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静岡幻影列車 ~タイムトリック事件~ 続編

  • 山崎行政書士事務所
  • 2月9日
  • 読了時間: 29分

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プロローグ

深夜の東海道本線・静岡総合指令所。緑色の光点が瞬く巨大な路線図パネルの前で、若手エンジニアの沢村拓也は額の汗を拭った。いつもなら静まり返っているはずの午前2時過ぎ。しかし、今夜は違っていた。

「おかしい……」沢村は端末の異常アラートに目を凝らす。静岡駅付近の線路センサーが、存在しないはずの列車の通過を検知したというログが表示されていた。しかもその時刻は2時13分。東海道本線のダイヤには、そんな時間に走る定期列車など存在しない。貨物列車ですら通過しない時間帯だ。

沢村は急いで監視カメラの映像記録を検索した。夜間モードの映像には、微かなライトの軌跡らしきものが映っていた。まるで黒い闇の中から突然現れ、数秒間だけぼんやりと光を放って消えていったように見える。「幻影列車……?」思わず彼の脳裏に、一週間前に報道されたある事件がよぎった。

それは静岡鉄道で起きた謎の「幻影列車」事件。時間のねじれを伴う不可解な列車現象と、それに絡む犯罪劇は、地元の新聞やテレビを賑わせたばかりだ。その事件は解決したはずだった——静岡県警の顧問として協力した元新聞記者、山崎仁の活躍によって。しかし、沢村の目の前で起きた異常は、まるでその「幻影」が再び現れたかのようだった。

沢村は震える指で社内専用電話を取り、上司に連絡を入れた。「もしもし、今よろしいですか…はい…実は先程、静岡駅付近で不可解なセンサー反応が…はい、映像も…」自分でも信じられない内容を報告しながら、彼の胸は高鳴っていた。不安と興奮——一体何が起ころうとしているのか。静まり返る指令所に、沢村の声だけが低く響いていた。

第一章:新たな異変

翌朝、静岡市内は夏の日差しが朝霧を追い払い、蒸し暑い空気が立ち込めていた。山崎仁は、旧友で静岡県警刑事の吉村と駅前の喫茶店で向き合っていた。吉村は昨日まで続いていた静岡鉄道「幻影列車」事件の処理にようやく一段落ついたところで、山崎に礼を言うために呼び出したのだった。

「まさか鉄道マニアの君が、本当にあの事件を解決してしまうとはな。」吉村が苦笑交じりにコーヒーをすすった。山崎は肩をすくめる。「偶然だよ。たまたま時間トリックの謎に気づいただけさ。」そう謙遜しつつも、彼の頭には今なお先週の出来事が鮮明によみがえっていた。時刻表に存在しない列車、改ざんされた駅の記録、そして黒幕・黒田との対峙……。

吉村は身を乗り出し、小声で続けた。「実はな、山崎。また奇妙な話が舞い込んできてる。」山崎はコーヒーカップを置き、友人の顔を見つめた。「奇妙な話?」——吉村は頷き、声を潜めた。「昨夜、東海道線でな。未明にありえない列車が走ったという通報があった。貨物でもない時間にセンサーが反応して、防犯カメラにも光が映ったらしい。」

「!」山崎の胸が高鳴る。吉村がスマートフォンで見せてくれた社内資料には、確かに静岡駅付近の線路上を何か光る物体が高速で通過する画像が載っていた。粗い映像だったが、鉄道に詳しい山崎にはすぐにわかった。それは列車の前照灯の光跡だ。

「静岡鉄道の件と、似ていますね。」山崎は表情を引き締めた。吉村はゆっくりと頷く。「ああ。県警もただの機械誤作動とは思っていない。おまけに…」吉村は言いにくそうに言葉を継いだ。「おまえさん、また協力してくれないかって声が上がってる。山崎、正直に言えば、警察内部じゃ前回の事件、おまえの推理なしじゃ迷宮入りだったって評判なんだ。」

山崎は一瞬たじろいだ。民間人である自分に再び捜査協力の要請が来るとは想定外だった。しかし心のどこかで、あの奇怪な事件の後始末に感じていた虚しさが、新たな使命感によって埋められていくのを覚えていた。「…わかった。また厄介ごとに首を突っ込む羽目になりそうだけど。」山崎は苦笑し、しかしその眼には既に探偵の光が宿っていた。

第二章:新キャラクターの登場

静岡県警本部で行われた緊急会議。集まったのは県警鉄道事故捜査担当者数名と、JR東海の技術担当者、そして招かれた一人の男だった。30代半ば、痩身に知的な眼差しを持つその男は、警察関係者ではなかった。紹介を受け立ち上がった彼は深く一礼する。

