青葉の屋台、シュトーレンの端を分ける
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月25日
- 読了時間: 6分

幹夫青年が青葉通りの灯りの下へ出て来たのは、クリスマスらしいことを何か一つ――といふ、いかにも人に話しやすい理由を自分に与へたかつたからではない。 むしろ彼は、理由を立派にすると、その理由が翌朝には説教に化けることを、もう嫌といふほど知つてゐる。 ただ、部屋の白い灯が冷たかつた。白い灯の下では、返信し損ねた文や、言ひ損ねた挨拶が、机の上にきちんと整列して見える。整列して見えるものほど、人を疲れさせるものはない。
だから幹夫は、灯りの“にじむ方”へ来た。 青葉の並木の冬灯りは、白く断言しない。きらきらしてゐるくせに、どこか柔らかい顔をしてゐる。柔らかい顔の下なら、こちらの失敗も少しだけ丸く見える。
並木の下には、小さな屋台が点々と出てゐた。 甘い匂ひ、焦げの匂ひ、湯気の匂ひ。 湯気は、いつでも人間の肩を落ち着かせる。静岡の町は、祝ひの日でも、どこかで湯気を立ててゐるのがいい。湯気のある祝ひは、威張らない。
幹夫は、端から端まで眺めるつもりで歩いてゐたのに、ある屋台の前で足が止まつた。 白い粉糖をまとつた菓子パンの塊が、木の台の上に鎮座してゐる。札に、見慣れぬ字。
シュトーレン (薄く切つてどうぞ)
シュトーレン――といふ外来語は、幹夫にとつて少し照れ臭い。 照れ臭いが、照れ臭いものほど、祝ひの日には似合ふ気がする。 屋台の男は三十そこそこの顔で、手袋をしたまま包丁を動かしてゐた。白い粉がふわりと舞ひ、灯りを拾つて一瞬光る。
「こんばんは。ひと切れ、どうです?」
男の声が押しつけがましくない。押しつけがましくない声は、こちらの言ひ訳を育てない。 幹夫は、先に言つた。
「こんばんは。……ひと切れ、ください」
「どこ取る? 真ん中、端っこ。端っこは、ちょっと“らしい”よ」
端っこ。 端っこ、と言はれると、幹夫は急に落ち着く。真ん中は、いつも立派で、しかも立派に見られたがる。端っこは、立派でない代りに、気が楽だ。
「……端っこ、で」
「いいねえ。端っこはね、粉も多いし、香りも濃い。人生も端っこがうまいことある」
男は冗談めかして言ひ、端の部分を薄く切り、紙に包んだ。 紙包みは軽い。軽いのに、手に持つと急に“今夜の用事”になる。用事になると、人は少しだけ前向きになる。
幹夫は、紙包みを持つて、並木のベンチに腰を下ろした。 灯りが頭上で揺れ、足元の石畳が、光を薄く返す。 紙を開くと、粉糖が指に付いた。白い粉は、雪の代りみたいで、静岡の夜にちやうどよい嘘である。嘘だが、よい嘘だ。よい嘘は、人を責めない。
ひと口かじると、甘さが先に来て、あとから果実の香が追ひかける。レーズン、オレンジピール、ナッツ――名前は知らぬが、冬の匂ひがする。 幹夫は、うまい、と言ひさうになつて、言はなかつた。言はなくても、口が勝手にうまい顔をする。うまい顔をしても叱られぬのが、ベンチの良さだ。
そのとき、隣のベンチに、若い女が座つた。 コートの襟を立て、手はポケットの中。ひとりで来た顔である。 女は屋台の方を見て、見たまま、少し困つたやうに笑つた。困つた笑ひは、幹夫にはよく分る。買ひたいのに買へない笑ひ。混ざりたいのに混ざれない笑ひ。――つまり、自分の笑ひだ。
幹夫は、声をかけるかどうか迷つた。 迷ふと、いつもの裁判が始まる。 ――話しかけたら変だ。 ――変でなくても、返事に困る。 ――困つた自分が恥づかしい。 幹夫はその裁判の書記をやるのが妙に上手い。
だが、シュトーレンの端っこが、指先で白く光つてゐた。 端っこは、立派にならなくていい。 立派にならなくていいなら、ひとことぐらゐは出せるかもしれぬ。
