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静岡、音の骨組み

第六十二章 ゜(まる)の泡箱

 扉の縁のコロン――上下の二点が、いちどだけ暗くなった( )の瞬間に、幹夫と葵の足は、紙の裂け目へ吸い込まれました。 吸い込まれたのに息苦しくない。 息苦しくないのは、ここが空気の部屋ではなく、息の部屋だからです。

 さら……。

 紙がめくられる音ではありませんでした。 紙の“あいだ”が、そっと開いた音。 開いたあいだは、白でも黒でもなく、薄い薄い青でした。 薄青は改札の色。 改札の色は、「ここから先は、音を小さく」という合図です。

 踏み出した足が、床に触れた――と思った瞬間、床は水のように揺れ、でも濡れませんでした。 濡れないのに、冷たい。 冷たいのに刺さらない。 水印の冷たさが、足の裏へ薄く貼りついたのです。

 そして――世界は、泡の匂いを持っていました。 泡の匂いは、石鹸の匂いではありません。 もっと小さく、もっと透明で、もっと「生まれる直前」の匂い。 水が、水でいるのをやめて、声になりそうな匂いです。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「ここは泡箱だ」という音でした。

 そこは、箱でした。 でも、壁が見えない箱。

 箱の中は、薄い膜で満ちていました。 膜は空気のように透明なのに、光を受けると、きら、と線が走る。 線は、糸ではない。 糸のふりをした泡の列。 泡が、まだ泡になりきらずに、点のまま並んだ線です。

 点の線。 それは、字の道。

 箱の奥には、いくつもの“軌跡”が漂っていました。 細い細い泡の筋が、曲がったり、交差したり、途切れたりしながら、空中に描かれている。 まるで、目に見えない星座を、泡が代わりに描いているみたいに。

 幹夫は、どこかで聞いた気がしました。 泡箱。 泡で見える軌跡。 それは、理科の絵本の片隅にあった―― 粒が通ると、泡が線になる箱。 見えないものの道が、見えるようになる箱。

 でも、ここで見えないものは粒ではありません。 ここで見えないものは――

 です。

 間が通ると、泡になる。 泡になると、線になる。 線になると、字が座れる。

 葵が、息だけで言いました。「……ここ、音が、やわらかい」 ほんとうでした。 声を出そうとすると、声が遠くへ行く前に、ふわ、と丸くなって戻ってくる。 丸くなる声は、泡の声。 泡の声は、刺さらない。

 ふたりの足もとの影は、もう影ではありませんでした。 キンは一本の縦線になり、スインは小さな輪になりました。 線と輪。 結ぶものと、座るもの。 それが揃うと、泡は逃げません。

 箱の中で、ひとつだけ音がしました。

 ぷう。

 泡が生まれる音。 でも、弾ける音ではない。 生まれるときの、まだ破れない音。

 音のしたほうを見ると、薄青い点がひとつ、ゆっくり浮かんでいました。 点は丸い。 丸いのに、ただの点ではない。 点の中に、もうひとつ小さな点が見える。 小さな点の周りに、さらに薄い輪がある。

 ――目玉のようで、泡のようで、切手の縁のよう。

 点は、ふたりの前で止まりました。 止まると、点は上下に分かれました。 上の点と下の点。 そして、その間に、透明の棒が一本、立ったように見えました。

 「:」

 コロンが立っている。 立っているコロンは、係の姿勢。 時刻の係でもなく、説明の係でもなく――ここでは、濁りの係です。

 係は声で話しませんでした。 点滅で話しました。

 ぽっ。 (  ) ぽっ。

 暗い(  )が、いつもより少し長い。 長い暗さは、説明の箱。 箱が開くと、字が浮かびます。

 暗い箱の中に、透かし文字が現れました。 泡の線で書かれた字。 黒ではない。 薄青い縁を持つ字。

ここは あわばこ ま が とおるとあわ が できる あわ はいき を つつむ みず しずく の つぎはまる(゜)

 “まる(゜)”。 幹夫は思わず、さっき露の係が見せた、小さな輪郭を思い出しました。 「゜」 濁点ではない。 半濁点のような、小さな丸。 泡のような丸。

 葵が、指先で空をなぞりました。 なぞった指の跡に、小さな泡が一つ生まれました。 でも、それはすぐ消えました。 消える泡は、席がない泡。 席がない泡は、宛名を持てません。

 係のコロンが、いちどだけ強く点きました。

 ぽっ!

 そして、暗い( )が広がりました。

 (   )

 暗い余白の中に、もう一行、浮かびました。

しずく にまる を のせよ ただしおすなかざすな ま でいき を そろえよ

 しずくに、まるをのせよ。 押すな。飾すな。 間で、息をそろえよ。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「それは、泡を作れ」という音でした。

 泡箱の中に、ひとつの台がありました。 台といっても木ではありません。 紙の厚みみたいに、白い面が少しだけ盛り上がったところ。 その上に、うっすら“字の型”がありました。

 しずく

 ただの字ではない。 繊維の凸凹でできた、裏側の字。 その「く」の右上だけが、少し空いていました。 小さな丸が座る席。 半濁点の席。 泡の席。

 席が空いているのは、まだ完成していないということ。 完成していない字は、まだ扉を開けきれません。

 係は、点滅で言いました。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 暗い( )の中で、台の上の席が、いちどだけ薄青く光りました。 薄青は改札の色。 改札の色が席に来るとき、席は「いま」と言っています。

 幹夫は、葵を見ました。 葵も、うなずきました。 ふたりで受け取る。 ふたりで間を持つ。 それが切符だと、もう知っている。

 二人は、掌を出しました。 合わせない。 合わせると間が潰れる。 潰れた間は泡になれません。

 掌と掌のあいだに、細い空白を残す。 空白は切符。 切符は間。

 ( )

 その間に、幹夫の掌の「、」が、ひんやり座りました。 葵の掌の「、」も、同じ温度で座りました。 同じ温度の読点は、道を曲げすぎない。 曲げすぎないと、泡は丸くなれます。

 係が、点滅の暗い( )のところで、ほんの少しだけ長く止まりました。

 ぽっ。 (   ) ぽっ。

 その長い暗さは、息を入れる箱でした。

 幹夫と葵は、同時に息を吸いました。 吸う息は大きくしない。 大きい息は勢いになる。 勢いは白を焦がす。 焦げると泡は破れます。

 そして、二人は同時に、息を吐きませんでした。 吐かない。 でも、押し込まない。 吐く寸前のところで、息を止める。 止める息は休符。 休符は泡の糊。

 ( )

 その休符の中で、二人の掌のあいだの空白が、ふっと冷たくなりました。 冷たさは、水が来た冷たさ。 水が来ると、息は包まれます。

 ぷう。

 小さな音。 音は弾ける音ではありません。 包む音。 息が水に包まれて丸になる音でした。

 掌のあいだに、小さな丸が生まれていました。 小さな泡。 でも、ただの泡ではない。 泡の縁に、薄青い輪郭がある。 輪郭は改札の縁。 改札の縁がある泡は、宛名を持ちます。

 葵の目が、少しだけ潤んだように見えました。 潤むのは涙ではありません。 露に近い潤み。 露のはじまりが、泡へ変わった潤みです。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「これが゜だ」という音でした。

 泡は軽い。 軽いのに逃げない。 逃げないのは、間が椅子になっているから。 二人は、掌の距離を変えずに、そのまま台へ近づきました。

 台の上の「しずく」の「く」。 その右上の空席が、薄青く光っていました。 泡は、そこへ行きたがっているようでした。 行きたがる泡は、席を覚えている泡です。

 係が、点滅で言いました。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 暗い( )の瞬間に―― 二人は、掌のあいだの間を、ほんの少しだけ台へ傾けました。

 押しません。 落としません。 ただ、間を運ぶ

 間が動くと、泡も動く。 泡は、間の上に座っているからです。

 ぷと。

 泡が席に座った音。 弾けませんでした。 弾けない泡は、切符になる泡です。

 泡が座った瞬間、台の上の繊維が、きん……と鳴りました。 字が縫い止められる音。 焦げない音。 破れない音。

 台の上の字は、こうなりました。

 しずく゜

 字の右上に、小さな丸。 半濁点。 泡の印。

 その印が座ると、字の全体が、いちどだけ息をしました。

 すう。 はあ。

 呼吸の“はあ”で、箱の中の泡の軌跡が、いっせいに薄く光りました。 光は星座の光。 星座の光は、道が通った合図です。

 係のコロンが、いちどだけ強く点きました。

 ぽっ!

