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青い看板の三分前

1 両替町二丁目、雨

雨の静岡は、夜になると道が二枚になる。

ひとつは人が歩く道。もうひとつは、路面に映った信号、軽トラックの尾灯、橙色の工事コーン、そして青い電柱広告が揺れる、逆さまの道だ。

その夜、静岡県警捜査一課の瀬名玲は、両替町二丁目の細い通りで、逆さまの青い文字を見ていた。

山崎行政書士事務所。

電柱に巻かれた縦長の広告は、雨粒を弾いていた。青地に黄色い文字。下には小さな白い案内と、緑色の町名札。街のどこにでもありそうで、一度気づくとどこにでもあるように見える看板だった。

遺体はその下にあった。

ただし、刃物も血痕も派手な破壊もなかった。だから余計に異様だった。男は背広姿のまま、まるで役所の窓口で順番を待つように、電柱にもたれて座らされていた。膝の上には透明なファイル。

中には、死亡届が入っていた。

死亡者欄には男の名。届出人欄には、黒い万年筆でこう書かれていた。

「三分前」

「死亡推定時刻は?」

玲が聞くと、鑑識の大石が顔をしかめた。

「午後八時四十七分前後。だが妙なんだ」

「妙?」

「通報は午後八時四十四分。つまり、殺される三分前に通報されてる」

玲は、雨の音の向こうで、誰かが笑ったような気がした。

2 青と黄の署名

翌朝、二件目が出た。

七間町。

白い壁に派手なイラストが描かれた建物の横。そこにも同じ青い電柱広告があった。

山崎行政書士事務所。

二人目の被害者は広告会社の役員だった。胸ポケットには、また透明なファイル。今度は死亡届ではなく、道路占用許可申請書の写しだった。

欄外に一行。

「左から見れば、申請。右から見れば、処刑。」

県警内に特別班が組まれた。マスコミは犯人を「青黄の殺人者」と呼び始めた。

三件目は有明町。四件目は鷹匠一丁目から四丁目の境。五件目は南八幡町十番付近。

どの現場にも、青地に黄色い縦文字の電柱広告があった。

被害者たちは、役人、広告業者、司法関係者、土地開発会社の元幹部。共通点は見えない。だが犯人は毎回、警察に写真を送ってきた。

件名は必ず同じ。

右・遠左・遠

写真には、同じ電柱が二方向から撮られていた。右から見た看板。左から見た看板。遠くから見た街。軽トラック、工事コーン、一方通行の標識、止まれの三角板、濡れた路面。

玲は送られてきた写真を会議室の壁に貼った。

両替町二丁目。七間町。有明町。鷹匠。藤座一丁目から四丁目。増田五丁目。南八幡町十番。丸子新田。下島一丁目から八丁目。

青い看板は、静岡市内に散っていた。

若い刑事の相良が言った。

「犯人は事務所を恨んでいるんでしょうか」

玲は首を振った。

「違う。恨んでいるなら、もっと直接的に狙う。これは広告じゃない。座標だ」

そのとき、捜査本部に一人の男が入ってきた。

白井穂高。三十二歳。犯罪地理学者。県警本部長が外部協力者として呼んだ男だった。白いシャツに黒い傘。目だけが眠っていない。

白井は壁の写真を一瞥し、笑わずに言った。

「犯人は、広告を見ていません」

玲が眉を上げる。

「どういう意味です」

「犯人は、広告に見られているんです」

3 知能指数の天井

白井穂高は、異様な男だった。

一度見た地図を忘れない。雨の反射角から撮影時刻を推定する。電柱の劣化、歩道の傾き、建物の外壁照明だけで、写真の方角を言い当てる。

そして何より、犯人の文章を読ませると、数秒で言った。

「これは挑発ではありません。申請です」

「申請?」

「犯人は警察に殺人を申請している。受理されるかどうかを試している」

玲は背筋に冷たいものを感じた。

「あなた、何者なんですか」

白井は壁の青い看板を見たまま答えた。

「昔、検査で測定不能と言われたことがあります。知能指数の上限を超えている、と。けれどそんな数字は役に立ちません」

「役に立つものは?」

「戸籍、許可、届出、印鑑、受付番号」

彼は写真の一枚を指さした。七間町の電柱広告。下段に小さな文字で、徒歩三分と読める。

「三分です」

「犯人の署名?」