「こんばんは」
幹夫が言ふと、女は驚いた顔をして、それから素直に返した。
「こんばんは」
返してもらへると、胸の石の角が少し取れる。角が取れると、次が言へる。
「……シュトーレン、食べます?」
言つてから、幹夫は少し赤くなつた。 “食べます?”といふのは、あまりに直接だ。 けれど、直接だからこそ、言ひ訳が入らない。言ひ訳が入らぬ言葉は、意外に清潔だ。
女は一瞬迷つた。迷ひ方が上品だつた。 そして、肩をすくめるやうに言つた。
「……本当は買おうと思ったんですけど。ひとりで買うの、なんか照れます」
照れます。 その言葉が出るだけで、もう十分に仲間である。照れる人間は、照れる人間同士でゐると楽になる。
「端っこです。……端っこ、気が楽で」
幹夫がそう言つて紙包みを差し出すと、女はふつと笑つた。
「端っこ、分かります。真ん中は、ちゃんとして見えますもんね」
「ちゃんとして見えるの、疲れます」
幹夫が言ふと、女は小さく頷いた。 頷きは、拍手より静かだが、よく効く。
「……じゃあ、少しだけ。ありがとうございます」
女は、粉糖のついた端をちいさく折り、口へ運んだ。 噛んだ瞬間、女の目が少しだけ細くなる。 目が細くなると、夜が一寸明るくなる。たつたそれだけで、祝ひは成立するらしい。
「おいしい」
女が言つた。 “おいしい”は短い。短いから、本当だ。
女はポケットを探り、のど飴の小袋を出した。
「……交換、しません? もらうと悪いので」
交換。 その言葉が出ると、幹夫の胸がふつと楽になる。受け取るのが苦手な人間には、交換がいちばん優しい形だ。 幹夫は笑つて頷いた。
「じゃあ……交換で」
飴と端っこの交換。 立派な贈り物ではない。だが、立派でない方が長持ちする。立派な贈り物は、返さねばならぬ顔をする。立派でない贈り物は、ただ温かい。
女は、飴をひとつ手渡しながら言つた。
「メリークリスマス、ですね」
幹夫は、また一瞬詰まつた。 メリークリスマスは、言へばいいだけなのに、言ふと自分の顔が浮つく気がする。浮つくのが恥づかしい。 だが今夜は、端っこを分けた夜だ。端っこの夜は、立派にならなくていい。
「……メリークリスマス」
幹夫が言ふと、女が笑つた。 その笑ひは、屋台の灯りのやうににじんで、叱らない。
二人は、それ以上深い話をしなかつた。 深い話をしないのに、気分は悪くない。むしろ、深い話をしない方が、祝ひは生々しくならずに済む。祝ひは、生活の端っこにあるぐらゐがちやうどいい。
女は立ち上がり、軽く会釈をして去つた。 幹夫は手の中の飴を転がし、粉糖の白い指を見た。白い粉が、すこし自分の生活に付着した。付着した白は、案外、洗はなくてもいい白だ。
幹夫はスマホを取り出した。 ここで長文を打つのが、いつもの癖だ。長文は立派に見える代りに、言ひ訳の巣になる。巣が出来れば、送れない。送れなければ、また自分を責める。――その循環はもう散々だ。
幹夫は、短く打つことにした。 鈴の音のやうに。端っこのやうに。
――「メリークリスマス。青葉でシュトーレンの端っこ分けた。甘かった。元気?」
送信すると、胸の内がすとんと静かになつた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、短く出せたことが、今夜の自分の勝ちである。勝ちは、いつも大きくなくていい。
幹夫青年は、青葉の屋台で立派な感動を得たわけではない。 ただ、シュトーレンの端を分け、飴と交換し、「メリークリスマス」を一度言へただけである。 だが、その“だけ”があると、帰り道の灯りが、少しだけ自分の方へ寄つて来る。 祝ひは真ん中にあるのではない。端っこに、そつと置いてある。幹夫は今夜、その置き場所を覚えたのである。







コメント