 そして、暗い( )が大きく開きました。

 (    )

 その余白に、新しい透かし文字が現れました。 泡の線で書かれた、短い文。

しずく゜よみ:あわ つぎはこえ の ひとしずく でもこえ は もって いけない もって いけるのはぱち の おと だけ

 しずく゜ の読みが、あわ。 泡。 水が息を包んだもの。 そして次は、声のひとしずく。 でも、声は持っていけない。 持っていけるのは、ぱちの音だけ。

 ぱち。 泡が弾ける音。 弾ける音は、終わりの音に見えて、実は次の始まりの音です。 泡が弾けると、息が外へ出る。 息が外へ出ると、言葉になる。

 幹夫は、胸の奥がしん……と沈むのを感じました。 しん……は深い息。 深い息は、次の文を読む前の息です。

 葵が、そっと唇を噛みました。 噛むのは痛いからではありません。 声を出しすぎないため。 声を出しすぎると、泡は乾いてしまうから。

 係は、点滅で続けました。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 暗い( )の中に、さらに小さく一行。

いまもどれ しずおか:みずその うえへあわ を のせるな ただま を まもれ

 泡を上へ載せるな。 ただ、間を守れ。 泡そのものは、ここに縫い止めておくもの。 外へ持ち出すと、乾いて壊れる。 壊れると、宛名が散る。 だから、持っていけるのは、ぱちの音だけ。

 音だけなら、乾かない。 音は、胸の中の棚に座れるからです。

 そのとき、泡箱の壁――見えない壁のどこかで、さら……と鳴りました。 ページがめくられる音。 けれど、これは“先へ行く”めくれではありません。 戻るためのめくれ。

 薄青い裂け目が、ふっと開きました。 裂け目の縁に、上下の二点が座っている。

 「:」

 コロンの扉。 出入り口は、いつも同じ形。 同じ形でないと、戻れません。

 葵のポケットの中で、貝殻が小さく鳴きました。

 さざん……。 くるん……。

 波の音に、泡の音がひとつ混じった気がしました。

 ぱち。

 まだ弾けていないのに、弾ける前の音だけが、胸へ落ちた。 落ちた音は、持ち帰れる音です。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「昼の乾く白が来ても、ぱちを思い出せ」という音でした。

 ふたりは、台の上の「しずく゜」を、最後にもう一度だけ見ました。 小さな丸。 小さな泡。 そこに、二人の息の休符が縫い止められている。

 それは、二人の切符箱の中に残るものではなく、 白い駅の切符箱の中に残るものです。

 戻る前に、係のコロンが、いちどだけ長く暗くなりました。

 ぽっ。 (   ) ぽっ。

 暗い(   )の中で、泡の軌跡が、ふっと一本だけ形を作りました。 それは、細い細い線で描かれた――

 の形でした。 字ではない。 でも、声の輪郭。 どこかで聞いたことのある、やさしい柱の輪郭。

(急がないのが、いちばん)

 おばあちゃんの声が、泡の線で一瞬だけ浮かび、すぐ消えました。 消えるのは失うためではありません。 胸の中へ戻るためです。

 幹夫は、目を閉じて、胸の中へその輪郭をしまいました。 葵も同じように、胸の中へしまったのが分かりました。 しまうと、持ち帰れます。 持ち帰るのは声そのものではなく、声の“縁”――間を守る縁です。

 ふたりは、コロンの扉へ足を運びました。

 さら……。

 世界が一枚、めくられました。 泡の箱の薄青が遠のき、紙の匂いが濃くなり、そして―― 露の面の冷たさが、もう一度、足の裏へ貼りつきました。

 戻り道の途中、どこかで、かすかに泡が弾ける音がしました。

 ぱち。

 幹夫は、その音を胸の奥で確かめました。 音は逃げない。 逃げない音は、次の扉を開ける鍵になる。

 そして、上のほうで、コロンがまた点滅しているのが、薄く聞こえました。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 白いホームへ戻る。 静岡:みず の右の空白へ戻る。 泡は持ち帰らない。 でも、間と、ぱちの音は持ち帰る。

 ふたりの足が、同時に、最後の一段――露の面の縁へ触れたとき、 遠くで、きん……と鳴りました。

 字が、また次の席を用意した音でした。


第六十三章 ぱちの切符

 露の面へ戻ったとき、幹夫は、足の裏がいちどだけ“星”を踏んだように感じました。 露の粒が、繊維の交差点で光っていて、踏めばつぶれるはずなのに、つぶれない。 つぶれないのは、露が紙の上に座っている露だからです。 紙の露は、足を責めません。 紙の露は、足に「静かに」と言うだけです。

 さら……。

 戻ってきた裂け目――コロンの扉は、もう半分ほど閉じかけていました。 閉じるのは拒むためではありません。 泡箱の匂いを、外へこぼしすぎないため。 匂いがこぼれると、泡は乾きます。 乾いた泡は、゜になれません。

 扉が閉じる直前、幹夫の胸の奥に、ひとつだけ音が残っていました。

 ぱち。

 弾けた音。 弾ける前の音でもあり、弾けたあとの音でもある。 音というより、音の縁。 縁だけは乾きません。 縁だけは、胸の棚に座れます。

 葵が、口を開かずに息で言いました。「……残ってる?」 幹夫は、声を出さずにうなずきました。 うなずくと、ぱちの音が胸の中でいちどだけ小さく転がりました。

 (持ち帰れるのは、ぱちの音だけ)

 泡箱の係の言葉は、もう字ではなく、胸の温度になっていました。

 露の面は、さっきより少しだけ“整って”見えました。 整うというのは、並ぶということです。 露の粒が、勝手に好き勝手に座っているのではなく、どこかの見えない時刻表に合わせて、座り直している。

 静岡:みず の裏側。 二つの井戸――コロンの井戸の間には、ひとしずくの湿りが、ちゃんと残っていました。 残っている湿りは、縫い止めの印。 印が残っていると、上の世界のコロンは片方だけ点いたりしません。

 そして、露の面の片隅――あの台のところへ目をやると、そこに、泡箱で縫い止めたものが、まだ座っていました。

 しずく゜

 小さな丸が、く、の右上に。 丸は、飾りではない。 丸は、息を包んだ水。 泡の印。 泡の印は、声の前の印です。

 幹夫は、それを見て、胸の中のぱちが少しだけ冷たくなるのを感じました。 冷たさは改札の言葉。 改札の言葉は、「次へ」と言います。

 露の面のどこかで、きん……と小さく鳴りました。 字が起きかける音。 起きかける字は、まだ立ち上がりません。 でも、席だけを作ります。

 ふたりの前――繊維の凹みが、二つ、ぽつんぽつんと現れました。

 上と下。 二つの凹み。 凹みは、まだ水ではない。 凹みは、音が座る席でした。

 葵が、息で言いました。「……これ、゛みたい」 幹夫は、目を細めました。

 ゛。 濁点。 声の印。 二本の小さな点――あるいは小さな滴が、並んで座る印。

 泡箱は゜を作る箱だった。 ゜は、息を包む丸。 そして、ぱち――弾ける音は、息が外へ出る瞬間。 息が外へ出ると、になる。 声になるときに座るのが、゛。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「次は濁点だ」という音でした。

 けれど、ここで“作る”のではありませんでした。 泡箱は、作る場所。 露の面は、縫い止める場所。 そして――今、ふたりがいるのは露の面。 ここでできるのは、席を作って、戻ることだけ。

 ぱちの音は、ここに落とさない。 落とすと、乾く。 乾くと、ただの音になって、宛名を失う。 宛名を失った音は、地上の雑音になります。

 だから、胸にしまう。 胸にしまって、上へ戻す。 上の白い板に、席を作らせる。 席ができたところで、地上の“声のひとしずく”を拾う。

 それが、道順。

 露の面の端で、さら……と鳴りました。 上へ戻るための、めくれの音。 紙の端が、もう一枚、立ち上がっていました。 立ち上がった縁は薄青で、その縁に、上下の二点が座っている。

 「:」

 戻りのコロン扉。

 ふたりは、最後にもう一度だけ、コロンの井戸の間の湿りを見ました。 そこに残るひとしずく。 それが、門の命綱。 命綱があると、どこへ行っても戻れます。

 そして、幹夫は胸の中のぱちを、そっと確かめました。 確かめると、音は逃げない。 逃げない音は、切符になります。

 (ぱち)

 幹夫は、声に出さずに、胸の中で一度だけ鳴らしました。 鳴らしたのに、外へ出ない。 外へ出ないのは、音がまだ“泡の縁”を持っているからです。

 さら……。

 ふたりは、コロンの扉をくぐりました。 露の冷たさが遠のき、紙の匂いが濃くなり、そして――白い階段の縁が、足の裏を受けました。 受ける縁は、紙の端。 端があると、上へ戻れます。

 さら……。 さら……。

 一段ごとに、空気が“上”へめくられていく。 上へ、というより――表へ。 白いホームの白へ。 看板の白へ。 静岡:みず の白へ。

 階段を上りきる直前、耳の奥で、ぽっ、( )ぽっ、が聞こえました。 コロンの点滅。 白い板のコロンが、まだ呼吸している。 呼吸しているということは、席が生きているということ。

 さら……。

 ふたりは白いホームへ戻りました。

 戻った白いホームは、さっきより少しだけ“湿り”を持っていました。 湿りがあるのは、露の縫い目が下で働いているからです。 湿りがあると、白は刺さりません。 刺さらない白は、字を受け取れます。

 白い板――駅名の板のところへ行くと、そこに、ちゃんと字が残っていました。

 静岡:みず

 そして、その右側の余白が、さっきより広く見えました。 広く見えるのは、余白が“次の席”を開けているからです。

 板の下には、いつの間にか、小さな二枚目の札が現れていました。 札は膜。 膜の字は透かし。 透かしの字は、焦げません。

 そこには、こう書いてありました。

みず:しずく しずく:あわ

 幹夫は、胸が少し温かくなるのを感じました。 温かくなるのは、道が一本に繋がったからです。 繋がった道は、迷いません。

 そして、その札のいちばん下に、まだ白いままの一行がありました。 白いままということは、席だけあるということ。

あわ:

