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青葉の湯気に、星が混じる

――幹夫青年と「だし粉の小人」――

 幹夫(みきお)は、紙の角がこわかった。 正確には、紙そのものではない。紙が「誰かに何かを告げる役目」を背負った瞬間の、あの角の鋭さがこわいのだ。

 封筒でも、通知書でも、説明書でも。 いったん“決定事項”として折り目がついてしまった言葉は、やさしく触れようとしても、なかなかやさしくならない。 人の心のいちばん柔らかいところに、平気で触れてしまう。

 夕方、静岡の街に薄い暮色が溜まるころ。 幹夫は鞄の中のクリアファイルを、無意識に指で押さえた。 そこに入っている一枚の紙は、今日の仕事でいちばん“角が立つ”紙だった。

 「安全面の観点から、当該営業設備の改善・移設を要請します」

 書き方は丁寧だ。 丁寧なのに、なぜか刺さる。 丁寧だからこそ逃げ道がない。

 幹夫は、深呼吸を一つして、青葉通りのほうへ歩いた。 少し先で、香りが変わる。 車の排気の匂いでも、コンビニの揚げ物の匂いでもない。 それは、昆布と鰹と、砂糖と、味噌と、――そして、人のため息が混じった匂いだった。

 青葉おでん街。 狭い路地に、屋台と小さな店が肩を寄せ合って灯りをつける場所。 幹夫は初めてここに来たのではないのに、毎回、入口で立ち止まってしまう。

 灯りが、あまりにやさしいからだ。 やさしいものの前に立つと、自分の中の“固いところ”が浮いて見える気がして、怖くなる。 自分の固さで、この灯りを曇らせてしまいそうで。

 今日行くのは、その路地のいちばん奥にある、古い小さな店だった。 店の暖簾には、筆で乱暴なくらいに太い字で、 「おでん うめ」 と書かれている。

 幹夫は、その店の前で足を止めた。 中から笑い声がする。 湯気が、暖簾の隙間からふわっと出て、夜の空気に触れて白くほどける。 その白さが、幹夫には「許してくれるもの」に見えた。

 ――いや、許しなんて、どこにも書いてない。 幹夫は自分の胸の中でひとりごとをした。 勝手に救われそうになって、勝手に怯える。 いつもその繰り返しだ。

 でも今日は、逃げられない。 幹夫は暖簾を指先で持ち上げた。 指が、少し震えている。

 「すみません……」

 声は出た。 出たのに、声が店の湯気に吸われて、どこかへ行ってしまうみたいだった。

 カウンターの向こうで、鍋がコトコトと鳴っている。 黒い汁。大根、黒はんぺん、牛すじ、卵。 湯気の向こうに、小柄な女性――たぶん七十は超えている――が立っていた。 白い割烹着。髪はきれいにまとめられているのに、目だけが子どもみたいに鋭い。

 「いらっしゃい。ひとり?」

 言葉は短い。 でも、声は不思議に温かい。

 幹夫は頷いて、端の席に座った。 椅子の足が床を擦って、小さな音がした。 その音すら、ここでは許されている気がして、幹夫は少しだけ息が楽になった。

 「なににする?」 「……だいこん、ひとつ」

 自分の声が、いつもより柔らかく出たのに驚いた。 それだけで、胸の奥が少しほどける。

 店の女主人――うめさん――は、鍋の中から大根をすくい、串を打ち、皿に置いた。 上から青い粉がさらりとかかる。だし粉。 湯気に混じって、魚の香りがふわっと立つ。

 幹夫は大根を口に運んだ。 熱い。 でも、その熱さが“罰”ではなくて“抱擁”に近い。 喉の奥をじんわり温めて、ああ大丈夫だ、と言ってくる。 幹夫は、目の奥が少し痛くなるのを感じた。

 「……うまい?」

 うめさんが、何でもない調子で聞いた。 幹夫は、うまく笑えなくて、でも嘘もつけなくて、ただ頷いた。

 「そりゃよかった」

 その一言が、妙に胸に残った。 “よかった” 幹夫は、その言葉を他人から聞くたびに、胸の中に小さな空白ができる。 自分の中でずっと “よくない” と言い続けてきた場所が、少しだけ揺れるからだ。

1 湯気の中に、言いそびれた言葉がいる

 食べ終わるころ、店は少しだけ落ち着いた。 客が二、三人帰って、残った人たちが鍋の周りで静かに酒を飲んでいる。 誰も大声を出さない。 でも沈黙でもない。 この店の空気は、**“話さなくても肩が痛くならない沈黙”**でできていた。

