青葉の夜市、金魚すくいは負け方が粋
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月23日
- 読了時間: 7分

幹夫青年が青葉の夜市へ迷ひ込んだのは、誰かと待ち合はせてゐたからではない。むしろ、待ち合はせの言葉を使ふほどの相手を、彼はこの頃うまく持てずにゐた。 仕事帰り――といふ顔も出来ず、家に帰る――といふ顔も今夜は少し苦しく、結局、灯の多い方へ足が勝手に曲つたのである。灯は人間の言ひ訳を聞かぬ。聞かぬ代りに、胸の影を薄くしてくれる。
青葉の並木は、夜になると、昼のまじめさを脱ぐ。 提灯が並び、屋台の看板が色を持ち、湯気が道の高さまで立ち上がる。焼きそばの油、串の焦げ、甘い綿菓子、遠くのたこ焼きの青海苔――匂ひが混ざると、頭の中の余計な裁判が止まる。裁判が止まると、人はただ歩ける。
人波は、ほどよく密で、ほどよく無責任だつた。 家族連れが子どもの手を引き、学生らしい二人組が笑ひながら写真を撮り、年配の夫婦が屋台の前で小さく相談してゐる。皆、楽しさうに見える。楽しさうに見える顔は、作らうと思へば作れるが、作らぬ方がよい顔もある――と幹夫は斜に構へかけて、すぐやめた。斜に構へると、腹が減つてゐるのが余計にみじめに感じられる。
幹夫はまず、串を一本買つた。 焼鳥かと思つたが、屋台の札には「豚ねぎ」とある。静岡の夜市らしく、茶の香のするお茶割りも並んでゐる。幹夫は、串を受け取るときに、前の客に続いて「こんばんは」と言つてしまつた。言つてしまつたのが、少し不思議だ。先に挨拶をすると、こちらの肩が軽くなる――駿府の春で覚えた稽古が、今夜も勝手に出たのである。
串を口へ運ぶと、脂の熱が舌に触れ、すぐに塩が追ひかけて来る。 うまい。うまいといふのは、難しくしないで済む味だ。幹夫は、難しくしない夜を一晩ぐらゐ持ちたかつた。
そのとき、並木の影の向うに、水の光が見えた。 光といふより、水面が提灯を映して、ちかちかと赤く揺れてゐる。近づくと、そこは金魚すくひの屋台だつた。桶の中に、赤い金魚がいくつも泳ぎ、黒いもの、まだ白つぽい小さなものも混じつてゐる。水に灯が映ると、金魚はまるで小さな火の玉のやうだ。火の玉が、水の中で涼しい顔をしてゐる。その矛盾が、幹夫にはたまらなく面白く見えた。
屋台の前には子どもが並び、紙のぽいを握つて、真剣な顔で水に向つてゐる。 子どもの真剣は、役に立つか立たぬかを問はぬ。そこが美しい。大人の真剣は、すぐ利益と結びついて、結びついた途端に厭らしくなる。幹夫は、子どもの真剣を少し羨ましがりながら、しかし羨ましがる自分を野暮だとも思つた。羨ましがるなら、やつてみればいい。
屋台の親方は、手ぬぐひを首にかけた年配の男であつた。 声が大きいが、押しつけがましくない。客の顔を見て、すぐに距離を測る目をしてゐる。
「兄さん、見るだけ? 一回やつてきな。金魚は逃げねえけど、夜はすぐ逃げるよ」
夜はすぐ逃げる――。 幹夫はその言葉が気に入つた。夜が逃げるなら、こちらも少しぐらゐ勝手に動いてよい。
「……一回、お願いします」
幹夫は財布から小銭を出した。 十円玉の音で明日が上等になる――大道芸の帽子で覚えた稽古が、またここでも出て来る。人生は、稽古が続くと少しだけ明るい。幹夫は紙のぽいを受け取つた。紙は薄い。薄いのに、やけに責任があるやうに見える。薄い責任ほど怖いものはない。
幹夫は、格好をつけようとした。 格好をつけると、必ず失敗するのに、つけずにはゐられない。ぽいを水に入れる角度、手首の返し、金魚の追ひ方――幹夫は頭の中で、誰も教へてくれない「正しい金魚すくひ」を組み立て始めた。組み立て始めた瞬間、もう負けが見えてゐる。
案の定、最初の一掬ひで、紙がふわりと撓み、 次の瞬間、ぶつ、と破れた。
水の音がした。 周りの子どもが「あー」と言ふ。 後ろの若い男が、くすりと笑つたやうな気もする。 幹夫の頬が、急に熱くなつた。
――ほらみろ。 ――大人が子どもの真似事をすると、こうなる。 幹夫の頭の中の裁判が、また勝手に開廷しさうになつた。けれど、その裁判が始まる前に、親方があつさりと言つた。
「いいねえ。破れ方が素直だ」
「……素直、ですか」
「さう。紙はね、水に勝てねえんだ。勝てねえのを分つてやるのが、金魚すくひの粋だよ」
粋。 親方は「粋」といふ言葉を、ふだんの調子で言つた。 東京の古い町の気取りではなく、夜市の湯気の中の、実用の言葉である。幹夫は、その実用の「粋」がありがたかつた。