 あわ、のあとにコロン。 あわ: 泡のあとに説明が要る。 説明は、言葉。 言葉は、声。 声の印は、濁点。

 ふたりは、同時に、あわ:の右側を見ました。

 余白の端に、小さな席が二つ、上下に並んでいました。 さっき露の面で見たのと同じ凹み。 ゛の席。 声のしずくの席。

 でも、そこにはまだ何も落ちていない。 落ちていないということは――地上から拾うということです。

 そのとき、白い列車のしおりが、ホームの端でふっと息をしました。 ぷう。 泡の笛。 戻る便の合図。

 窓の膜の向こうに、おばあちゃんが見えました。 まだ柱のそばに立っている。 袋を持ったまま。 緑の匂いの外套を持ったまま。

 おばあちゃんは、こちらへ向かって、ほんの一度だけ頷きました。 それは「急げ」ではありません。 「ちょうどで戻れ」という頷きでした。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「声は地上で拾え」という音でした。

 白い列車に乗るとき、ふたりは括弧の座席を探しませんでした。 列車がもう知っているからです。 切符は間。 乗る人はふたり。

 座ると、座席の真ん中の空――間が、先に座りました。 間が座ると、胸の中のぱちが、さらに逃げにくくなりました。 逃げにくい音は、宛名を持った音です。

 窓の膜の向こうで、白いホームが遠ざかり、白い板の文字が小さくなっていきました。

 静岡:みず。 みず:しずく。 しずく:あわ。 あわ:――(まだ白い)。

 最後の「あわ:」の席が、ほんの一瞬だけ薄青く光って、すぐ消えました。 消えるのは閉じるためではありません。 「忘れるな」という合図です。

 列車は、音を立てずに滑り、やがて、窓の膜の外に、地上の駅の光が見えてきました。 蛍光灯の白。 電光時計の白。 自動改札の小さな赤や緑。 そして、点滅するコロン。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 地上のコロンは、いままでよりも少しだけ“音”を持って見えました。 点が点いて消える、その消える瞬間に、たしかに何かが鳴る。 鳴るけれど、ふつうの人には聞こえない。 聞こえるのは、間を持っているふたりだけ。

 列車が止まり、扉がさら……と閉じる音がして、ふたりは、いつの間にか地上のホームの白線の内側に立っていました。

 朝の空気が、急に冷たくなりました。 冷たいのに刺さらない。 刺さらないのは、緑の匂いがまだそこにあるから。

 おばあちゃんが、すぐそばにいました。 そして、ぽつりと、いつもの声で言いました。

「おかえり。 ……急がないのが、いちばん」

 その声の“縁”が、幹夫の胸の中のぱちに触れた気がしました。 触れると、音は少しだけ形を持ちます。 形を持つ音は、座席を探し始めます。

 そのとき――

 駅の天井のスピーカーが、いちどだけ息を吸いました。

 すう。

 そして、言葉になる直前の、紙のような擦れが鳴りました。

 ざ……。

 アナウンスが始まる前の、あの薄い音。 声のひとしずくが落ちる前の、入口の音でした。

 幹夫の胸の奥で、ぱちが、ふる、と震えました。 震えたのは逃げるためではありません。 拾う準備の震えです。

 おばあちゃんは何も知らない顔で、でも道を知っている足取りで言いました。「ほら、帰ろう。朝ごはんが冷める」

 朝ごはん。 表の時刻表。 でも、声のひとしずくは、今、ここで落ちようとしている。

 幹夫は、葵と目を合わせました。 葵も、小さくうなずきました。 ふたりで受け取る。 ふたりで間を持つ。 そして、胸の中のぱちを――

 声の席へ運ぶ。

 スピーカーの向こうで、声が、もう一度息を吸いました。

 すう。

 次の瞬間に、声が落ちる。 その落ちるところへ、ふたりの間を差し出すために―― 幹夫と葵は、歩き出しました。


第六十四章 濁点のしずく

 駅の天井は高くて、白い。 白いのに刺さらない。 刺さらない白は、朝の湿りを少しだけ持っている白です。

 幹夫と葵とおばあちゃんは、改札の外――人の流れが太くなる手前の、柱の影が落ちるところを歩いていました。 歩きながら、幹夫は何度も胸の奥を確かめました。

 ぱち。

 音は外へ出ていません。 外へ出ないのに、ちゃんとそこにいる。 そこにいる音は、切符。 切符は、持っていくものではなく、落とさないで持つもの

 葵も、同じ確かめ方をしているのが分かりました。 葵は何も言わないのに、肩のあたりの空気が、ほんの少しだけ固くなる。 固くなるのは緊張ではありません。 間を守る姿勢。 間を守る姿勢は、紙を破らない姿勢です。

 おばあちゃんは、ふつうの散歩のように歩きながら、ふつうの声で言いました。

「ほら、放送、聞こえるとこまで行こう。 朝の駅はね、どこで何が鳴るか分からんからね」

 放送。 声。 声のひとしずく。 その言葉を、おばあちゃんは知らないはずなのに、道だけは知っているみたいでした。 匂いで知る人は、地図を見ません。 地図を見ない人は、間を踏みません。

 天井のスピーカーは、黒い丸でした。 黒い丸は堀の黒丸に似ています。 似ているということは、入口が同じ形をしているということ。 入口が同じ形なら、届くものも似ています。

 スピーカーのまわりの空気が、少しだけざらついて見えました。 見えるざらつきは、音になる前の粉です。 粉は、声が立ち上がる足場。 足場があると、声は落ちてきます。

 おばあちゃんが、袋の口をほんの少し開けました。 湯気が、ほわ……と立ちました。 湯気は白いのに、匂いは緑。 緑の匂いは、空気の角を丸くして、声を焦がしません。

「寒いねえ。 ちょっと、これ、あったかいよ」

 おばあちゃんは紙コップにお茶を注ぎました。 注ぐ音は小さく、でも確かに水の音でした。

 とく、とく。

 とく、とく、は、時間を急がせない音。 急がせない音は、間を長くしてくれます。

 葵がコップを受け取って、湯気を吸いました。 幹夫も湯気を吸いました。 湯気を吸うと、喉の奥が乾かない。 乾かないと、声の滴は落ちてきます。

 そのとき、スピーカーが、いちどだけ息をしました。

 すう。

 声が息を吸うとき、空気はほんの少しだけ沈みます。 沈むのは落ちるためではありません。 座席を作るためです。 座席ができると、滴は座れます。

 そして、あの音が来ました。

 ざ……。

 薄い擦れ。 紙が擦れるような、砂がこすれるような、電気が指先に触れるような音。 その「ざ」は、ただの雑音ではありません。 「ざ」には濁点がいます。 濁点は、声の印。 声の印は、二つの小さな滴でできています。

 幹夫の胸の中のぱちが、ふる、と震えました。 震えたのは逃げるためではありません。 拾う準備の震えです。

 葵が、ほんの少しだけ手を開きました。 幹夫も同じように手を開きました。 二人は掌を合わせません。 合わせると間が潰れる。 間が潰れると、滴は滑って落ちてしまう。

 二人の掌は、左右に並びました。 あいだに、細い空白。

 ( )

 その空白の上に、幹夫の掌の「、」が、ひんやりと座りました。 葵の掌の「、」も、同じ温度で座りました。 二つの読点が座ると、空白は椅子になります。 椅子があると、落ちたものは転がりません。

 スピーカーが、声を出しました。 いつもの駅の声です。 誰でも聞いたことのある、少し硬い、少し遠い声。

「まもなく――」

 幹夫は、その言葉の内容を追いませんでした。 内容を追うと、勢いが出る。 勢いが出ると、白が乾く。 乾いた白は、滴を弾いてしまう。

 幹夫は、“滴が落ちる場所”だけを聞きました。 声の中の、濁るところ。 濁点が生まれるところ。

 「……れっしゃが――」

 その「が」。

 「が」の瞬間、幹夫の胸の中で、ぱちが、ほんとうに鳴りました。 でも外へ出ません。 外へ出ないぱちは、泡箱のぱち。 泡箱のぱちは、音ではなく、音の縁

 その縁が、二人の掌の間の空白へ、ふっと降りました。

 ぱち。

 降りた瞬間、空白の上に、見えない泡が一つ生まれて、すぐ弾けました。 弾けた泡は、息を外へ出す。 息が外へ出る瞬間、声は“声”になります。 そして――濁点が落ちます。

 ぽと。 ぽと。

 二つ。 二つの小さな滴。

 滴は水ではありません。 水のふりをした声。 声のふりをした水。 その境目で生まれた、゛のしずく

 二つの滴が、上下ではなく、少し斜めに並んで、二人の掌の間に座りました。 座った瞬間、滴の縁が薄青く光りました。 薄青は改札の色。 改札の色の縁を持つ滴は、宛名を持っています。

 葵が、息を止めました。 幹夫も、息を止めました。 止めた息は、休符。 休符は、滴を乾かさない糊です。

 ( )

 その間の中で、滴が、ちゃんと゛の形に落ち着きました。

 ゛

 おばあちゃんが、ちょうどそのとき、何でもない声で言いました。

「ほら、足もと気をつけて。 朝は床が冷たいからね」

 その言葉は、表の言葉。 でも表の言葉は、裏の仕事の外套。 外套があると、誰もこちらを見ません。 見られないと、滴は座れます。

 スピーカーの声は続いていました。 番号だの、行き先だの、そんなことを言っています。 でも幹夫の耳には、もうそれは遠い。 遠い声の中で、いま近いのは、掌の間に座った二つの滴だけでした。

