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青に染まる山並み(続編)

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月14日
  • 読了時間: 7分


プロローグ:あわいの季節

 巡回展の準備もいよいよ本格化し、幹夫(みきお)の元には各地の美術館やギャラリー関係者から連絡が相次いでいた。外の空気は新緑の香りを孕みながら、早春の冷たさをほんのわずかに残している。 家の縁側で母と二人、お茶を飲みながら、幹夫は「行く先」のことを考えていた。まだ見ぬ土地で自分の絵が展示される。その先で、どんな人々と出会い、どんな景色に触れるのだろうか。 ふと庭を見ると、風に揺れる雑草のあいだから小さな花がのぞいている。いまにも千切れそうなほど柔らかい茎を揺らしながら、薄紫色の花弁がかすかに微笑んでいるように見えた。

第一章 町外れの駅から

 翌朝、幹夫は夏子(なつこ)と待ち合わせて、町外れの小さな駅へ向かった。巡回展の下見を兼ね、隣県のギャラリーへ挨拶に行くためだ。 駅舎は木造で、昭和の面影を残す佇まい。ポツリと立つ改札口には、誰もいない。二人は改札を抜けてホームに出ると、線路の向こうに連なる山並みをじっと見つめた。 「まだ雪が残ってるんだね」と夏子が言う。 「うん。でもきっと、もうすぐ青々とした葉に覆われるよ」 幹夫はホームのベンチに腰掛け、かすかな朝の光を感じながら目を細める。山のあちこちが、うっすらと水彩絵の具のような淡い緑で彩られはじめているように見えた。

 やがて列車がやってきて、二人は乗り込む。ガタゴトと揺れる窓の外には、一本の川が寄り添うように流れ、時折遠くに赤い橋が見え隠れする。 まばらな乗客の中、夏子は小さく息をつく。 「蔵のこと、お願いしてきた若いスタッフたちが張り切ってくれててね。留守にしても心強いの」 「そっか。よかったね」 二人は小さく笑い合う。駅を出て少し走っただけなのに、もう故郷からずいぶん遠ざかってしまったような、けれど不思議と安心できる気分だった。

第二章 森の調べ、街の鼓動

 隣県の町は、故郷よりも少し大きく賑やかで、駅前には人や車の往来が盛んだった。タクシーに乗って目的地のギャラリーへ向かう間、幹夫は車窓を通して街の様子を観察する。 ビルの谷間から覗く空には、遠くの山の稜線がかすかに映える。吹き抜ける風が冷たく、朝の光がガラス窓を反射して鋭く光っている。 「ここに幹夫の絵が飾られるのか……なんだか想像つかないね」 夏子はそう言いながら、少しわくわくした表情を見せる。 「うん。都会の風景や人の波の中で、僕の森の絵がどんな風に見えるのか、正直わからない。でも、この街にもきっと静かな場所や、ほの暗い路地があるはずだよね」 幹夫はそう言って、胸の内にかすかな高揚感を抱え込む。街の鼓動と森の調べは、本来相反するものではなく、どこかでつながっている——そんな予感が湧き上がった。

第三章 遠くの青い稜線

 ギャラリーの館長は柔和な笑みを湛えた白髪混じりの紳士で、東山魁夷の絵や川端康成の文学にも造詣が深いと聞いていた。 案内された展示室は思いのほか広く、白い壁の高い天井からは柔らかな光が差し込んでいる。 「ここなら、都会の雑踏から離れた静けさを演出できますよ。幹夫さんの描く森や湖、白馬のイメージも、きっとしっかり伝わるはずです」 館長の言葉に、幹夫は心強さを覚えると同時に、自分の中で答えを探していた疑問がふと軽くなる気がした。森は、ここでもきっと息づくのだ。 “白馬”はその静寂の中を駆け抜け、思いもよらぬ人々の心にも静かな感動を呼び起こすかもしれない。

 しばらくして、打ち合わせを終えた幹夫と夏子は、ギャラリーのテラスにある小さな喫茶スペースへ向かった。カップに注がれたコーヒーから、ほのかな苦みの香りが立ちのぼる。 ガラス越しに見る街並みの向こうには、青い山並みがぼんやりと霞んでいる。 夏子はカップを両手で包み込み、ゆっくりと一口飲む。 「遠くに見える山って、あの稜線の奥に私たちの町があるんだなって思うと、不思議な感じ」 幹夫も頷き、「同じ山続きだけど、見え方が変わるだけで、全然違う景色になるね」とつぶやいた。

