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青き海へ堕(お)つ


1.海と祖父の影 征士(せいじ)が駿河湾に対して「深い青の狂おしい魅力」を抱くようになったきっかけは、幼少のころから祖父に聞かされた旧海軍時代の話だった。祖父は旧制海軍士官学校の出身であり、「海こそ日本の守りであり、人を飲み込む偉大な神の化身だ」と何度も語っていた。 復興期の静岡市内。焦げ跡を残す街角の片隅で暮らす少年は、祖父の褪せた海軍制服を見ながら、「海とは何だろう」とぼんやり思いを巡らせていた。自分の血に流れる“軍事的・精神的遺産”は何か。駿河湾を覗(のぞ)くたび、征士は大人びた胸騒ぎを感じていた。

 2.大学進学とヨット部 時が流れ、高校を卒業した征士は都内の大学へ進学した。そこではヨット部に入部し、本格的に海と対峙(たいじ)する環境を手に入れる。しかも、その海洋実習で駿河湾に出ることになったのは運命のようだった。 淡々とした練習メニューの合間、征士は一人、ボートの舳先(へさき)に立ち、海面を凝視する。視界に映るのはただの青い海ではなく、底知れぬ闇を蓄(たくわ)えた青。風が吹きつけて颯爽(さっそう)と帆(ほ)を打つ音のなか、彼は身体を引き締めるように意識を高めていく。筋肉と血潮を研ぎ澄ませ、海の呼び声に応えようとしていた。

 3.旧海軍の幻影 深夜の駿河湾に初めて出た日、月が蒼白(そうはく)い光を海面に落としていた。あたりは静寂(しじま)に包まれ、仲間たちが眠る舷側(げんそく)をそっと抜け出し、征士は一人ボートを出す。 海面はまるで鏡のように月光をはね返し、彼を幻想的な空間へ誘(いざな)う。すると、かすかな霧の向こうに、旧海軍の艦船らしきシルエットが浮かぶのが見えた。鈍色(にびいろ)の船体、甲板に立つ人影のようなもの、遠くから微かに聞こえる号令や銃(じゅう)の響き。 征士はそれを幻と思いつつも、同時に心が激しく震え、熱いものがこみ上げた。「これこそ祖父が語った、海がもたらす幻影か」。その夜から、彼は海中に潜む軍事的遺産や英霊たちの記憶に取り憑かれるようになる。

 4.恋人・静子との愛と溝 大学時代に出会った恋人の静子(しずこ)は、征士の祖父の話も敬意をもって聞いていたが、征士が「深い青の闇こそが純粋な日本の魂を映す鏡だ」とまで語り始めると、不安を覚えるようになる。 「そんなに海に心を奪われて、大丈夫なの?」 優しく問いかける静子に対し、征士は「俺にはこの海に捧(ささ)げなければならないものがある」と口走る。彼の目はどこか異常な光を放ち、静子の言葉を聞いていないかのようだ。 「海は我々の魂を飲み込む神。そこに身を浸してこそ、真の日本男児として生を終えられるのかもしれない――」 そんな倒錯(とうさく)した発言をするようになった彼を、静子は深く案じながらも愛することをやめられない。

 5.肉体の修練と死の誘惑 以降、征士はヨット部の練習とは別に、夜毎にボートを出す習慣を続けた。仲間には理解されず、静子も何度か止めに来るが、「俺はこの体を海に捧げるんだ」と聞かない。 日中はトレーニングルームで鍛え上げた筋肉をさらに酷使(こくし)し、深夜の海では裸身に近い姿で飛び込んで泳ぎ、呼吸を限界まで抑えて水中を漂う。そうするたび、征士は烈(はげ)しい快感とともに、死の恐怖が美へと昇華される瞬間を感じ取るようになる。肉体的陶酔の果てに、彼が見ているものは「水底に沈む旧海軍の艦の幻影」か、それとも「祖父の言った神の化身としての海」か。

 6.台風の荒夜 夏の終わり、台風が接近し、駿河湾は荒れ狂(くる)う波を生み出していた。部員たちは船の管理や避難に追われ、大学も休講ムード。そんな中で、征士だけは一人夜の海にボートを出す準備を始める。 静子は必死に引き留めるが、征士は狂気に似た笑みを浮かべ、「これこそが俺の決戦(けっせん)だ。祖父の言っていた海への生贄(いけにえ)の時が来たんだ」と言い放つ。荒波を恐れるどころか、それを目指し、身を投げ出そうとする衝動が彼の目を紅潮(こうちょう)させている。

 7.青き海へ堕(お)つ 夜半、猛烈な風雨(ふうう)が駿河湾に押し寄せるなか、征士は執拗(しつよう)にオールを漕(こ)ぎ、波間へ進んでいく。船は大波に翻弄(ほんろう)され、幾度も転覆しそうになる。視界もままならない中、彼はやにわに立ち上がり、甲板めがけて身体を突き出すように跳(と)んだ。 激しい水しぶきと雷光が交錯(こうさく)し、まるで旧海軍の艦船が幻のように浮かび上がる瞬間が訪れる。征士はその幽(かす)かなシルエットを捉え、「今こそ至高の死が、俺を招いている」と確信する。雷鳴が轟(とどろ)き、彼は海へ身を投げ出した。 水面を突き破り、真っ暗な海中へと堕ちていく。耳鳴りと肺が焼けるような苦しみが迫(せま)る中、彼の脳裏には祖父の声が響いていた。「海は神の化身。日本を守り、人を飲み込む――」 次の瞬間、征士は生涯で最も美しいと思える紺碧(こんぺき)の光に包まれ、深く深く沈んでいった。意識が遠のくと同時に、彼は恍惚(こうこつ)のうちに自分の魂が海に溶け込むのを感じていた。

 エピローグ:海面の静寂 台風一過の翌朝。駿河湾の空は晴れ渡り、波はまだ荒れていたが、その奥には穏やかな青が徐々に広がりつつある。 岸辺では、海上保安庁のボートや漁船が捜索を続けていた。征士のボートは半壊した状態で発見されたが、当の彼の姿はどこにもなかった。 静子は祈るように浜辺に立ち尽くし、じっと海を見つめる。青い水面の向こうには、時折(ときおり)光を反射してきらめく波の連なりがあるだけだ。 彼が突き進んだ「美と死の誘惑」は、まぎれもなくこの海に吸収されてしまった。それは悲劇と呼ぶべきか、それとも彼にとっての完成された美だったのか。誰にもわからない。ただ、駿河湾の深い青は今も変わることなく揺らぎ、かの旧海軍の幻影もまた、海底で揺れているに違いない。

 
 
 

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