「JR東海 静岡支社運行管理部の沢村拓也と申します。」昨夜異変を検知した当人である。彼は緊張した面持ちで続けた。「今回、弊社の線区で不可解な事象が起き、大変ご迷惑をおかけしています。技術的見地から調査に協力させていただきます。」

山崎は会議室の隅からその様子を見守っていた。民間の鉄道職員が捜査に参加するのは異例だが、それだけ鉄道会社側も深刻に受け止めている証拠だろう。すでにこの件は単なる機械トラブルではなく、何者かの意図を伴った事件の可能性が高まっていた。

続いてもう一人、異色の参加者が紹介された。「公安調査庁、あるいは警察庁公安部からお越しいただいた石黒恭介警視です。」吉村が紹介すると、入り口近くで腕を組んで立っていた精悍なスーツ姿の男がわずかに頭を下げた。石黒警視——その肩書きに山崎は少し驚いた。公安部が動いている。つまりこの事件の背後に、公共の安全を脅かすような重大な懸念があるということか。

石黒は無駄のない動きで前に出ると、低いが良く通る声で話し始めた。「皆さん、ご苦労様です。今回の事案、昨今全国的に頻発している鉄道インフラに対するサイバーテロの可能性も視野に入れています。」警視庁公安部はテロリズムや重大犯罪を専門に扱う。山崎は、事件が思いのほか大事になっていることに少し緊張を覚えた。

石黒は続ける。「実は先週、静岡鉄道で発生した幻影列車事件についても情報を得ています。黒田慎司——あの事件の容疑者は未だ行方が掴めていないとか。」鋭い視線が一瞬だけ山崎に向けられた。「そして奇しくも、それと類似した現象がJRの路線で起きた。偶然にしては出来すぎている。」彼の言葉に室内が静まり返った。

山崎は唾を飲み込んだ。黒田慎司——前回の事件の黒幕。元静岡鉄道社員にして巧妙なトリックで幻影列車事件を引き起こした犯人。最終局面で追い詰められた彼は逃走し、未だ捕まっていない。捜査線上からは消えたものの、その存在は山崎の心にずっと棘のように刺さっていたのだ。そして今、公安警察までもが黒田の名を口にしたことで、山崎の不安は現実味を帯びてきた。

会議では、昨夜のセンサー異常が詳細に報告された。沢村は用意してきた資料を配りながら説明する。「こちらが問題のログです。2時13分40秒、静岡駅-東静岡駅間の下り線センサーが軸重反応を検知しています。重量にすると、およそ200トン規模——つまり10両程度の電車が通過したのと同等です。しかし当該時間帯、当社のダイヤには該当列車は存在しません。」

「センサーの誤作動ではないのか?」県警の一人が尋ねると、沢村は首を横に振った。「このセンサーは二重系統でして、同時に誤作動を起こす確率は極めて低いです。それに、防犯カメラにもわずかですが光点が記録されていました。」そう言って提示された映像に、刑事たちは顔を見合わせた。確かに遠目ながら線路上を走る光が映っている。

「列車の残像だな。」山崎が呟くと、沢村がはっとしてこちらを見た。「おそらくシャッター速度の関係で光が線状に引き延ばされて映ったのでしょう。」山崎の解説に、沢村は感心したように小さく頷いた。石黒警視がテーブルを軽く叩いて皆の注意を引いた。「いずれにせよ、何者かが深夜に無許可で列車を走らせた可能性が高い。そしてそれは鉄道テロの予行とも取れる事態だ。」

会議の結論は、県警と公安が協力して捜査本部を設置し、JR東海も全面協力するというものだった。そして山崎仁は前回事件での知見を買われ、非公式な特別顧問として捜査に加わることとなった。

第三章:走り出した調査

捜査本部は静岡駅近くの県警鉄道警察隊事務所内に置かれ、早速捜査が開始された。山崎は沢村と共に、昨夜幻の列車が通過したとされる区間の線路沿いを調べに向かった。夏の日差しが照りつける中、二人は線路脇を歩きながら話をする。

「沢村さん、でしたね。昨夜はあなたが最初に気付かれたとか。」山崎が水筒の麦茶を飲みつつ尋ねると、沢村ははい、と頷いた。「ええ。定時巡回でログを確認していた時、たまたま異常値が目につきまして。」彼はあの時の興奮が蘇るのか、少し早口で続けた。「正直、最初は自分の目を疑いました。慌ててカメラ映像を確認したら…本当に映っていたんです、光が。」

山崎は頷き、「勇気のいる決断だったでしょう、すぐ報告されたのは。」と言った。沢村は苦笑する。「隠してもどうせ記録に残りますから…。それに、先週の静岡鉄道の事件をニュースで知っていたので、もしかしたらと思いまして。」沢村は続ける。「あの幻影列車事件、すごいトリックだったそうですね。専門家の間でも話題になっています。お恥ずかしい話ですが、私も鉄道ファンの端くれなので…山崎さんが謎を解明したと聞いて驚きました。」

