壁でもありましたから」

山崎は頷いた。

契約書は、人の心までは直せない。壊れた家族を、一枚の条文で元に戻すことはできない。過去の罪を、きれいに消すこともできない。

だが、契約書は時に、人が落ちる穴の形を照らす。

どこに危険があるのか。誰が責任を負うのか。何を承諾してはいけないのか。何を確認しなければならないのか。

その線を引くことで、人は一歩だけ、恐怖から離れることができる。

春江が帰ったあと、奏汰がぽつりと言った。

「住宅リフォームの契約書って、怖いですね」

みおが肩をすくめた。

「怖いのは契約書じゃないよ。読まれないと思って、そこに何でも埋める人間」

りなは書類を整えながら言った。

「でも、今回は読まれた」

山崎は窓の外を見た。

静鉄の電車が、草薙の町を抜けていく。

日常は、何事もなかったように動いている。だが、その薄い膜の下には、誰かの秘密、誰かの後悔、誰かの悪意が、静かに沈んでいる。

山崎行政書士事務所の机の上には、次の相談書類が置かれていた。

相続。内容証明。古物商。ISMS。クラウド法務。そして、また一件の契約書チェック。

山崎は静かにページを開いた。

紙の音がした。

その音は、とても小さかった。

けれど、人を守る仕事は、いつもその小さな音から始まる。

 
 
 

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