 幹夫は、ポケットから白い時刻表の膜をそっと取り出しました。 膜は薄く冷たい。 冷たいのに刺さらない。 刺さらない冷たさは、水印の冷たさです。

 膜の下のほうに、昨日の札が残っていました。

みず:しずくしずく:あわ あわ:

 あわ:の右側は白いまま。 でも、その白の端に、小さな席が二つ、上下に並んでいました。 ゛の席。 声の席。

 幹夫と葵は、掌のあいだの゛のしずくを、押しません。 落としません。 ただ、間を運ぶ。

 ( )

 二人の掌のあいだの空白を、膜の席の上へ、そっと滑らせる。 滑らせるとき、息を吐かない。 吐くと風になって、滴が飛びます。 飛んだ滴は、雑音になります。

 おばあちゃんの湯気が、ちょうど良くそこに漂っていました。 ほわ……。 緑の匂いが、膜の白を少し湿らせました。 湿ると、滴は座れます。

 ぷと。 ぷと。

 滴が、二つの席へ座った音。

 座った瞬間、膜が、きん……と鳴りました。 字が起きる音。 紙が焦げない音。 繊維が正しい向きへ並び替わる音です。

 あわ:の右側に、まず、小さな゛が浮かびました。 ゛は黒ではなく、薄青い縁を持った透明の滴の形。

 そして、その゛の下から、文字がゆっくり起きました。 透かし文字。 水で書いた字。

 こえ

 あわ:こえ。

 たった三つのひらがな。 でも、その三つは、泡箱の奥の奥まで繋がっている三つでした。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「道が一本になった」という音でした。

 葵が、息だけで言いました。「……できた」 幹夫は、声を出さずにうなずきました。 うなずきは、結び目。 結び目があると、道はほどけません。

 けれど、膜はまだ終わりませんでした。 字が起きるとき、必ず次の余白も一緒に開くのです。

 あわ:こえ の下に、薄い一行がふっと現れました。 白い文字。 まだ決まりきっていない文字。

こえ:___

 空白。 次の席。 次の行き先。

 そして、その空白の右端に、小さなコロンが点滅しはじめました。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 点滅するコロンは、時刻の係でもあります。 でも、いまは“言葉の係”。 何を続けるかを、またふたりに尋ねるコロンです。

 幹夫は、喉の奥が、しん……と沈むのを感じました。 しん……は深い息。 深い息は、次の一語を焦がさないための息。

 そのとき、スピーカーの声が、ちょうど終わりました。 終わりの声の端に、もう一度、ざ……が鳴りました。 ざ……は、声が座席から立ち上がる音。 立ち上がる声は、滴を落としません。 滴は、座るときだけ落ちます。 だから、もう拾い物は終わり。

 おばあちゃんが、紙コップを片づけながら、何でもないふりで言いました。

「よし、帰ろう。 朝ごはんがほんとに冷める」

 その「よし」は、句点の言葉。 句点があるから、次の文へ行けます。

 幹夫は、白い膜を胸に当てて、そっとポケットへしまいました。 しまうと、字は乾きません。 乾かない字は、あとでまた読めます。

 葵も同じように膜をしまいました。 二人の動きが揃うと、点滅のコロンも少しだけ落ち着いて見えました。 落ち着くということは、列車が次の便を用意しはじめたということです。

 駅を出ると、冷たい朝の光が、道路の端に長く伸びていました。 アスファルトの黒は、墨の川。 その上を、白い息がいくつも流れている。 白い息は、人の息。 人の息は、声の前の泡です。

 幹夫は、今まで気づかなかったことに気づきました。 街は、泡でできている。 泡が弾けて、声になる。 声が落ちて、゛になる。 ゛が座って、言葉になる。

 静岡の朝は、いつもそうやって動いていたのです。 ただ、幹夫たちは、いま、それを拾えるだけ。

 道の角を曲がると、遠くに富士の影が見えました。 富士は白い柱。 柱が立つと、声の線もまっすぐになります。 まっすぐな線は、迷いません。

 おばあちゃんが、歩きながら小さく言いました。

「朝はね、音がよく落ちる。 落ちた音を拾うには、 急がないのが、いちばん」

 その言葉の縁が、幹夫の胸の中のぱちに触れて、ぱちはもう震えませんでした。 震えないぱちは、仕事を終えたぱち。 仕事を終えると、次の仕事の席が空きます。

 幹夫は、ポケットの中で膜の端をそっとなぞりました。 あわ:こえ。 そして、こえ:___。 空白が、まだ白いまま息をしています。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 点滅するコロンが、胸の中でも、かすかに点滅しました。 胸の中のコロンは、時計ではありません。 次の一語の入口です。

 幹夫は、ふっと思いました。 次は、声のつづき。 声のつづきは、きっと――

 うた、かもしれない。 ことば、かもしれない。 それとも、だれかの名前、かもしれない。

 でも、決めるのは、勢いではない。 ちょうどの間で、ふたりで。

 朝の風が、茶畑のほうから、ほんの少しだけ緑の匂いを運んできました。 匂いが来ると、白は刺さらない。 刺さらない白は、続きを書ける白です。

 遠くで、さら……と音がしました。 どこかの白いページが、次の余白をめくった音でした。


第六十五章 こだまの二つの滴

 家へ帰る道は、朝のままの冷たさを、まだ少し握っていました。 冷たさは、手袋の中で丸くなる冷たさ。 丸くなる冷たさは、刺さらない冷たさ。 刺さらない冷たさは、紙の世界の冷たさと、よく似ています。

 母さんの台所からは、味噌汁の匂いが立っていました。 湯気がほわ……と天井へ上がって、窓ガラスの端に、薄い結露を作る。 結露は、空気の筆。 筆は、白い字を書きたがる。

「早かったね」 母さんの声は、いつもの声でした。 でも、幹夫には、いつもより少しだけ“丸く”聞こえました。 朝の駅で拾った゛が、耳の奥にまだ座っているからです。 座っているものがあると、声はほんの少し変わります。 変わるけれど、こわれない。 こわれないのは、間があるから。

「おばあちゃんと散歩してきた」 幹夫は、表の言葉をちゃんと置きました。 表の言葉は、外套。 外套があると、裏の仕事は焦げません。

 葵は、同じ町のどこかで、同じように味噌汁の湯気を吸っているはずでした。 吸っている湯気の中に、緑が少し混じっているはずでした。 混じっている緑は、縫い目。 縫い目があると、白は刺さらない。

 幹夫は、ポケットの中の膜――白い時刻表を、指の腹でそっとなぞりました。 なぞると、冷たさが、点滅の形で返事をしました。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 紙ではないのに、紙みたいに呼吸する膜。 その膜の中に、いまの道順が座っている。

 静岡:みず みず:しずく しずく:あわ あわ:こえ そして――

 こえ:___

 空白。 空白は、ただの空ではありません。 空白は席。 席は、座るものを待つ。 待っている席は、点滅します。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 幹夫の掌の「、」が、朝ごはんの湯気の向こうで、ひんやりと息をしました。 くるん……。 曲がる冷たさ。 曲がる冷たさは、まだ決めるな、と言う冷たさでもあります。

 学校の午前は、いろんな声でできていました。 げた箱の前の「おはよう」。 廊下を走る足音。 教室の窓を開ける音。 黒板のチョークの粉の白。

 白は乾きやすい。 乾きやすい白の中で、声はときどき落ちます。 落ちる声は、滴になります。 滴になる声は、゛になります。

 でも今日は、もう拾いませんでした。 拾うのは終わった。 次は、拾ったものがどこへつづくかを、読む日。

 音楽の時間、体育館へ入ると、天井が高く、空気が大きかったです。 大きい空気は、声を遠くまで運ぶ。 運ぶ声は、壁に当たる。 当たった声は、戻ってくる。

 先生が言いました。「はい、声、そろえて」

 そろえる。 そろえると、間ができる。 間ができると、戻る声は一つの形になります。

 みんなで歌う前の、いちばん最初の「ら」の音が、体育館の壁へ行って、帰ってきました。

 ……ら。 ……ら。

 帰ってきた音は、同じ音なのに、すこしだけ違いました。 同じなのに違う。 それは――こだまです。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「こだま」という音でした。

 幹夫は、急いで答えを口にしませんでした。 勢いで言うと、白が焦げる。 焦げると、言葉は固まって動けない。 動けない言葉は、宛名になれません。

 葵が、向こうの列で、ほんの少しだけ視線を寄こしました。 視線は言葉じゃない。 でも、視線の“間”は言葉です。

(聞こえたね)(うん)

 体育館の壁が、もう一度、声を返しました。

 ……ら。 ……ら。

 返す、ということ。 返すということは、戻るということ。 戻るということは、道があるということ。 道がある声――それが、こだま。

 幹夫の掌の「、」が、ひんやり座り直しました。 くるん……。 曲がる準備の冷たさ。

 放課後。 廊下の掃除が終わって、子どもの足音が薄くなり、学校がいちどだけ“ひとり”になる時間が来ました。 ひとりの学校は、音がよく響きます。 響くと、こだまがよく見えます。