「鉄道ファンというほどでは。」山崎は照れくさそうに笑った。「でも今回も似た匂いがします。昨夜のログ…私にも見せてもらえますか?」沢村は用意していたタブレット端末を差し出した。山崎はスクロールしながら、数字の羅列を追った。

すると、ある部分で彼の指が止まった。「ここ…速度が記録されていますね。時速およそ110キロ。」沢村も画面を覗き込む。「はい。旅客列車並みの速度です。」山崎は眉をひそめた。「深夜にそんな速度で走れる路線と言えば…ここから東京寄りに行けば貨物線への分岐がありますね。」貨物支線を経由すれば、一時的に本線から外れて目立たず走れる。

沢村は驚いて山崎を見る。「お詳しいんですね!」山崎はかつて取材で得た鉄道知識を総動員し、推理を巡らせた。「まだ仮説ですが…例えば、ある列車が深夜に静岡駅手前まで本線を走り、一旦貨物支線にそれて迂回し、再び本線に戻ったとしたら?」それはダイヤの盲点を突く走行。夜間の貨物線は通常閉塞扱いだが、もし不正に制御を解除できれば…。

「可能性はゼロじゃないですね。」沢村が真剣な表情になる。「ですが問題は、そんな芸当を誰がどうやって?ということです。」二人は線路脇で立ち止まり、遠くに見える信号設備に目を凝らした。蝉時雨の中、鋼鉄のレールが陽炎に揺れている。

「黒田…なのか?」山崎は小声で呟いた。あの男ならやりかねない——前回の事件では、静岡鉄道の信号システムにバックドアを仕掛け、幻の電車を走らせたのだ。JRのシステムにまで食い込んでいるとすれば、一筋縄ではいかない。山崎は汗を拭い、決意を新たにした。今回の事件、必ず真相を突き止めてみせる、と。

第四章:第二の事件発生

その日の夕方、捜査本部に緊張が走った。新たな異常発生の一報が入ったのだ。今度は東海道新幹線である。17時10分頃、三島―静岡間を走行中の下り「ひかり」号の運転士から、「前方に急ブレーキの痕跡を発見、列車非常停止」という緊急連絡が入った。幸い乗客に怪我はなかったものの、新幹線が緊急停車する事態は極めて異例だ。

山崎と沢村、そして石黒警視らも直ちに新幹線現場へ向かった。静岡県内のあるトンネル出口付近——そこで運転士は謎の光を目撃したという。「トンネルを出た直後、100メートルほど先の線路上に白い光のようなものが見えたんです。」ショックからまだ興奮冷めやらぬ様子の運転士が語った。「とっさに非常ブレーキをかけました。すると光はすっと消えて…何もなかったんです。ですが線路上には確かにブレーキ痕が残っていて…」

現場の線路を調べると、新幹線の車輪が擦れた黒い痕がくっきりと残っていた。しかし、その地点に他の列車がいた痕跡や異物は全く見当たらない。新幹線の安全システム上、前方に何かあれば自動検知するはずだが、それも作動していなかった。「運転士さんの目の錯覚という線は?」誰かが呟いたが、山崎は首を横に振った。「ブレーキ痕がそれを否定しています。何かを見たから止めた。それは確かです。」

沢村が新幹線の運行データをノートパソコンで確認していた。「山崎さん、見てください。17時10分、該当列車の前方センサーが一瞬だけ反応しています。」彼の指差す画面には、トンネル出口直後の区間で微弱な障害物検知のログが残っていた。「何かが確かにあった…。」石黒が眉をひそめた。「一体何を見せられているというんだ?」

その問いに答えられる者はいなかった。日が暮れ始めた空の下、捜査陣は押し黙ったまま、それぞれの思考を巡らせた。静岡鉄道、東海道本線、そして東海道新幹線——異なる会社・異なる規格の路線で、連鎖するかのように発生する怪現象。そしてどれも「幻影」とも言うべき不可視の列車や光を伴っている。

「模倣犯…にしては出来すぎている。」山崎は呟いた。「偶然にしては出来すぎ、だが全てが繋がっていると考えるべきでしょうね。」石黒警視が応じる。「黒田慎司——奴以外にこんな芸当ができる人物がいるだろうか?」声には苛立ちが滲んでいた。

一方、沢村は静かに言った。「もし黒田という人物が関与しているのだとすれば…彼は一体何のためにこんなことを?」誰もすぐには答えられなかった。動機——それが見えない以上、次の手も読めない。山崎はふと、新幹線の高架下に広がる市街地の明かりに目をやった。ビルの谷間に、赤いつつじの花をあしらった静岡鉄道の車両が走っていくのが見える。あの小さな私鉄から始まった怪事件が、今や日本の大動脈たる新幹線にまで及んでいる。このままではどこまで広がるか分からない——山崎の背筋に冷たいものが走った。