「いいえ。猶予です。最初の通報が殺害三分前だった。つまり犯人は、三分あれば警察が人を救えるかを試している」

「なぜそんなことを」

白井は初めて玲を見た。

「誰かが、三分遅れたからでしょう」

4 広告台帳

六件目の予告は、午後五時三十分に届いた。

件名は、またしても。

右・遠

添付写真には、黒と黄色の警戒帯が巻かれた電柱が写っていた。緑の町名札には、丸子新田。

本文は一行。

「戻るな。進め。」

静岡市内は騒然となった。警察は丸子新田周辺に機動捜査員を配置した。玲も現場へ向かった。

しかし白井だけが、別の写真を見ていた。

「違う」

「何が違う?」

「この写真は右ではない。左を反転している」

「反転?」

「犯人は、わざと警察を丸子新田へ集めた。本命は下島一丁目から八丁目」

玲は一瞬で無線をつかんだ。

「全員、下島方面へ振り替え! 鉄道沿い、交差点、青い電柱広告を確認!」

だが三分は短すぎた。

下島の踏切近くで、六人目の被害者が発見された。

元市職員。十七年前、道路広告の許認可を担当していた男だった。

彼の手には、古い広告台帳のコピーが握られていた。ページの端に、子どもの字のような丸文字で書かれていた。

「ぼくは、ここにいました」

5 十七年前の三分

捜査は急転した。

十七年前、静岡市内で小さな事故があった。雨の夜、ある母子が軽トラックにはねられた。母親は死亡。子どもは意識不明のまま搬送された。

だが、奇妙なことに、その子どもの身元は確定しなかった。

母親の戸籍にも住民票にも、子の記載がなかった。病院記録には仮名。警察記録には「男児、推定七歳」。その後の移送記録は途切れ、児童相談所の受理記録も消えていた。

玲は資料室で、その古い事故現場写真を見つけた。

雨。軽トラック。工事コーン。白い壁。青い電柱広告。

山崎行政書士事務所。

十七年前から、同じ看板がそこにあった。

玲は写真の裏を見た。

撮影者名は、白井ではない。広告確認業者の名でもない。

そこに書かれていたのは、六人の被害者の連名だった。

相良が青ざめた。

「つまり被害者たちは、十七年前の事故隠しに関わっていた?」

玲は答えなかった。

白井が先に言った。

「隠したのは事故ではありません」

「じゃあ何を」

「子どもです」

会議室の空気が止まった。

白井は壁の写真を一枚ずつ外し、床に並べた。右・遠。左・遠。町名札。矢印。徒歩三分。止まれ。一方通行。

「この青い看板は、犯人にとって広告ではない。自分が世界に存在した証拠です。戸籍がなくても、住民票がなくても、街の写真にだけは写っていた」

玲は古い事故写真を見た。

画面の隅。電柱の陰。雨合羽のフードをかぶった小さな子どもが、こちらを見ていた。

死んだはずの子ども。

いや、書類上は最初から存在しなかった子ども。

6 犯人からの電話

七件目の予告は、電話だった。

玲の携帯に、非通知でかかってきた。

「瀬名警部補」

声は若い男とも女ともつかなかった。

「あなたは、三分で人を救えると思いますか」

「あなたを止める」

「止める? 受理も却下もしていないのに?」

「あなたは人を殺した」

「人は、書類で先に殺されるんです」

背後で踏切の警報音が聞こえた。

玲は手元の地図を見た。踏切。青い看板。下島。いや、そこはもう終わった。

白井が突然、玲の携帯を奪った。

「次は鷹匠ではない。駿府城公園でもない。あなたは最初の場所へ戻る」

電話の向こうで、沈黙があった。

白井は続けた。

「両替町二丁目。雨の日の電柱。あなたはそこから始めたんじゃない。そこに置き去りにされた」

電話が切れた。

玲は白井を見た。

「なぜ分かった」

白井は答えなかった。

ただ、壁に貼られた最初の写真を見ていた。両替町二丁目。白い壁。外灯。青い看板。

玲はその視線の先に気づいた。

写真の金属プレートに、撮影者の姿が反射している。

傘を差した、白いシャツの男。

「白井さん」

玲の声が低くなった。

「この写真、警察に送られる前から、あなたは見ていたのね」

白井は静かに微笑んだ。

「いいえ」

「嘘」

「見ていたのではありません」