 幹夫と葵は、昇降口の近くの、コンクリートの壁が並ぶ小さな通路へ行きました。 通路は短い。 短い通路は、返事が早い。 返事が早いと、拾いやすい。

 葵が、息だけで言いました。「……ここ、響く」 幹夫は、声を出さずにうなずきました。

 ふたりは、声を大きくしませんでした。 大きくすると勢いになる。 勢いは白を焦がす。 焦げると、こだまは雑音になります。

 幹夫が言いました。「……幹」 すぐ続けない。 間。 ( )

 通路の壁が、返しました。

「……みき」

 返す声は、少し遅れて来る。 遅れる声は、戻る声。 戻る声は、こだま。

 葵が続けました。「……葵」 間。 ( )

 通路が返しました。

「……あお」

 返事は半分だけ。 半分だけ返るのは、席がまだ半分だけ開いているからです。 席が半分だけ開いているということは、残り半分は、二人の間が埋めるということ。

 そのとき、幹夫のポケットの中で、白い膜が、ふっと冷たく光りました。 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 触らなくても分かる点滅。 点滅が、体育館ではなく駅のほうへ向いた気がしました。

 葵が小さく言いました。「……駅の掲示板、こだまって出てたよね。 新幹線の……」「……うん。 ひかり、と、こだま」 幹夫がそう言うと、胸の奥でこつん、と鳴りました。

 こだま。 声が返る。 返る声。 返ってきた声は――二つの点になる。

 その瞬間、幹夫は思い出しました。 ゛は二つの点。 声が濁る印。 そして、こだまは、声が返ってきた印。

 こだまが、゛を落とすかもしれない。

 葵の掌の「、」が、ひんやりしました。 幹夫の掌の「、」も、同じ温度になりました。 二つの読点が同じ温度になるとき、道は一本になります。

「……もう少し“ひとり”の場所がいい」 葵が言いました。 幹夫はうなずきました。

 学校の通路は、まだ誰かの気配が残っている。 こだまは、ひとりの場所で、いちばん丸く落ちます。

 夕方。 駅へ向かう道の空は、昼の白と夜の青の境目を持っていました。 境目は紫を少し抱えて、紫はすぐ紙の裏の色になって消えていく。 紙の裏の色になった空は、声を返しやすい空です。

 駅の高架の下――コンクリートが長く続くところへ来ると、空気が急に湿りました。 湿りは、声の椅子。 椅子があると、こだまは座れます。

 車の音が遠ざかる一瞬。 人の声が途切れる一瞬。 そのときだけ、ここは“ひとり”になります。

 おばあちゃんはいません。 でも、緑の匂いは、まだふたりの鼻の奥に住んでいました。 あの湯気の縫い目は、今日も消えていません。

 幹夫と葵は、壁の前に立ちました。 壁は白くはない。 でも、白い壁のふりをする壁です。 ふりをする壁は、紙の壁になります。 紙の壁は、声を返します。

 幹夫が、息を落としすぎない声で言いました。

「……幹、」

 間。 ( ) その間の中に、掌の「、」が座る。

 壁が返しました。

「……みきお」

 葵が続けました。

「……葵、」

 間。 ( )

 壁が返しました。

「……あおい」

 返事が、今度は全部返った。 全部返るとき、返り声は丸くなる。 丸い返り声は、落ちます。

 その瞬間――

 ぽと。 ぽと。

 天井のコンクリートの継ぎ目から、何かが落ちたのではありません。 落ちたのは“音”でした。 返ってきた声の、いちばん小さい粒。 声の粒が、二つ、落ちた。

 二つ。 二つは、゛の形です。

 ゛

 滴のような二つの点が、ほんとうに空中に見えました。 薄青い縁を持った、透明の点。 点は落ちるのに、床へ落ちない。 落ちない点は、宛名を持った点です。

 幹夫と葵は、すぐ掌を合わせませんでした。 合わせると間が潰れる。 潰れた間に、点は座れません。

 二人は、左右に掌を出し、間を残しました。

 ( )

 その間に、透明の二点が、ふわ、と座りました。

 ぷと。 ぷと。

 座った音。 座ったのに弾けない。 弾けない点は、今度は“拾い物”ではありません。 貼り物です。 貼るのではなく、座らせるもの。 座らせると、字が変わります。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「こえ:こたま」の“た”を濁せ、という音でした。

 家へ戻ってから、二人はそれぞれ、白い膜を取り出しました。 夜になる前の、いちばん静かな時間。 夕飯の匂いがまだ強くならない時間。 家がいちどだけ“ひとり”の形をする時間。

 幹夫は机の上に膜を広げました。 膜の上の字は、透かしで座っている。

 静岡:みず みず:しずく しずく:あわ あわ:こえ こえ:___

 その空白のところに、うっすらと、字の骨だけが見えました。 骨だけの字。 まだ決まっていない字。 でも、形だけはもうそこにいる。

 こたま

 “だ”の濁点だけが、白いまま空いている。 空いている席が、二つ並んでいる。 ゛の席。

 幹夫の掌の間に座っている二点が、ひんやりと動きたがりました。 動きたがる点は、席を覚えている点です。

 幹夫は、息を止めました。 止める息は休符。 休符は糊。 糊があると、点は乾きません。

 ( )

 その間のまま、二点を、膜の上の゛の席へ、そっと運びました。 押さない。 落とさない。 ただ、間を滑らせる。

 ぷと。 ぷと。

 二つの点が、席に座った音。

 座った瞬間――

 きん……。

 膜が鳴りました。 字が起きる音。 紙が焦げない音。 こだまが、ただの反響ではなく、宛名になった音です。

 こだま

 “た”が“だ”になった。 こたま、ではなく、こだま。 返り声が、字の中へ座った。

 そして、膜の右上のコロンが、いちどだけ強く点きました。

 ぽっ!

 完了の光。 完了の光は、次の頁を開きます。

 すぐ下に、新しい一行が現れました。

こだま:___

 そしてその空白の端に、もう一つ、小さな席が開きました。 今度は゛ではない。 もっと丸い席。 木の実みたいな席。 紙の葉っぱみたいな席。

 幹夫は、喉の奥がしん……と沈むのを感じました。 しん……は深い息。 深い息は、次の森の匂いを待つ息です。

 窓の外で、風が、さら……と木の枝を撫でました。 木の音は、まだ歌ではありません。 でも、返事の準備をする音です。

 こだま。 こだまは山に住む。 こだまは森に住む。 こだまは木の中に息を隠す。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「次は森だ」という音でした。

 机の上の膜のコロンが、ぽっ、( )ぽっ、と静かに点滅しました。 点滅は急かしません。 点滅はただ、席を開けて待つ。

 そして、どこか遠くで――

 さら……。

 白いページが、一枚めくられる音がしました。 今度は、駅ではなく、木の影のほうでめくられた音でした。


第六十六章 葉っぱの゜

 机の上の膜は、夜のうちに少しだけ冷えていました。 冷えた膜は、紙のふりをします。 紙のふりをする膜は、白い駅の字を、ちゃんと抱えて離しません。

 幹夫は、朝のうちに拾った゛(濁点のしずく)が、もう膜の席に落ち着いているのを見て、いちどだけ胸の奥で息をつきました。 息をつくとき、勢いをつけない。 勢いは白を焦がす。 焦げると、字は動けません。

 膜の上には、いままでの道順が、透かしで座っていました。

 静岡:みず みず:しずく しずく:あわ あわ:こえ こえ:こだま こだま:___

 そして、その最後の空白の右端に―― 小さな席が、ぽつん、と開いていました。

 ゛の席ではありません。 ゛の席は、二つ並んだ小さな滴の椅子です。 けれど、これはもっと丸い。 丸いのに、冷たい。 冷たいのに、刺さらない。

 木の実みたいな席。 紙の葉っぱみたいな席。

 幹夫は、指で触れませんでした。 触れると乾く気がしたからです。 乾いた席は、落ちたものを弾いてしまう。

 そのかわり、掌をひらきました。 掌の「、」が、薄青い輪郭を、ふっと起こしました。

 くるん……。

 曲がる音。 曲がる音は、行け、というより――呼ばれている音です。

 窓の外で、風が、さら……と枝を撫でました。 枝の音は、紙がめくられる音に似ています。 似ているということは、木がページになれるということです。

 (こだま:___)

 空白が、呼吸していました。

 学校の帰り道、葵と合流したとき、葵は何も言わずに、袖の奥から同じ膜を見せました。 葵の膜の上にも、同じ空白が開いていました。 そして同じ、丸い席。

「……見えた?」 葵が小さく言いました。

「……うん。 丸い席。 どんぐりみたい」 幹夫が言うと、葵はうなずきました。 うなずくと、髪の三つ葉が、ほんの一度だけ緑に光りました。

「……森、だね」 葵は、もう答えを言うように言いました。 答えを言うときも、勢いをつけない。 森は勢いを嫌います。 森は、急いだ声を、ただの風にしてしまうからです。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「森のまるを拾え」という音でした。

 森のまる。 木の実のまる。 葉っぱのまる。

 幹夫は、ふっと思い出しました。 泡箱で縫い止めた、小さな丸――゜。 しずく゜。 あわ。 そして、ぱち。

 ゜は、泡の印でもあった。 けれど、゜は“まる”でもある。 まるは、木の実。 まるは、葉の芽。 まるは、終わりの句点にも似ている。

 まるは、森が持っている。

 その夕方、二人は、駿府の堀のほとりへ向かいました。 堀の黒丸を思い出すと、足の裏が少しだけ慎重になります。 慎重は、遅れることではありません。 慎重は、間を落とさない歩き方です。