 幹夫は鞄の中の紙が気になって仕方がないのに、取り出す勇気が出なかった。 タイミングを探しているうちに、タイミングが遠ざかっていく。 その感じが、自分の人生と似ている気がして、苦しくなる。

 うめさんが鍋をかき混ぜた。 木べらが鍋肌に触れて、低い音がする。 その瞬間、湯気がふわっと膨らんだ。

 幹夫には、湯気が「文字」みたいに見えた。 白い粒が集まって、ほどけて、また集まって、 まるで小さな鳥が飛び立ちそうな形になる。

 ――疲れた。 ――帰りたい。 ――寂しい。 ――ありがとう。

 誰も言っていないのに、誰かが言っている気がした。 幹夫は慌てて目をこすった。 疲れているのだ。 自分の感受性が勝手に景色に意味をつける。いつもの癖だ。

 でも、湯気は、まだ揺れている。 鍋の上で、こっそりと。 「言いそびれた言葉」を、こっそり運ぶみたいに。

 うめさんがふと幹夫を見た。 「……あんた、役所の人?」

 幹夫の心臓が、一瞬だけ硬くなる。 バレた。 制服は着ていないのに、こういう人は当てる。 人の“匂い”を嗅ぎ分ける目をしている。

 「……はい。委託で、点検とか……」 「ふうん」

 うめさんは、それ以上聞かずに、鍋に蓋をした。 湯気がいったん引っ込み、店の中の白さが少し薄くなる。 幹夫は、喉の奥が乾いた。 言うなら今なのに、言うほどに胸が固くなる。

 そのとき、どこからか、さらさら、と小さな音がした。 粉が落ちるみたいな音。 幹夫が視線を落とすと、カウンターの端に置かれた“だし粉の瓶”の周りで、 ほんの小さな影がちょこちょこ動いた気がした。

 ――え?

 幹夫は瞬きをする。 影は消えない。 瓶の縁に、米粒より少し大きいくらいの、薄い黄土色の“なにか”が座っている。

 丸い。 頭が丸い。 体も丸い。 腕みたいなのがあって、粉をひとつまみ取って、胸の前で抱えている。

 その“なにか”は、幹夫のほうを見た。 そして、ひょい、と首を傾げた。

 幹夫は息を飲んだ。 声が出ない。 怖いのではない。 ――ああ、まただ。 自分の世界に、現実と同じ顔をした不思議が入り込む瞬間。 幹夫は、こういうとき、いつも泣きそうになる。

 だし粉の小人は、瓶の縁から、鍋のほうへ視線を投げた。 まるで言っている。

 「言え」 「言わないと、湯気が冷える」

 幹夫の胸の中で、何かが小さく鳴った。 怖さと、決意と、情けなさが混ざった音。

 幹夫は鞄を開けた。 クリアファイルを取り出す。 角が、やっぱり鋭い。

 うめさんの前に、そっと置いた。 「……これ、あの、業務で……」

 言葉が途切れる。 言い訳をしたくなる。 「俺が決めたんじゃない」 「俺も嫌なんです」 「ごめんなさい」 でも、それを言ってしまうのは、うめさんに“受け止める役”を押し付けることになる。