彼は玲の手から古い事故写真を取った。

「写っていたんです」

7 最大値

両替町二丁目に、再び雨が降った。

玲は拳銃を構え、青い電柱広告の前に立った。周囲は封鎖済み。相良たちが路地を固めている。

白井穂高は、電柱の根元にいた。

その足元には、透明なファイルが置かれていた。中身は死亡届ではない。

出生届だった。

届出人欄には、十七年前に死んだ母親の名。出生者欄には、空白。

白井は言った。

「僕には名前がありませんでした」

玲は銃口を下げなかった。

「白井穂高は?」

「作りました。拾った戸籍、消えた住民票、廃棄された病院番号、広告台帳。人間の社会は、穴だらけです。知能指数が高ければ、高いほどよく見える」

「だから殺した?」

「いいえ」

白井は首を振った。

「僕は殺人者を作った」

玲は一歩止まった。

「何?」

「六人を殺したのは、僕ではない。僕は地図を送った。写真を送った。三分の猶予を与えた。あとは、彼女がやった」

その瞬間、無線が割れた。

「警部補! 相良です! 本部の解析端末から外部送信! 発信者は――」

ノイズ。

玲の背後で、傘が開く音がした。

そこに立っていたのは、鑑識の大石だった。

いや、大石ではなかった。

眼鏡を外し、髪をほどいたその女は、現場でいつも無言で写真を撮っていた鑑識官だった。玲より先に現場に入り、玲より先に遺体を見て、玲より先に青い看板を記録していた女。

名札には「大石」とある。だが、それも作られた名前だった。

白井が言った。

「姉です」

玲は息を呑んだ。

女は穏やかに言った。

「私は三分、弟の手を握っていました。母はもう動かなかった。通報した男たちは、書類の処理を相談していた」

雨が強くなった。

「弟は生き残った。でも社会には存在しなかった。私は存在していた。でも家族を失った。だから決めたんです」

彼女は玲に透明なファイルを差し出した。

「殺す順番ではなく、受理される順番で並べました」

玲はファイルを開いた。

中には、六人分の自白書があった。十七年前の隠蔽。無戸籍児の記録抹消。広告台帳の改ざん。事故車両の処分。関係者の署名。

すべて本物だった。

玲は震える声で言った。

「あなたたちは、復讐のために連続殺人をした」

女は首を傾げた。

「違います」

白井も同時に言った。

「これは、出生届です」

その瞬間、玲は理解した。

彼らの目的は、逃亡ではない。逮捕でもない。死刑でもない。

裁判だった。

公開の法廷で、十七年前に存在しなかった子どもを、国家に認めさせる。そのために彼らは、逃げ切れる知能を持ちながら、わざと捕まる場所を選んだ。

青い看板の下。

街の写真に、初めて自分が写った場所。

8 受理

裁判は全国ニュースになった。

六人の殺害は争いようがなかった。姉は主犯として起訴され、白井は共同正犯として裁かれた。二人は淡々と罪を認めた。

だが同時に、十七年前の隠蔽も暴かれた。

消された病院記録。改ざんされた事故報告。廃棄された戸籍照会。広告台帳にだけ残った、雨合羽の子ども。

判決の日、玲は傍聴席にいた。

白井穂高は被告人席で、裁判長を見ていた。

裁判長が主文を読み上げる前、事務官が一枚の書類を裁判所に提出した。

戸籍訂正許可の決定。

白井は初めて、ほんの少し笑った。

玲はその笑顔を見て、怒りとも哀れみとも違う感情を覚えた。

最大の知能を持つ犯人は、警察を出し抜くために殺したのではなかった。司法から逃げるためでもなかった。自分がこの世に生まれたことを、判決文の一行に刻ませるために、街そのものを凶器にしたのだ。

数か月後。

両替町二丁目の電柱広告は、まだそこにあった。

山崎行政書士事務所。

雨の日、青地に黄色い文字は、路面にゆがんで映る。

玲はその前を通るたび、下段の小さな文字を見てしまう。

徒歩三分。

人が人を救うには、短すぎる。人が人を見捨てるには、長すぎる。

そして青い看板は、今日も静岡の街角で、何も知らない顔をして立っている。

 
 
 

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