 堀の水は、夕日の橙を薄く吸っていました。 吸った橙は、刺さない橙。 刺さない橙は、白の角を丸くします。

 水面には、木の影が落ちていました。 影は、枝の形をしているのに、どこか字の形にも見えます。 枝は、文字の親戚です。 文字は、枝に似ている。 枝は、読みやすいように分かれているから。

 風が吹くと、葉が擦れました。

 ぱさ……。 ぱさ……。

 幹夫は、はっとしました。 “ぱさ”は、ぱ、の音です。 ぱ、は、゜の音。 ゜は、丸い席の印。

 葵も同じことに気づいたのか、目だけで「うん」と言いました。

 堀のそばの木立は、町の音を少し薄くしてくれました。 車の音は遠くへ行き、人の声は水面で丸くなり、カラスの鳴き声だけが、上のほうでくっきりしました。

 かぁ。 かぁ。

 鳴き声は句点。 句点があると、次の文へ行けます。

 木立の奥へ少し入ると、足もとに落ち葉が増えました。 落ち葉は紙に似ています。 紙に似ている落ち葉は、ページになれます。 ページになれる落ち葉は、めくられる音を持っています。

 さら……。

 靴の裏で、落ち葉が小さくめくれました。 その音が、幹夫の掌の「、」をひんやりさせました。

 くるん……。

 曲がりが、森のほうへ向いた。

 木立の中には、声が返る場所がありました。 石垣の角。 幹の太い木が二本並んでいるところ。 枝の下に空が狭く切り取られて、音が逃げにくいところ。

 葵が、そこへ立つと、スインが足もとで小さな輪になりました。 キンは、幹夫の足もとで、すうっと立って、矢印にはならず――丸い点になりました。

 丸い点。 今日のキンは、句点みたいでした。

 幹夫と葵は、声を出す前に、いちど息を揃えました。 揃えた息は、間の糊。 糊があると、返事は雑音になりません。

 幹夫が言いました。

「……幹、」

 言ったあと、すぐ続けない。 ( ) 間。

 木立が返しました。

「……みき……」

 返り声は、少しだけ湿っていました。 湿っているのは、葉がたくさんあるからです。 葉は音を受け取って、丸く返す。 丸く返すと、こだまは“木霊”になります。

 葵が言いました。

「……葵、」

 ( ) 間。

 木立が返しました。

「……あお……」

 返事が、今日は少し短い。 短い返事は、落ちる準備の返事です。 長く伸びると、ただの風になる。 短いと、粒になって落ちます。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「落ちる」という音。

 そのとき、葉が擦れました。

 ぱさ。 ぱさ。

 擦れた音の“ぱ”が、空気を丸くしました。 丸くなった空気の中で、何かが一つだけ、ころん、と転がった気がしました。

 ころん。

 でも、地面には何も落ちていません。 落ちたのは、丸い席そのものでした。

 空中に、ほんの一瞬だけ、小さな丸が見えました。 水滴ではない。 泡でもない。 どんぐりの形をした“白い丸”。 白いのに透けている。 透けている白は、水印の白です。

 その丸は、落ちるのではなく、座り場所を探すみたいに、ふら、と揺れました。 揺れる丸は、席を知っている丸。

 葵と幹夫は、同時に掌を出しました。 合わせない。 合わせると間が潰れる。 潰れた間は、丸を受け取れない。

 二人の掌は、左右に並びました。 そのあいだに、細い空白。

 ( )

 空白の上に、二人の「、」が、同じ温度で座りました。 ひんやり。 ひんやり。

 そこへ――

 ぷと。

 丸が、座りました。

 座った瞬間、丸は少しだけ匂いを持ちました。 土の匂い。 葉の青い匂い。 そして、遠くの茶の匂いが、縁をほんの少し丸くしている。

 葵が息を止めました。 幹夫も息を止めました。 止めた息は休符。 休符は、丸を乾かさない糊。

 ( )

 丸は、逃げませんでした。 逃げない丸は、゜になれます。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「それだ」という音でした。

 その場で、幹夫は膜を取り出しました。 葵も膜を出しました。 二枚の膜を重ねると、席が厚くなります。 厚い席は、丸を落ち着かせます。

 こだま:___ その空白の中に、うっすら字の骨が見えました。

 はっは

 “は”がふたつ。 真ん中に、小さい“っ”がすでに座っている。 でも、二つ目の“は”の右上が、白く空いている。

 そこが、丸い席でした。

 幹夫は、掌の間に座っている丸――゜を、押さずに、落とさずに、ただ運びました。 運ぶのは手ではありません。 運ぶのは、間。

 ( )

 間を、二つ目の“は”の右上へ、そっと滑らせる。

 ぷと。

 丸が、席に座った音。

 座った瞬間――

 きん……。

 膜が鳴りました。 繊維が並び替わる音。 焦げない音。 破れない音。

 そして、木立の葉が、いちどだけ大きく擦れました。

 ぱさあ……。

 その“ぱ”は、声ではなく葉の声。 葉の声は、こだまの親戚。

 膜の上の字が、静かに変わりました。

 はっぱ

 二つ目の“は”が、“ぱ”になった。 丸が乗って、“ぱ”になった。 ぱ、は、葉の音のはじまり。

 こだま:はっぱ。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「道が一枚めくれた」という音でした。

 葵が、息だけで言いました。「……葉っぱ」 幹夫も、息のままうなずきました。 うなずくと、森の空気が少しだけ落ち着きました。 落ち着くということは、宛名が合ったということです。

 そのとき、掌の中の「、」が、ひんやりと、しかしやさしく座り直しました。

 くるん……。

 曲がりは、次の方向へ。

 膜は、いつもそうするように、終わった途端に次の余白を開きました。 終わりは、次の始まりの席を作るためにある。

 はっぱ:___

 その空白の中に、また字の骨が、うっすら見えました。

 こもれひ

 “こもれひ”。 最後の“ひ”の右上に、今度は小さな二つの席が開いていました。 二つの滴の椅子。 ゛の席。

 こもれひ、に゛が座れば――

 こもれび。

 木漏れ日。 葉っぱの向こうの光。 森の白い粒。 白が刺さらない理由の、いちばんきれいな理由。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「次は、ひかりの濁点だ」という音でした。

 森の上の空は、もう少しだけ紫を抱えていました。 紫は境目の色。 境目があると、次の頁がめくれます。

 風が、もう一度だけ葉を撫でました。

 さら……。

 めくられる音。 木のページが、次の光の頁をめくった音でした。


第六十七章 木漏れびの濁点

 「こだま:はっぱ」まで書けた膜は、夜のあいだ、机の上で静かに冷えていました。 冷えた膜は、紙のふりをします。 紙のふりをする膜は、勝手に乾かないように、呼吸を小さくします。

 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 右上のコロンが、胸の中の鼓動みたいに、細く点滅していました。

 幹夫は、朝の光が窓の端へ届くころ、膜をそっと広げました。 透かしの字が、きちんと残っています。

 静岡:みず みず:しずく しずく:あわ あわ:こえ こえ:こだま こだま:はっぱ はっぱ:___

 最後の空白の中には、もう骨が座っていました。 骨はまだ黒くならない。 黒くならない骨は、焦げない骨。 焦げない骨は、動ける骨。

 こもれひ

 「ひ」の右上が、白く空いていました。 そこに、二つの小さな席。 ゛の席。 声を震わせる席。 “ひ”を“び”にする席。

 こもれひ。 こもれび。

 幹夫は、喉の奥をしん……と沈めました。 沈めるのは怖いからではありません。 勢いを落として、白を焦がさないためです。

 窓の外で、風が枝を撫でました。

 さら……。

 葉がめくられる音。 葉がめくられると、光が落ちます。 光が落ちると、床に丸い斑点ができます。 丸い斑点は、木の実みたいに揺れます。

 (木漏れ日)

 木漏れ日は、葉のすき間から落ちた光。 落ちた光は、ふつうは座れません。 強すぎて、紙を焦がすから。 速すぎて、手から逃げるから。

 でも――いままで、座れないはずのものを、何度も座らせてきました。 潮も、点も、露も、泡も。 座らせたのは、手ではありません。 です。

 幹夫の掌の「、」が、ひんやりと息をしました。

 くるん……。

 曲がる冷たさ。 曲がる冷たさは、行き先を教えます。

 今日の行き先は、木の下。 光が、葉で割れるところ。

 放課後、葵と合流して、二人はおばあちゃんの家へ寄りました。 おばあちゃんは、玄関に立った二人を見て、笑わずに言いました。

「葉っぱの次は、光だろ」

 幹夫は、どきり、としました。 でも、そのどきりは怖さではありません。 宛名が合ったときの、胸の軽い音。

「……うん。 “こもれひ”って出てる。 “び”にしたい」 幹夫が言うと、葵が袖の中から膜を出して見せました。 葵の膜にも、同じ骨。

 こもれひ。 「ひ」の右上の二つの席。

 おばあちゃんは、急須のふたを押さえながら、ぽつりと言いました。

「日が傾く前がいいね。 昼の光は強い。強いのは、焦げやすい。 でも、木の下の光は“割れる”からね。 割れた光は、やさしくなる」

 割れる光。 割れた光は、束にならない。 束にならない光は、紙に刺さりにくい。

「あと、これがいる」 おばあちゃんは、いつもの袋を持ち上げました。 袋の口は閉じているのに、緑の匂いが薄く漏れている。

 ほわ……。

 湯気の匂い。 匂いは針。 針は刺さない。 針は縫う。

「光もね、縫ってやらないと逃げるよ」

 おばあちゃんの声は柱。 柱の声は、白を焦がしません。

 駿府の堀のほとりへ行くと、木立は昼の名残の光をまだ抱えていました。 空は青いのに、端には薄い紫が残っている。 紫は境目の色。 境目があると、めくれる頁は破れません。