第五章:疑惑と不安

翌日、捜査本部ではさらに詳細な分析が行われた。沢村はJRと新幹線のシステムログを徹夜で洗い出し、山崎や石黒に報告した。「東海道本線の昨夜の件ですが…」沢村は数枚の紙を配った。「貨物支線への分岐ポイントに不正アクセスの痕跡がありました。遠隔からポイントを強制的に開通させた形跡です。」

それはつまり、何者かがシステムを乗っ取り、閉ざされていた連絡線を開けて列車を通したということだった。「やはり…。」山崎の仮説が裏付けられ、彼は息を呑んだ。「ですがアクセス元の特定には至っていません。高度な匿名化技術が使われています。」沢村は悔しそうに唇を噛んだ。

石黒は腕を組み、険しい表情で壁のホワイトボードを睨んでいた。ボードには今回の一連の出来事が時系列で書き出されている。

  • 静岡鉄道 幻影列車事件(先週)(黒田慎司による犯行。未解決)

  • 東海道本線 深夜の幻影列車(昨夜)

  • 東海道新幹線 光の怪異(昨日夕方)

「この短期間にこれだけの事件…。普通では考えられん。」石黒は吐き捨てるように言った。「黒田慎司——奴が単独でこんな芸当をやっているのか。それとも…背後に組織が?」彼の言葉に山崎も同意する。「私も黒田が一人でここまで各社のシステムに通じているとは思えません。おそらく複数人、もしくは何らかの協力者がいる。」

「前回、黒田の自宅から押収された資料には何か手掛かりは無かったのですか?」沢村が尋ねる。吉村刑事が渋い顔で答えた。「PCは徹底的に破壊されていてね、解析不能だった。紙の資料もほとんど残されておらず…強いて言えば鉄道関連の技術論文が何本かあったくらいだ。」

「技術論文…?」山崎は眉をひそめた。「どんな内容か覚えていますか?」吉村はファイルをめくり、「確か『リアルタイム輸送システムにおける時刻同期の脆弱性』とか、そんな題だったかな。」と答えた。

沢村が目を輝かせる。「それ、僕も読んだことがあります。鉄道の閉塞システムや時刻表上の盲点を突く理論的な論文でした。著者は…」彼は記憶を探る。「確か匿名の投稿で、『T.K.』という署名だったはずです。業界内でちょっとした話題になったんです。理論上はダイヤを乱さずに列車をもう一本走らせることが可能、なんて刺激的な主張で。」

「T.K...黒田慎司のイニシャルとは一致しないですね。」山崎が呟く。黒田慎司のローマ字はShinji Kuroda, S.K.となる。それに投稿時期がいつかにもよるが、筆名かもしれない。「いずれにしても、その論文の内容が今回の手口に関係している可能性は高そうです。」石黒が結論付けた。「論文を洗い直す必要がある。沢村君、その論文コピーは手に入るかね?」

「はい、社内ライブラリにあると思いますので取り寄せます。」沢村が席を立った。

その時、別室で電話を取っていた県警の刑事が血相を変えて駆け込んできた。「大変だ!今朝未明、清水港で貨物列車が一編成、行方不明になったとの通報があった!」場がどよめいた。「行方不明?」吉村が聞き返す。

「JR貨物からの連絡だ。清水港のコンテナ積み出し用の引き込み線で待機していた貨物列車が、予定時刻になっても姿を消していると。車両はその引き込み線から一歩も出ていないはずなのに、まるで消えちまったって話だ。」刑事の説明に一同は言葉を失った。

「貨物列車が…消えた?」沢村が愕然とする。「幻影列車が、現実に列車を消し始めたというのか?」山崎も信じられない思いだった。清水港は静岡市清水区にある主要港湾で、貨物支線が接続している。そこからコンテナ貨物を運ぶ列車が忽然と消えたという。

石黒警視は即座に指示を出した。「清水港へ急行する。山崎さん、吉村刑事、沢村君、同行を。」事態は刻一刻と深刻さを増していた。

第六章:姿を消した貨物列車

清水港の貨物ヤードに到着した時、朝の空気はまだひんやりとしていた。構内にはパトカーとJR貨物社員たちが集まり、騒然としている。構内責任者の話によれば、午前4時過ぎ、10両編成のコンテナ貨物列車が出発待機中に忽然と姿を消したという。「最後に確認されたのは3時50分頃、運転士がモニターで異常なしを確認しています。その10分後にはもう影も形もなかった…。」