 幹夫は、喉の奥で言葉を整えた。 自分の心を守るためじゃなく、相手の心を守るために。

 「……ここ、改善が必要って。移設か、設備の改修を……お願いしなきゃいけなくて」

 うめさんは紙を見た。 見たあと、鍋を見た。 鍋を見たあと、幹夫を見た。

 その視線の流れが、あまりに静かで、幹夫は逆に怖くなった。 怒鳴られるほうが、まだ分かりやすい。 静かな人の痛みは、どこに置けばいいか分からない。

 うめさんは、深く息を吐いた。 その息に湯気が混じった。 湯気は一瞬、白い鳥の形になった。 そして天井へほどけた。

 「……知ってたよ」

 それだけ言って、うめさんは紙を畳み、膝の上に置いた。 怒りでも、諦めでもなく、ただ事実として。 それがいちばん痛かった。

 幹夫は、胸がぎゅうっと縮むのを感じた。 縮むのに、逃げないでいた。 逃げない、と決めた。

 「……すみません」 「謝らんでいい。あんたの仕事だろ」

 うめさんは、鍋に火を足した。 ボッ、と青い火が灯る。 その青さが、妙に優しく見えた。

 「ねえ」 うめさんが幹夫に言った。 「おでん、もうひとつ食べな」

 幹夫は、何か言いたかった。 でも言葉が見つからない。 だから、ただ頷いた。 頷くと、目の奥が熱くなった。

 湯気の中で、だし粉の小人が、小さく拍手をした。 さらさら、さらさら。 粉の音だけの拍手。

2 “守る”って、どういうことだろう

 その夜、幹夫は家に帰っても眠れなかった。 布団の中で、うめさんの「知ってたよ」が何度も反響する。 責められているのではない。 それが余計に苦しい。

 幹夫は、自分の優しさが、どこまで本物なのか分からなくなる。 優しいふりをして、ただ傷つくのが怖いだけかもしれない。 それでも、うめさんの鍋が消えるのが嫌だった。 あの湯気の中にあった“言いそびれた言葉”が、行き場を失うのが嫌だった。

 次の日、幹夫は市の担当部署に電話をした。 規定、条例、補助金、移転先、期限。 調べれば調べるほど、世界は硬い。 硬い世界の中で、人が生きる。 幹夫はそのことが、たまらなく悲しい。

 それでも幹夫は、硬い世界の中の“やわらかい隙間”を探した。 探すことしかできないからだ。 自分ができる唯一のことは、角を少しでも丸くすること。 紙の角も、人の心の角も。

 何度かのやり取りの末、幹夫は一つの案を見つけた。 完全撤去ではなく、一定期間の改修猶予と、 商店街の協力を得ての仮設営業。 条件は厳しい。 でも、ゼロじゃない。

 幹夫はその案を持って、また夜の「おでん うめ」へ行った。 胃のあたりが痛い。 でも、昨日より息ができる。

 店に入ると、うめさんは何も言わずに湯呑みを出した。 それが「来い」という合図みたいで、幹夫は救われた。

 「……あの、これ……」

 幹夫は書類を見せた。 専門用語をかみ砕いて、ゆっくり説明した。 途中で言葉が詰まる。 詰まるたびに、鍋の湯気がふわっと立つ。 まるで、幹夫が言葉を探すのを待ってくれるみたいに。

 説明し終えると、うめさんは少しだけ眉を動かした。 「……あんた、そこまでして、なんで?」

 幹夫は答えに詰まった。 “正義”なんて言葉は軽い。 “守りたい”と言うと嘘っぽい。 “自分のため”と言うのも違う気がする。

 幹夫はしばらく黙って、鍋の中の大根を見た。 大根は煮崩れない。 でも柔らかい。 ああ、こういうふうに生きられたらいいのに、と思った。

 「……ここに来ると」 幹夫はやっと言った。 「……みんなの、言えないものが、湯気になって上がってる気がして」

 うめさんが少し笑った。 「なにそれ。詩人かい」

 幹夫は頬が熱くなった。 でも、続けた。 「……その湯気が、なくなるのが嫌なんです。  誰かが言えなかったものを、ここが代わりに抱えてるみたいで。  俺も……抱えてもらった気がして」

 言い終わると、胸が軽くなった。 軽くなるのが怖いくらい、軽くなった。

 うめさんは、鍋の火を少し弱めた。 「……あんた、優しいっていうより、面倒くさいね」

 幹夫は笑った。 笑っていいのか分からないのに、笑ってしまった。 笑うと、胸の奥の硬いものが少し崩れる。

 うめさんは、木べらで鍋をかき混ぜながら言った。 「面倒くさい子は嫌いじゃないよ。  ただ、無理すんじゃない。  鍋も人も、煮詰めすぎると苦くなる」

 幹夫は、その言葉が胸に落ちるのを感じた。 苦くなる。 自分の“優しさ”も、煮詰めると苦くなるのだろうか。 誰かを守りたくて、誰かを責めるようになってしまう。 それは、きっと苦い。

 幹夫は頷いた。 「……はい。煮詰めないように、します」

 だし粉の瓶のそばで、小人がちょん、と頷いた気がした。

3 最後の夜に、湯気が星になる

 話は簡単には進まなかった。 書類は増え、期限は迫り、うめさんも年齢的に無理がきかない。 それでも、うめさんは鍋を守りながら、少しずつ準備をした。 幹夫も、できる範囲で走り回った。 走り回るうちに、自分が“正しい人”になろうとしている瞬間があることに気づいて、そのたびに立ち止まった。 正しさは便利だけど、やさしさとは別の筋肉を使う。 やさしさのほうが、ずっと疲れる。