 堀の水は、ゆっくり流れるでもなく、止まるでもなく、ただ“座って”いました。 座っている水は、鏡になります。 鏡になると、光が二重に落ちます。

 葉の上の光。 水の上の光。 二重に落ちる光は、二重に震えます。 震えるということは――濁るということ。 濁るということは――゛が生まれるということ。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「ひかりの濁点」という音でした。

 おばあちゃんは、堀の内側の小径、木の影が濃いところで立ち止まりました。 日が、葉のすき間を通って、地面に丸い斑点を作っていました。 丸い斑点は、風に合わせて揺れる。

 ゆら。 ゆら。

 揺れる光は、声を持ちます。 声を持つ光は、点を落とします。

 おばあちゃんが、袋の口をほんの少し開けました。 湯気が、ほわ……と立って、光の斑点の上をゆっくり流れました。

 ほわ……。 ほわ……。

 湯気が流れると、光が刺さらない。 刺さらない光は、熱を持ちすぎない。 熱を持ちすぎない光は、紙の席に座れます。

 幹夫の足もとで、キンがすうっと立ちました。 今日は矢印になりませんでした。 キンは、二つの小さな点になって、葉影の下に並びました。

 ゛

 葵の足もとで、スインは小さな輪を作って、ふわ、と揺れました。 輪は椅子。 椅子があると、点は転がりません。

 おばあちゃんは、何でもないふりで言いました。

「急がないのが、いちばん。 光は急ぐと刺さる。 刺さると焦げる。 焦げると、字になれない」

 その言葉の“縁”が、湯気と一緒に、木の下へ落ちました。 落ちた縁は、光の針を丸くします。

 幹夫と葵は、声を出しませんでした。 今日は声を拾う日ではない。 今日は、光の震えを拾う日。

 二人は、左右に掌を出しました。 合わせない。 合わせると間が潰れる。 潰れた間に、光は座れません。

 ( )

 掌と掌のあいだに、細い空白。 空白の上に、幹夫の掌の「、」がひんやり座りました。 葵の掌の「、」も、同じ温度で座りました。

 くるん……。 くるん……。

 二つの読点が、同じ曲がりを持つとき、間は“受け皿”になります。

 その瞬間、風が葉を撫でました。

 さら……。

 葉がめくれ、光の斑点がいちどだけ“割れた”のが見えました。 一つの丸が、二つの小さな丸に分かれる。 二つの丸は、上下ではなく、少し斜めに並ぶ。

 ゛

 幹夫の目の奥が、しん……と静かになりました。 静かになると、見えるものが増えます。

 落ちました。

 ぽと。 ぽと。

 水滴ではありません。 でも、水滴のふりをした光。 光滴。

 熱いはずなのに、熱くない。 熱くないのは、湯気が縫っているから。 縫っている湯気は、光を“薄くする”から。

 二つの光滴が、ふわ、と掌の間の空白へ座りました。 座った瞬間、二つはきちんと゛の形になりました。

 ぷと。 ぷと。

 座った音。 音は小さいのに、胸の奥まで届きました。 届くということは、宛名が合っているということです。

 葵が息を止めました。 幹夫も息を止めました。 止めた息は休符。 休符は糊。 糊があると、光は逃げません。

 ( )

 光滴の縁は、薄青く光っていました。 薄青は改札の色。 改札の色が縁にある滴は、ただの光ではありません。 字の印になれる光です。

 おばあちゃんが、遠くからぽつりと言いました。「ほら、落ちたろ。 木は、光をほどいてくれる」

 幹夫は、ポケットから膜を出しました。 葵も膜を出しました。 二枚の膜を重ねる。 重ねると、席は厚くなる。 厚い席は、光を焦がさず受け取れる。

 はっぱ:こもれひ

 「ひ」の右上に、二つの空席。 ゛の席。 そこが、薄く薄く光っていました。

 幹夫と葵は、掌の間の゛を、押さずに、落とさずに、ただ運びました。 運ぶのは手ではありません。 運ぶのは間。

 ( )

 間を、膜の「ひ」の右上へそっと滑らせる。

 ぷと。 ぷと。

 二つの光滴が席に座った音。

 座った瞬間――

 きん……。

 膜が鳴りました。 繊維が並び替わる音。 焦げない音。 破れない音。 そして、字が“息をする”音。

 こもれひ、の「ひ」が、ゆっくり震えました。 震えるのは揺れるためではありません。 濁るため。 濁ると、声になります。 声になると、字は生きます。

 透かしの字が変わりました。

 こもれび

 ひ、が、び、になった。 “ひかり”は、ただの光ではなく、返事を持った光になった。

 はっぱ:こもれび。

 その瞬間、地面の光の斑点が、いちどだけ大きく揺れて、丸い光がいくつも踊りました。 踊る光は、森の言葉。 森の言葉は、だれにも聞こえないのに、ちゃんと届きます。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「宛名が一つ通った」という音でした。

 葵が、息だけで言いました。「……木漏れび」 幹夫は、声を出さずにうなずきました。 うなずきは結び目。 結び目があると、道はほどけません。

 膜は、終わると必ず次の余白を開きました。 終わりは、次の始まりの席を作るためにあります。

 こもれび:___

 空白の中に、うっすら骨が見えました。 骨はまだ白い。 でも、形はある。

 すかし

 透かし。 紙の中の光。 白い門の中の、あの三つ葉葵の水印。 光が当たると見える、裏側の駅の印。

 幹夫の喉の奥が、しん……と沈みました。 沈む息は、次の文を焦がさない息。

 おばあちゃんが、袋の口を閉じながら、ゆっくり言いました。

「ほらね。 木漏れ日は、透かしみたいなもんだ。 紙だって、木だって、光を通すと“裏”が見える」

 裏。 白い駅。 白紙門。

 堀の水が、きら、と小さく光りました。 水面に映った木漏れびが、まるで紙の透かしみたいに揺れていたのです。

 ゆら。 ゆら。

 揺れる透かしは、まだ読まれたくない透かし。 読まれたくない透かしは、守りたい透かし。

 幹夫は、膜を胸に当てて、そっとしまいました。 しまうと、字は乾きません。 乾かない字は、次に読めます。

 葵も同じようにしまいました。 二人の動きが揃うと、木立の空気も少し落ち着きました。

 そのとき、どこか遠くで――

 さら……。

 白いページが一枚めくられる音がしました。 それは駅の音ではありません。 木の影の中の、透かしの頁がめくられる音でした。


第六十八章 透かし灯の二つの゛

 翌朝、窓の外は、まだ冬の青をうすく抱えたまま起きていました。 青の下に白があり、白の下に、もっと白い余白がある。 余白がある朝は、字が焦げません。

 幹夫は机の前に座り、膜をそっと広げました。 触ると乾きそうで、触らないようにしながら、指の腹で“端”だけを押さえる。 端を押さえると、膜は紙のふりをする。 紙のふりをすると、透かしの字が、ちゃんとそこに残ります。

 静岡:みず みず:しずく しずく:あわ あわ:こえ こえ:こだま こだま:はっぱ はっぱ:こもれび こもれび:すかし

 ここまで、もう息の道になっていました。 “すかし”の字は、黒ではなく薄い薄い青で、けれど消えない。 消えない青は改札の色。 改札の色は、戻れる色です。

 そして、その下に、次の行が生まれていました。

 すかし:きんか

 幹夫は、いちど目を細めました。 “きんか”――金貨。 きらきらした硬い丸。 でも、この道順の中で、金貨は固すぎる。 硬いものは焦げやすい。 焦げると動けない。 動けない言葉は宛名になれません。

 よく見ると、“き”と“か”の右上に、小さな空席が二つずつ開いていました。 空席は、滴が座る席。 二つ並んだ席は、゛の席。 濁点の席。

 き゛んか゛。

 ――ぎんが。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 扉の内側からのノック。 「それだ」という音でした。

 銀河。 紙の透かしを、光に当てると見える線。 夜の空の透かしを、暗さに当てると見える線。 線は、どちらも道。 道は、列車を呼びます。

 でも、いま必要なのは、言葉ではなく――二つの゛。 二つの゛が座らないと、“きんか”は“ぎんが”になれない。

 幹夫は掌をひらきました。 掌の「、」が、ひんやりと薄青い輪郭を起こします。

 くるん……。

 曲がる冷たさ。 曲がる冷たさは、拾いに行けという冷たさでした。

 学校で葵と目が合ったとき、葵はもう、答えを知っている目でした。 休み時間、廊下の窓のところで、葵は袖の奥から膜を出しました。 幹夫も出しました。 二枚の膜の上に、同じ行が座っている。

 すかし:きんか

 そして、同じ小さな空席。

「……゛が二つ、いる」 葵が、息のまま言いました。「……うん。 “ぎんが”」 幹夫が言うと、葵は小さくうなずきました。 うなずきの“間”で、葵の髪の三つ葉が、ほんの一度だけ緑に光りました。