「運転士は?」石黒が問うと、担当者は顔を曇らせた。「運転士は運転準備のため、一旦機関車を離れて休憩所にいました。その間の出来事で…防犯カメラにも列車が消える様子は映っていません。」敷地の出入口は警備員が常駐し、大型車両が通れば気付くはずだが、それらしき形跡もないらしい。

「まるで、大地に飲み込まれたようだな。」吉村が呟いた。無人の引き込み線に残されたのは、貨物列車の重みで僅かに沈んだバラスト(砕石)の跡だけだった。レールの上には確かに数十分前まで何百トンもの鉄の塊が乗っていたのだと物語っている。しかし肝心の列車本体は消えている。

沢村は線路脇にかがみ込み、何かを探していた。「…ここ、レールに新しい擦過傷があります。」指差す先、レールの側面に金属がこすれた銀色の跡が延びていた。「脱線の痕跡では?」山崎が尋ねると、沢村は首を振る。「いえ、レールから飛び出したわけではなく、何か側面から強い力が加わったような…。」

彼はその傷の延長線上を辿り、ヤードの端へと歩いていった。皆も後に続く。すると、ヤードの端にある古い分岐器付近で傷跡が途切れていた。そこから先は、草むした使われていない引き込み線が伸びている。「この先は?」石黒が貨物社員に尋ねると、「旧軍用線跡です。戦時中に作られたトンネルがありまして、今は封鎖されています。」という答えが返ってきた。

「封鎖…鍵は?」吉村が訊くと、社員は「通常は厳重に施錠していますが…確認します」と走って行った。すぐに無線で報告が入る。「…鍵が開いています!誰かがトンネルに侵入した可能性があります!」捜査員たちに緊張が走った。

「行ってみましょう。」石黒の号令一下、懐中電灯を手に一行は苔むした古いトンネルへと踏み入った。ひんやりと湿った空気とかび臭い匂い。懐中電灯の光の輪が暗闇の中を泳ぐ。レールは朽ちかけていたが、錆の剥がれた新しい車輪痕が続いているのが確認できた。「間違いない…ここを通ったんだ。」沢村が呟いた。

トンネルの先は山を貫き、市街地の外れへ抜けていた。出口付近に差し掛かった時、沢村が足を止めた。「待ってください、これ…。」照らした先には、何やら小型の装置がレール脇に設置されていた。配線が何本も飛び出し、緑色のランプが点滅している。「爆弾か!?」吉村が身構えたが、沢村は「いえ…信号妨害装置のようです。」と冷静に解析する。「ここに置けば、貨物列車が別線路に入ったことを検知されないよう細工できる…そんな装置に見えます。」

「ということは、誰かが意図的に貨物列車をこのトンネルに誘導した…?」山崎が問う。沢村が頷く。「おそらく、深夜に密かに旧軍用線を復旧させ、列車をこちらに誘導して姿をくらませたのでしょう。」一行はトンネルを抜け、外へ出た。

そこは木々に囲まれ、人目につかない廃線跡だった。なんと、トンネルを出た先に短い引き込み線が残っており、その先端に巨大な闇が口を開けていた。よく見ると、それは地下へ続くスロープのようだった。「地下施設…?」石黒がライトで照らす。古いコンクリートで補強された地下空間への入口が現れた。おそらく旧軍の地下倉庫か避難壕の跡だ。

「中に入った可能性がありますね。」山崎が言う。「行ってみましょう。」石黒が率先して降りていく。地下通路は意外なほど広く、列車ごと収容できるスペースがあるようだった。そして奥へ進むと、巨大な空間に出た。一行の懐中電灯が照らし出したものに皆息を呑む。

そこには、今朝消えたはずの貨物列車が停まっていたのだ。コンテナを満載した車両が闇にひっそりと横たわっている。「見つけた…!」吉村が叫びそうになるのを石黒が制した。周囲を警戒しながら近づく。操車場のような平坦な空間に、列車が丸ごと隠されている光景は異様だった。

「人の気配はないな。」石黒が低く言う。足元にはケーブルや機材の残骸が散乱している。沢村が壁際の機器を指差した。「見てください、これ…。移動式の信号制御装置です。ここで列車を遠隔操作して停止させたんだ。」どうやらこの地下空間で貨物列車を制御下に置き、隠したらしい。

「だが何のために?」吉村が声を潜めた。「盗難にしては列車ごと隠すなんて大掛かりすぎる。」コンテナの中身が気になるところだが、それより優先すべきことがある。石黒は無線で応援を呼びつつ言った。「犯人はまだ近くにいる可能性が高い。十分警戒を。」一行は手分けして周囲を探り始めた。

その時——静かな地下空間に、唐突にスピーカーのノイズが響いた。「……御苦労だったね。」低くしわがれた声が、空間全体に反響した。山崎ははっと顔を上げ、その声に聞き覚えがあることに気付いた。「黒田!」思わず叫ぶ。そう、間違いない。これは黒田慎司の声だ。