 仮設営業に移る前夜。 「おでん うめ」は、いったんこの場所での営業を終えることになった。 常連が集まり、鍋の周りに少し賑やかな空気が戻る。 幹夫も客として座った。 仕事の顔じゃなく、ただの一人の人として。

 うめさんは忙しそうにしながらも、幹夫の皿に大根を置いた。 だし粉が、いつもより少し多い。 それが「よくやった」の代わりみたいで、幹夫は目の奥が熱くなった。

 店の空気が、いつもより柔らかい。 みんなが少しずつ、言いそびれていたものを出している。 「また来るよ」 「ありがとう」 「ここ、俺の避難所だった」

 湯気がそれらを抱えて、白く上がっていく。 その湯気が、天井の電灯の光を受けて、ちらちらと光った。 幹夫には、それが星の粉に見えた。 湯気の星座。 言葉の星座。

 幹夫は、ふと思った。 自分も何か言わなければいけない気がする。 でも、うめさんに何を言えばいい? ありがとう? すみません? それだけじゃ足りない。 でも、足りない言葉ほど、口に出すのが怖い。

 幹夫は、箸を置いて、うめさんを見た。 うめさんは鍋を見ていた。 鍋を見ている横顔は、強いのに、どこか寂しい。 鍋の火の色が、頬に映っている。

 幹夫は、言った。 声が震えてもいいから。

 「……俺、ここで、救われました」

 言った瞬間、喉が詰まった。 泣きそうになるのをこらえると、胸の奥が痛い。 でも、その痛みが、本物だと思った。

 「……何に救われたか、うまく言えないけど。  ここに来ると、息ができて。  “もう少し生きてみよう”って、思えたんです」

 うめさんは、少し黙って、鍋の蓋を開けた。 湯気が、ふわっと上がる。 その湯気の中で、だし粉の小人が、くるりと回った。 星の粉みたいに。

 うめさんは、幹夫を見ずに言った。 「……そういうの、いちいち言わなくていいのに」

 口調はぶっきらぼうだ。 でも声が、少しだけ濡れていた。

 「言いたかったんです」 幹夫は言った。 「今言わないと、また“言いそびれ”になる気がして」

 うめさんは、ふっと笑って、幹夫の前に湯呑みを置いた。 「じゃあ、飲みな。冷める」

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。 熱が手のひらに染みる。 その熱は、押し付けじゃない。 ただ“そこにある”熱だった。

4 朝、鍋の匂いを思い出せるように

 店が仮設の場所へ移ってからも、幹夫はときどき顔を出した。 以前の路地ほどの風情はない。 でも鍋の匂いは同じだった。 人が集まる匂い。 言葉がほどける匂い。

 幹夫は少しずつ、自分の朝を怖がらなくなっていった。 朝の空気が急かしてくるように感じても、 「煮詰めすぎると苦い」 うめさんの言葉を思い出すと、呼吸が戻る。

 幹夫は自分に言い聞かせる。 いま焦らなくていい。 いま全部うまくやろうとしなくていい。 鍋だって、一晩で完成しないのだから。

 ある日、店の片隅で、だし粉の瓶を見た。 小人は見えない。 でも、さらさら、と粉が落ちる音がした気がした。 幹夫は、小さく笑った。 見えなくても、いる。 そう思えることが、なぜだか嬉しい。

 帰り道、幹夫はふと、空を見上げた。 夜の雲が薄く、月が少し橙色に滲んでいる。 その橙色が、鍋の湯気に似ている気がした。

 幹夫は胸の内で、そっとつぶやいた。 ――大丈夫。 ――言いそびれたものも、いつか湯気になる。 ――湯気になったら、星に混じる。

 誰にも聞かれない独り言なのに、幹夫はそれを大切に口の中で転がした。 転がすと、少し甘い。 砂糖の甘さじゃない。 “生きている甘さ”だった。

 そして幹夫は、明日もまた、角の立つ紙を扱うかもしれないと思いながら、 それでも、あの鍋の匂いを思い出せる自分でいたいと思った。

 紙の角を、完全に丸くすることはできない。 けれど、角に触れる前に、湯気で手を温めることはできる。 人の心を刺さないように、少しだけ持ち方を変えることはできる。

 その“少しだけ”を、幹夫は信じてみたかった。 湯気の星座が、今夜も静岡の空に見えない光を撒いている気がしたから。

 
 
 

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