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静岡、午後四時の影

静岡、午後四時の影は、思っているより長い。昼の熱をまだ抱えたまま、光だけが先に低くなって、建物の輪郭がくっきりする。アスファルトは白っぽく光り、そこに落ちる影は黒ではなく、濃い藍色みたいに見える。夕方の入り口は、音も匂いも変えないまま、ただ影の長さだけで告げてくる。

幹夫は駅北の雑踏を抜け、呉服町の方へ歩いた。牧之原の畑道とは違って、ここは何もかもが直線で、看板が多く、視線の置き場所が散らかっている。人の声が重なって、言葉の意味が薄くなる。意味が薄い場所では、心の痛みも薄くなる気がして、幹夫はたまに街へ来る。

でも今日は、薄くなるはずの痛みが、薄くならなかった。午後四時の影が、いつもよりはっきりしているからだ、と幹夫は思った。影がはっきりすると、隠していたものまで輪郭が出る。輪郭が出ると、逃げにくい。

スマホの画面には、未送信のメッセージが残っている。宛先は母。内容は短い。

「今度、茶を持っていっていい?」

それだけなのに、送信ボタンが押せない。送ったら何かが進む。進むのは怖い。進まないのも苦しい。幹夫の中で、怖さと苦しさが綱引きをしている。どちらも負けたくなくて、幹夫の指が止まる。

呉服町のアーケードは、日差しを柔らかくする。それでも午後四時の光は、斜めに入り込んでくる。店先のガラスに反射した光が、ふいに目に刺さる。刺さると、瞬きをする。瞬きをした一瞬だけ、世界が暗くなる。暗くなると、胸の奥の固まりが見える気がする。

幹夫は、ふと足を止めた。アーケードの端、交差点の角に、小さな茶屋があった。観光客向けの新しい店じゃない。のれんの色が褪せ、看板の文字も少し欠けている。けれど店の前を通ると、湯の匂いと茶の香りが、ふっと鼻に触れた。

茶の匂いは、正直だ。海の潮みたいに外側から貼りつくのではなく、肺の中へすっと入って、体の内側の記憶を起こす。幹夫は吸い寄せられるようにのれんをくぐった。

店内は薄暗く、冷房が弱く効いている。奥の棚には、湯飲みが並び、壁には古い静岡の地図が貼ってある。紙が日に焼けて黄ばんでいるのに、線はまだはっきりしていた。古いものは、消えそうで消えない。消えないから、残る。

カウンターの中にいたのは、細身の店主らしい男性だった。年齢は父より少し上くらいだろうか。眼鏡の奥の目が、よく見ている目だった。

「いらっしゃい」

幹夫は頷いて、カウンターの端に座った。椅子の木がきしむ音が、妙に安心する。家の床板の音に似ている。

「……冷たいの、ありますか」

口に出してから、幹夫は少しだけ恥ずかしくなった。茶屋で冷たいものを頼むのは、間違っている気がしてしまう。でも今日は、熱いものを飲む勇気がない。熱いものは、香りが立つ。香りが立つと、心の奥まで届く。届きすぎると、泣きそうになる。

店主は「あるよ」と言って、冷茶をグラスに注いだ。氷の音はしない。冷やしてあるだけの、静かな冷たさ。グラスの縁に水滴がつき、午後四時の光を拾って小さく光る。

幹夫がひとくち飲むと、苦味が先に来て、遅れて甘みが広がった。その順番が、今の自分の心に似ている気がした。苦味が先に立つ。でも最後に、甘みが残る。残る、ということが、こんなに怖いときもあるのに。

店主は何も聞かなかった。聞かれないのがありがたい。でも、聞かれないままだと、自分が透明のままな気もする。透明だと傷つきにくい。でも透明だと、誰にも触れられない。

幹夫はグラスを置き、ぼそっと言った。

「……静岡って、夕方が早いですね」

店主は少し笑った。

「山が近いでね。四時過ぎると影が伸びる。昔からそうだよ」

影が伸びる。伸びる影は、止められない。止められないものがあることを、幹夫は最近よく思う。母がいなくなったこと。父が黙ること。自分が怖がること。全部、止めようとして止まらなかった。

「影が伸びるとさ」

店主は湯呑みを拭きながら、ぽつりと言った。

「見えなかったものが見える。嫌なもんも、好きなもんもな」

幹夫はその言葉に、息を吸い損ねた。見えなかったもの。嫌なもの。好きなもの。

母の「また電話する」と言ったときの自分の声。父の「一緒に行く」と言った声。祖母が黙って差し出した手紙。俊の「十分だら」。全部、午後四時の影の中で輪郭を持ってしまう。

幹夫はポケットからスマホを出し、画面の未送信の文面を見た。送れない理由は、はっきりしている。送ったら、母の返事が来るかもしれない。来たら嬉しい。嬉しいのが怖い。嬉しいときほど、失うのが怖くなるからだ。

でも、影が伸びるのを止められないなら。怖さがあることを消せないなら。せめて、怖いまま一歩だけ進めないか。

幹夫は、送信ボタンの上に指を置いた。指先が少し汗ばむ。汗は、体が嘘をつけない証拠だ。幹夫は、その汗を「今」として信じることにした。

送信した。

画面が一瞬で空になり、メッセージが上へ送られていく。送られていく小さな線を見て、幹夫の胸の奥がきゅっと縮んだ。縮むのに、固まらない。固まらない縮み方。縮むのは怖さで、固まらないのは希望だと、幹夫は思った。

店主は何も言わない。ただ、グラスの水滴が増えるのを見ている。午後四時の影は、店の床に長く伸びて、幹夫の足元まで届いている。影は冷たい。でも、冷たいだけじゃない。影があるから、光の向きが分かる。

スマホが震えた。振動は短く、はっきりしていた。

幹夫は画面を見た。母からの返信。

「うん。嬉しい。いつがいい?」

文字は短い。短いのに、胸の奥に熱が広がる。熱が広がると、目が少し痛くなる。涙が出そうになる。泣くのは恥ずかしい。でも、泣くのを我慢するほうが、もっと疲れることも知っている。

幹夫は、店の外に目をやった。アーケードの向こうに、午後四時の影がまだ伸びている。伸びる影の中を、人が歩いている。影を踏んでも、誰も倒れない。影は重そうに見えるだけで、踏めばただの暗さだ。暗さは、通れる。

幹夫はスマホに指を置いた。今度は止まらなかった。

「今週末。父ちゃんも一緒に行く」

送信すると、指の力が抜けた。抜けた瞬間、息が深く吸えた。影の中でも、呼吸はできる。

店主が静かに言った。

「動いたな」

幹夫は驚いて店主を見た。店主は笑っていない。ただ、目が少し柔らかい。

幹夫は小さく頷いた。

「……動きました」

午後四時の影は、さらに伸びるだろう。伸びるほど、見えるものが増えるだろう。嫌なものも、好きなものも。

それでも、幹夫は立ち上がった。グラスの底に残った冷茶の苦味が、舌の奥でまだ小さく続いている。苦いのに、歩ける。苦いからこそ、甘さが分かる。

のれんをくぐると、潮の匂いが少し混じった風が頬を撫でた。静岡の午後四時は、影だけじゃない。海と山のあいだの匂いが、どこにも属さないまま漂っている。

幹夫はその匂いを吸い込み、影の長い道へ足を踏み出した。影はついてくる。でも、ついてくる影の先に、光がある方向も、ちゃんと分かっていた。

 
 
 

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