「山崎君、また会ったね。」嘲笑するかのような口調で声は続ける。「いや、姿は見えないが…君たちがここに辿り着くのを待っていたよ。」石黒が怒鳴った。「黒田慎司か!姿を現せ、逃げられんぞ!」しかし黒田は意に介さない様子で話を続ける。「逃げる?はは、私は初めからここには居ないさ。」

山崎は周囲を見回した。スピーカーから流れているということは、どこかにカメラかマイクが仕掛けてあるのだろう。「これは録音か…?」沢村が呟く。しかし黒田の声はそれに応じるように答えた。「録音ではないさ。リアルタイムで君たちの様子を見せてもらっている。そこにあるカメラでね。」おそらくどこか遠隔地から監視しているのだ。

「黒田、お前の目的は何だ!」山崎が叫ぶ。「こんな真似をして何を企んでいる!」しばし沈黙があった。次に聞こえた声は、低い笑い声だった。「目的…か。山崎君、君にはわからないだろうな。私はね、時間を手に入れたかったのさ。」

時間を手に入れる——その不可解な言葉に、一同は顔を見合わせた。黒田は構わず話を続ける。「人は皆、時間に縛られて生きている。時刻表、締め切り、寿命さえも。だがもし、自分だけがその束縛から逃れ、自在に時間を操れたらどうなる?」声は狂気を孕んでいた。「私はそれを可能にする術を見つけた。時間の檻から抜け出し、この国の誰も知らない自由を得る…。」

「馬鹿な…幻想だ!」石黒が吐き捨てた。「いいや、現にこうして列車を消し、人々を翻弄している。」黒田は嘲るように言った。「静岡鉄道で試し、JRで応用し、そして今——私は完成させたのだよ。」石黒は無線で応援に急行を督促しながら、黒田の言葉に耳を澄ました。時間を操る?何を意味している?

「だが君たちはここにたどり着いた。賞賛に値するよ。しかし、それもここまでだ。」黒田の声が急に低く冷たくなった。「もうすぐ列車が動き出す。君たちが気づいたときには、何が起きたのか理解できまい。」嫌な予感がして、山崎は沢村に目で合図した。沢村も気づいたのか、ノートPCを開き周囲の機器に接続を試みている。

「山崎さん、貨物列車のリモート制御プログラムが動作しています!誰かが遠隔で…」沢村が叫ぶのと同時に、轟音が地下空間に響いた。目の前の貨物列車がゆっくりと動き始めたのだ。コンテナの列が闇の中へゆっくりと進んでいく。

「止めろ!」吉村が追おうとするが、石黒が制した。「待て、罠かもしれん!」しかし山崎は咄嗟に判断した。「列車を逃せば奴の思うつぼだ!」そして動き出した先頭機関車に向かって駆け出した。沢村も意を決したように後を追う。「行きましょう!」

第七章:地下空間の攻防

ゆっくりと加速する貨物列車の最後尾に、山崎はなんとか飛び乗った。沢村も間一髪、手を伸ばして引き上げられた。「行きました!山崎さん!」残された石黒と吉村も、構外から迂回して出入口で迎えるべく動き出した。地下トンネルの中、貨物列車は闇を裂いて進む。

「この線路、一体どこに繋がっているんだ…?」沢村が非常灯の薄明かりの中で辺りを見回した。旧軍の地下輸送路、どこまで続いているのか検討もつかない。列車は次第に速度を上げていく。遠隔操作されているとはいえ、危険な賭けだ。「沢村さん、運転室に行けますか!?」山崎が叫ぶ。列車を止めるには機関車のブレーキを使うしかない。

二人は連結部を慎重に渡りながら機関車へと進んだ。コンテナの隙間から吹き付ける風が轟音となり、会話もままならない。暗闇のトンネル内を列車が高速で駆け抜けるたび、壁との距離が一瞬で過ぎ去っていく。足元がすくむ思いだった。

先頭の機関車に辿り着いたとき、沢村が叫んだ。「ロックされてます!ドアが開かない!」運転室のドアは電子的にロックされているようだった。内部に犯人はいないはずだが、遠隔で締め出しを図っているらしい。「くそっ!」山崎は窓から中を覗き込もうとするが、高い位置にあって難しい。

そのとき、列車が大きく揺れた。減速したかと思うと急カーブに差し掛かったのだ。バランスを崩した沢村がコンテナの縁から滑り落ちかけ、「わっ」と声を上げる。山崎はとっさに沢村の腕を掴んだ。「しっかり!」冷や汗が背中を伝う。