第四章 夕闇に煙る面影

 夕方になり、予定していた用事をひととおり終えて、二人は帰りの列車まで少し時間があったので街を歩いてみることにした。 繁華街の華やかな明かりが灯り始めるころ、高層ビルの谷間に淡く夕闇が垂れてくる。雑踏に紛れて歩いていると、不意に風が吹き抜け、どこか懐かしい香りがしたように幹夫は感じる。 振り返っても、ただ車や人波が行き交うだけ。けれど、幹夫の中には森の夜気が立ち込めるような“静寂”がふっと広がった。 「どうしたの?」と夏子が尋ねる。 「ううん、なんでもない。ちょっと、父を思い出したみたい。あの、夜の森を歩いたときのこと」 夏子は彼の瞳を見つめ、小さく微笑む。「きっと一緒に歩いてるんじゃないかな、いまも」。

 雑踏の音は遠く感じられ、足元に落ちる街灯の影がかすかに揺れる。幹夫はほんの一瞬、そこに白い馬の影を見たような気がして、胸が温かくなった。

第五章 駅のホームで

 夜が深まった頃、二人は再び駅のホームに立っていた。行き交う列車のアナウンスが響き、昼間とは違う冷たい風がスーツ姿の人々を急かしているようだ。 幹夫は改札前の販売機で温かい缶茶を買い、夏子に手渡す。缶を開けると、ほのかに香ばしい匂いがする。 「なつかしいね、こういう駅の夜。高校生のとき、初めて一緒に電車でどこかへ行った日を思い出す」 夏子が微笑みながら言う。幹夫も、あの頃はずいぶん不器用だったなと照れくさく思い出す。 そのとき、ガタンゴトンと列車が滑り込み、扉が開いた。二人は流れる人波を避けるように乗り込み、静かな席に腰を下ろす。車内は思いのほか空いていて、ほどよい寂しさが漂っていた。

第六章 白い夢、青い風

 最終列車の揺れに身を委ねているうち、幹夫はいつのまにか浅いまどろみに落ちていた。 ――薄闇の中、森の奥に差し込む一筋の光。そこには白馬が立っている。馬の吐息が白く煙り、湖面に映る影がゆらゆらと揺れている。 近づこうとしても、その姿は遠のいていく。だが決して消えてしまわない。まるで笑うように、まるで誘うように。 「父さん……」と呼びかけた瞬間、意識が一気に覚醒し、幹夫はびくりと肩を震わせた。隣の席で夏子が小声で「大丈夫?」と問いかける。 幹夫は「ああ、うん……」と答え、窓の外を見やる。列車の窓ガラスに映るのは、暗い山里の闇。どこかの町の灯火が一瞬過ぎ去り、また闇が広がる。 それでも、幹夫はその闇の中に深い青い風を感じた。白馬の吐息も、父の面影も、みな同じ森に通じている――そんな不思議な安心感が胸を満たす。

第七章 青に染まる山並み(エピローグ)

 やがて列車は故郷の駅に到着し、二人は夜気をまといながら改札を抜けた。山あいの町には、どこか透明で冷たい空気が漂い、道端の野花は夜露に濡れて小さくうなだれている。 「今日も長い一日だったね。お疲れさま」 夏子が小さく囁く声は、風の音と溶け合うように静かだった。幹夫は「ありがとう」と返し、互いに軽く手を振って分かれる。 夜道を歩きながら、ふと見上げると、山並みが夜空の下で漆黒というよりは淡い藍色のシルエットを描いていた。幹夫は足を止めて、その奥にぼんやりと白い気配を見たような気がする。 たとえ姿がなくとも、いつだって白馬はそこにいる――森の奥底で静かに呼吸し、幹夫や夏子を見守っているかのようだった。

 翌朝、早い時刻に目が覚めた幹夫は、家の縁側に腰をおろして庭先を見つめた。やがて東の空が白みはじめ、陽が少しずつ山の稜線を染め上げる。その一帯が淡いブルーからオレンジへ、オレンジから優しい金色へと変化していく瞬間に息を呑む。 「きっと、あのギャラリーでも、この色の変化を感じ取ってくれる人がいるんじゃないかな……」 そう思うと、幹夫の胸の奥に温かい光がともった。父の残した東山魁夷の画集を思い返しながら、今度は自分の描く“青い世界”が誰かの心を満たすかもしれない、と信じられる。 ふと、遠くの森から一羽の小鳥が鳴く声が聞こえた。いつもより早い朝の始まり。幹夫はもう一度、深く息を吸い込んで立ち上がる。 白馬にいつかもう一度会えたら――そんな淡い願いを胸に抱きながら、今日も新しい一日が始まる。夜明けの空は、限りなく静かで、限りなく大きく広がっていた。

 
 
 

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