 緑は縫い目。 縫い目があると、光は刺さりません。

「……゛って、どこで拾う?」 葵が言ったとき、幹夫の耳の奥に、あの音がひとつだけ蘇りました。

 ざ……。

 スピーカーの前。 声の入口。 でも今日は、声は強い。 昼の声は乾く。 乾いた゛は、座る前に消えてしまう。

 幹夫は、窓の外を見ました。 校庭の隅の木が、風で葉を揺らしています。 揺れる葉の間から、白い光が落ちて、斑点が揺れている。 あれは“こもれび”。 こもれびは“すかし”になった。 すかしは、光の裏で、点を作る。

 光の裏。 裏光。 逆光。

 その瞬間、幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「駅前の白い幕」と、扉が言いました。

 白い幕。 あの大きな白い布。 光が後ろから当たると、透かしが見える。 透かしの上に、点が座る。 点が二つ並ぶと、゛になる。

「……駅前の白い幕」 幹夫が言うと、葵はすぐに頷きました。「……うん。逆光」 逆光は、透かしの灯り。 透かし灯。

 放課後、葵はおばあちゃんの家へ走りました。 幹夫もついていきました。 走っても勢いをつけすぎない。 勢いは白を焦がす。 焦げると、透かしは見えません。

 おばあちゃんは、二人の顔を見るなり、急須を出す前に言いました。

「きんか、じゃないだろ」

 幹夫は、どきり、としました。 でも、おばあちゃんの目は怖い目じゃない。 匂いで宛名を嗅ぎ分ける目でした。

「……゛が二ついる。 “ぎんが”にしたい」 幹夫がそう言うと、おばあちゃんは笑いませんでした。 笑うと乾くからです。

「じゃあ、幕だね。 逆光の幕。 夜がいい。人が少ないほうがいい。 でも夜は冷える。冷えると点が落ちる。 落ちる点は拾いやすい」

 おばあちゃんは例の袋を持ち上げました。 袋の口は閉じているのに、緑の匂いが漏れている。

 ほわ……。

「これも持っていく。 光はね、縫ってやらないと刺さる」

 刺さらない光。 刺さらない白。 そのための匂いの針。

 夜。 駅前は、昼よりも白が多い場所になります。 昼の白は太い白。 夜の白は細い白。 細い白は、点になれる白です。

 バスのライト。 自転車のライト。 自動販売機の白。 改札の向こうの蛍光灯。 そして、駅前の新しい白い幕が、暗がりの中で一枚の紙のように立っていました。

 白い幕の後ろには、作業灯の黄白い光が揺れていました。 揺れる光は、幕を透かします。 透かすと、布の織り目が星座みたいに見える。 星座みたいに見えるということは―― 点が落ちる席が、もうあるということです。

 おばあちゃんは、少し離れたところで立ち止まりました。 人の目から隠れる柱のそば。 柱のそばは風が弱い。 風が弱いと、点は飛びません。

「ここでいい」 おばあちゃんは小さく言って、袋の口をほんの少しだけ開けました。

 ほわ……。

 緑の湯気が、夜の白の前に薄い膜を作りました。 膜は、刺さる光を丸くします。 丸い光は、滴になれます。

 幹夫と葵は、白い幕の前へ近づきました。 近づきすぎない。 近づきすぎると、白が強すぎて乾く。 少し離れる。 離れると、透かしが見える距離になる。

 幕の中に、うっすら形が浮かびました。 三つ葉葵の透かし。 幹の柱の透かし。 以前、白紙門で見たのと同じ印が、今は幕の繊維の奥に“影”として座っています。

 そして、その透かしの周りに、点が生まれていました。 点は、布の小さな隙間から漏れる光。 星のような穴。 穴は黒くない。 黒くない穴は、怖い穴ではありません。 黒くない穴は、滴の席です。

 ぽっ。 ぽっ。

 幹夫は気づきました。 点が、ときどき二つ並んで光る場所がある。 二つ並びの点は、゛の形。

 ゛

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「落ちるぞ」という音でした。

 葵が掌をひらきました。 幹夫も掌をひらきました。 合わせない。 合わせると間が潰れる。 潰れた間に、゛は座れません。

 二人の掌は左右に並び、間を残しました。

 ( )

 その空白の上に、二人の「、」が同じ温度で座りました。 ひんやり。 ひんやり。

 くるん……。 曲がりが二つ揃う。 揃うと、空白は“受け皿”になります。

 白い幕の繊維の奥で、二つ並びの点が、いちどだけ強く光りました。

 ぽっ。 ぽっ。

 そして――暗い( )の瞬間が来ました。 点が、光をやめる瞬間。 光をやめる瞬間は、落ちる瞬間。

 ぽと。 ぽと。

 二つの小さな光滴が、空気から剥がれて、掌の間へ座りました。 熱いはずなのに、熱くない。 熱くないのは、湯気が縫っているから。 縫っている湯気は、光を薄くするからです。

 ぷと。 ぷと。

 座った音。 座った瞬間、二つの滴は、きちんと゛の形になりました。 薄青い縁が、ほんの一瞬だけ光る。

 薄青は改札の色。 改札の色が縁にある滴は、宛名を持っています。

 ――一つ目。 ゛が一つ。

 でも、今日は二つ。 “ぎ”の゛と、“が”の゛。 二つ必要。

 おばあちゃんが、遠くでぽつりと言いました。

「焦るなよ。 点は、急ぐと星になって逃げる」

 星。 星は逃げる。 逃げる星を、滴にするには、間が要る。

 幹夫と葵は息を止めました。 止めた息は休符。 休符は糊。 糊があると、゛は乾きません。

 ( )

 白い幕の別の場所で、また二つ並びの点が光りました。 今度は少し高いところ。 葵の三つ葉の透かしの上あたり。

 ぽっ。 ぽっ。

 暗い( )。

 ぽと。 ぽと。

 二つ目の光滴が落ちてきて、同じ空白の上へ座りました。 すると、空白の上には、゛が二つ並びました。 二つの゛。 二つの濁り。 二つの入口。

 幹夫の胸の奥で、こつん、と鳴りました。 「揃った」という音でした。

 幹夫は膜を出しました。 葵も出しました。 二枚の膜を重ねると、席が厚くなる。 厚い席は、光を焦がさず受け取れます。

 すかし:きんか

 “き”の右上。 ゛の席。 “か”の右上。 ゛の席。

 幹夫と葵は、掌の間の二つの゛を、押さずに、落とさずに、ただ運びました。 運ぶのは手ではありません。 運ぶのは間。

 ( )

 まず一つ目の゛を、“き”の席へ。

 ぷと。 ぷと。

 座った音。 “き”が、ほんの少し震えて“ぎ”の形に息をしはじめました。 震えは焦げではない。 濁りの震え。 濁りは声の深さ。

 次に二つ目の゛を、“か”の席へ。

 ぷと。 ぷと。

 座った音。 “か”が、静かに沈み、そして“が”の形へ立ち上がりました。

 その瞬間――

 きん……。

 膜が鳴りました。 字が起きる音。 繊維が並び替わる音。 紙が焦げない音。 そして、宛名が通った音。

 すかし:ぎんが

 “きんか”は、もう金貨ではありませんでした。 硬い丸ではない。 光の道。 薄い白の道。 夜の透かしに現れる道。

 ぎんが。 銀河。

 白い幕が、その瞬間だけ、ただの幕ではなくなりました。 幕の織り目が、細い線になって、線が集まって、淡い川のように流れた。 川は空の川。 空の川は、天の川のふりをする。 ふりをするだけで、扉は開きます。

 そして――どこか遠くで、泡の笛が鳴りました。

 ぷう。

 白い列車の笛。 でも今日は、地上の駅の音ではなく、空の駅の音でした。 空の駅は、透かしの向こうにあります。

 葵が、息だけで言いました。「……銀河」 幹夫は、声を出さずにうなずきました。 うなずくと、膜の右上のコロンが、いちどだけ強く点きました。

 ぽっ!

 完了の光。 完了の光は、次の余白を開きます。

 ぎんが:___

 空白の中に、うっすら骨が見えました。 骨はまだ白い。 でも、形だけはもうそこにいる。 細い線。 長い棒。 そして、括弧のような弧。

 幹夫は、喉の奥が、しん……と沈むのを感じました。 沈む息は、次の文を焦がさない息。

 おばあちゃんが、袋の口を閉じながら、小さく言いました。

「ほらね。 透かしは、星になる。 でも、星は持って帰るな。 持って帰れるのは、道だけだ」

 道だけ。 道は、膜の中に残る。 残る道は、いつか列車を呼ぶ。

 白い幕の向こうで、作業灯がいちどだけ揺れ、点がいくつか消えて、また点きました。 ぽっ。 ( ) ぽっ。

 その点滅が、銀河の呼吸みたいに見えました。

 幹夫と葵は、膜を胸に当てて、そっとしまいました。 しまうと、字は乾きません。 乾かない字は、次の夜に読めます。

 そして二人は、駅前の白い幕に、最後にもう一度だけ目を向けました。 幕はただの幕のふりをしていました。 ふりをしているということは、守っているということです。

 さら……。

 どこかで、白いページが一枚めくられる音がしました。 今度は木の影でも、堀の水でもない。 夜の空――透かしの向こうでめくられた音でした。



 
 
 

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