カーブを抜け再び直線に入ると、前方に一筋の光が見え始めた。出口だ。「このまま外に出るつもりか…!」山崎は歯噛みする。外に出れば再び広大な線路網。列車を見失えばもう追跡は困難だ。どうにかして止めなければ。

「非常ブレーキをかけられれば…」沢村が呻くように言った。「でも運転室に入れなければ…」思案する山崎の目に、機関車横の小さな箱が映った。非常用の機関停止スイッチかもしれない。だが走行中にそれを操作するのは命がけだ。

「僕が行きます。」沢村が決然と言った。「あなたはここでつかまっていてください。」そう言うと、彼は機関車側面を伝って先頭部へにじり出た。「沢村さん、無理だ!」山崎が止める間もなく、沢村は身を乗り出してボックスの蓋をこじ開けようとしている。

突如、耳障りな警報音が響き渡った。遠隔操作のプログラムが何かを感知したのか、機関車がさらに速度を上げ始めたのだ。壁面が次々と後方へ飛び去り、風圧が二人を襲う。沢村の体があおられ、片手が外れた。「危ない!」山崎は精一杯手を伸ばし沢村の服を掴んだ。

「もう少し…!」沢村は残る手で必死に蓋をこじ開けた。ぱかりと開いた箱の中には大きな赤いレバーが見える。「それだ!」山崎が叫ぶ。「引いてください!」沢村は体を乗り出し、そのレバーに手をかけた。瞬間、強烈な遠心力——列車が出口へ飛び出し、鋭く左に曲がったのだ。沢村の身体が浮き上がる。

「うおおっ!」気合いとともに、沢村は渾身の力でレバーを引いた。

ブツン——電源が落ちるような感覚とともに、機関車のエンジン音が急速に低下した。動力が絶たれ、貨物列車は惰性でしばらく進むと、やがて軋むような音を立てて減速していく。トンネルを抜けて露わになった朝の光景の中で、ついに列車は完全に停止した。

山崎は安堵の息を吐き、今にも崩れ落ちそうな沢村の腕を力いっぱい引き上げた。二人は線路脇の草地に飛び降りると、その場に座り込んだ。朝日が昇り、照りつける光が眩しい。遠くにサイレンの音が聞こえ、パトカーが駆けつけてくるのが見えた。

第八章:暴かれた陰謀

貨物列車の暴走を辛くも食い止めた山崎と沢村は、石黒警視らと合流し、捜査本部へ戻った。そこで待っていたのは、黒田逮捕の報ではなかった。奴はなおも姿を現さず、遠隔から計画を実行したのである。だが、地下で見つけた証拠品の数々——移動式制御装置や妨害装置、そして一連のログデータ——は黒田の関与を如実に示していた。

石黒は憤然として拳を握り締めた。「黒田め、一体どこから…!」公安部の威信にかけても、黒田の所在を突き止めると息巻いている。だが山崎は、黒田の目的がまだ完全には掴めずにいた。「時間を手に入れる」とは一体どういう意味なのか。

沢村は疲れた顔を上げて言った。「黒田は、この国の鉄道網を実験場にしていたのではないでしょうか。時間の檻から逃れる…つまり、ダイヤという縛りを超越する技術を試していた。」山崎も続ける。「おそらく彼は、複数の鉄道会社に跨がるシステムの脆弱性を突いて、列車を自由に出現・消失させる“タイムトリック”を完成させたのでしょう。」

吉村が首を振る。「にわかには信じがたい話だが…実際起きたことだ。」静岡鉄道、JR東海道線、新幹線、貨物——全ての路線で黒田は思いのままに列車を動かし、幻影を生み出した。そのために彼は長年準備をしてきたのだろう。論文「時刻同期の脆弱性」の匿名投稿、各社のシステムに潜むバックドア、旧軍用線と地下施設の利用…。計画性の高さに一同は戦慄した。

「黒田の背後に組織は確認できませんでしたが…」石黒が捜査結果を報告する。「どうやら彼はかつて某大学の鉄道システム研究者と交流があり、その中で過激思想に傾倒していったらしい。鉄道を支配する者が時を支配する——馬鹿げた狂信だが、本人は至って本気だったようだ。」

その言葉に、山崎はふと想像した。黒田慎司という男の狂気の背景を。彼は鉄道運行システムの天才だったのだろう。しかし、現実の社会ではその才能を正当に評価されなかったか、あるいは事故か何かで人生を狂わされたのかもしれない。皮肉にも彼の生んだ「幻影列車」という発想は、人々を恐怖させる犯罪に費やされた。

「残る問題は…黒田をどう捕まえるかですね。」沢村が言う。「ええ。必ず捕まえましょう。奴がまだこの国の何処かで次の機会を伺っているかと思うと…放っておけません。」山崎が強く頷いた。