「もう一枚やるよ。兄さん、今のは“勝ちたい手”だった。次は“負けてもいい手”でやれ」
負けてもいい手。 幹夫は、思はず笑ひさうになつた。 負けてもいい手――そんな手があるなら、人生にも欲しい。幹夫はいつも、勝たねばならぬ顔で負けるから、余計に傷つく。負けてもいい顔で負ければ、負けは案外、軽いのかもしれぬ。
幹夫は二枚目のぽいを受け取つた。 今度は、狙ひを大きくしない。大きい金魚を狙ふと、欲が顔を出す。欲が顔を出すと、手が震へる。震へると破れる。――この筋書きはもう十分だ。
小さな金魚が、桶の端でゆつくり泳いでゐる。 幹夫は、ぽいを水面にそつと置くやうに入れた。置いたまま、金魚を追はぬ。金魚が「勝手に」来るのを待つ。待つことは怠けではない。待つことは、負けてもいい手の一部だ。
金魚が近づいた。 ぽいの上を、すべるやうに通りかける。 幹夫は、ほんの一寸だけ手首を上げた。
紙は、また、ぶつ、と破れた。 けれど、その瞬間、金魚がちやうど紙の中心に居たので、破れた紙の輪が、金魚を邪魔せずに、すとんと小さな枠を作つた。親方が横から小さな網で、さりげなくそれを掬つて、紙コップの中へ落とした。
「はい、一匹。今のは“負け方の勝ち”だ」
負け方の勝ち。 幹夫は、思はず声を出して笑つた。 声を出して笑ふのは久しぶりで、笑つたあとに少し照れたが、夜市の灯りの中では、その照れもまた提灯の影にまぎれる。
親方が、透明の小さな袋に水を入れ、金魚を移してくれた。 袋の中で金魚が尾を振る。赤い尾が、水の中で柔らかい。水の中の赤は、灯の下の赤より静かだ。
「持って帰る?」
親方が聞いた。 幹夫は一瞬、迷つた。金魚を持つて帰る生活――それは幹夫の部屋には少し眩しい。眩しいものは、時に救ひになるが、時に責任にもなる。幹夫は責任が苦手だ。
迷つてゐると、隣で小さな男の子が、泣きさうな顔をしてゐるのが見えた。 紙のぽいが破れて、まだ一匹も取れぬらしい。母親が「もう一回やる?」と聞くが、子どもは首を振る。首を振るのは、諦めたのではなく、悔しいのを隠してゐる首の振りだ。悔しさを隠す首の振りは、幹夫にはよく分る。
幹夫は、袋を手に提げたまま、その子の前へ少し身をかがめた。
「……よかつたら、これ」
子どもが目を丸くする。 母親が慌てて「そんな、いいです」と言ひかける。 幹夫は、先に言つてしまつた。
「僕、負けて取れたやつなんで。――負け方の勝ち、らしいです」
自分で言つて、可笑しくなつた。 子どもも、意味が分らぬまま、でも可笑しさだけは伝はつたのか、ふつ、と笑つた。笑つた顔が出ると、さつきまでの悔しさが、少しだけ薄れる。薄れるだけで十分だ。
母親が深く頭を下げた。 幹夫は「いえ」と言つてしまひさうになり、言ひ直して「こんばんは」と言つた。こんばんは、と言へば、重たい感謝が少し軽くなる。挨拶は、便利だ。便利なものほど、実は粋なのかもしれぬ。
親方が、湯気の向うでにやりと笑つた。
「兄さん、いい負け方したねえ。負けて人が笑へば、夜市は勝ちだ」
夜市は勝ち。 幹夫は、その言葉が、だしの湯気みたいに胸へ沁みた。 勝ち負けは、いつも自分の中の裁判が決めると思つてゐたが、夜市の勝ちは、誰かの笑ひで決まるらしい。笑ひで決まる勝ちなら、幹夫にも少し参加できる。
幹夫は並木道へ戻り、串の残りを食べながら歩いた。 提灯の赤が、さつきより柔らかい。屋台の声が、さつきより優しい。 景色が変つたのではない。幹夫の目の角が、ほんの一寸だけ取れたのである。
帰り道、幹夫はスマホを取り出し、短く打つた。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。今夜は、金魚すくひの紙のやうに、薄くていい。薄くても、音が鳴ればいい。
――「青葉の夜市で金魚すくひ。負けたのに一匹取れた。負け方が少し粋だつた。」
送信すると、画面が静かに戻つた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、今夜の幹夫は、それで十分だと思へた。負けてもいい手で、少し動けたからである。
夜市の灯りは、もう少しで消える。 けれど、負け方の粋は、しばらく胸の中で消えないだらう。 幹夫青年は青葉の夜で、金魚をすくつたのではない。 自分の重たい勝ち負けを、ほんの一寸、すくひ上げて軽くしただけである。 それが、今夜のいちばん明るい手柄であつた。





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