その時、石黒の携帯電話が振動した。受けた石黒が短く返事をし、皆に向き直る。「黒田の居場所につながる情報が入った。昨夜、静岡県内の高速道路料金所カメラに黒田の車らしき映像が映っていたらしい。これから追跡する。」張り詰めた空気が一気に広がった。

「行きましょう。」山崎が立ち上がる。「ええ、終わらせましょう。」沢村も頷いた。吉村も拳を握る。「ああ、幻影の幕を閉じる時だ。」

第九章:終局への疾走

夕暮れ迫る中、捜査チームは複数のパトカーで高速道路を西へと急行した。黒田の車は県境を越え愛知方面へ向かったとの情報だ。石黒の無線が飛ぶ。「目標車両は浜松IC付近、速度120キロ以上で走行中。各車、慎重に追え。」山崎たちの乗る車もサイレンを鳴らし、追跡に加わった。

「黒田はどこへ行く気だ…?」沢村がシートベルトを握りしめながら呟く。「このまま逃げ通せると思っているのか。」山崎も前方を睨む。やがて、前方に黒いセダンが視界に入った。「あれか!」吉村が指差す。

石黒の車両が先行し、拡声器で停止命令を出す。しかし黒田の車はさらに加速し、追手を振り切ろうと蛇行し始めた。「危ない!」前方のトラックを強引に追い越した黒田車に続き、捜査車両もハンドルを切る。高速道路上での危険なカーチェイスとなった。

「前方に検問所を設けています!」無線で応援隊の声。数キロ先で待ち構える手筈だ。黒田の車はそれを察知したのか、突然側道へそれ、高架下の一般道へと降りていった。「逃がすか!」捜査車両も追随する。

市街地に入り、黒田の車は信号無視を繰り返しながら走る。車の群れを縫い、クラクションの嵐が起こった。「やつも必死だ…!」吉村が歯ぎしりする。やがて、見覚えのある景色が山崎の目に飛び込んできた。「静岡鉄道…?」道路脇に静岡鉄道の高架橋が見える。いつの間にか彼らは静岡市街地に戻っていたのだ。

「黒田は静岡に舞い戻る気か?」沢村が驚く。その時、前方の黒田車が急に路地に飛び込んだ。細い道——行き止まりだ。「袋小路よ!」吉村が叫ぶ。パトカーが出口を塞ぎ、黒田の車はついに停止した。周囲を警官隊が取り囲む。「降りろ、黒田!」石黒が拳銃を構え叫ぶ。

ドアが開き、一人の男がゆっくりと降りてきた。薄暗がりの中、その顔が街灯に照らされる。中年に差し掛かった細身の男、頬は痩け鋭い目つき——黒田慎司本人だった。観念したのか両手を上げている。しかしその唇には不敵な笑みが浮かんでいた。

「逃げ場はないぞ。」石黒がにじり寄る。黒田は笑いを含んだ声で答えた。「逃げる?私は最初からここで幕を引くつもりだったのさ。」山崎が一歩前に出た。「黒田…!」憎しみと安堵、様々な感情が入り混じる。

黒田は山崎に視線を向けた。「やあ山崎君。また君に負けてしまったようだ。」その態度は何処か清々しささえ感じさせた。「だが、君には一つも理解できまいよ。私が見た景色は。」逮捕の直前だというのに、黒田の口調は落ち着いている。

「語りたければ署でゆっくり聞こう。」石黒が手錠を取り出し近づいた瞬間——黒田は素早く腰に手をやり、小型のリモコンのようなものを取り出した。「近寄るな!」警官が一斉に構える。「撃つな!」石黒が制する。黒田はリモコンを握りしめたまま静かに笑った。「最後に私の時間を止めるのは私自身というわけだ。」

そう言って彼はボタンを押した。瞬間、黒田の足元の車が爆発的な炎に包まれた。「しまっ——」石黒が叫ぶ間もなく、衝撃波が路地を満たし、轟音が夜空に響いた。山崎は閃光に目を焼かれ、爆風で地面に叩きつけられた。

耳鳴りがする。立ち込める煙の中、必死で顔を上げると、黒田の車は炎上し、破片が散乱していた。黒田の姿は見えない。警官たちが慎重に近づき、そして首を振った。「…黒田は自爆したようです。」石黒が苦々しく呟いた。

山崎は立ち上がり、呆然と燃え盛る炎を見つめた。狂気に満ちた男の最期は、あまりにも突然で虚しいものだった。沢村が肩を貸してくれ、山崎はようやく我に返った。「終わった…のか。」沢村がぽつりと言う。「ええ。」山崎は力なく頷いた。

燃え上がる火を背景に、夏の夜風が静かに吹き抜けていった。

エピローグ

それから一週間後。静岡市内の喫茶店で、山崎と沢村、そして吉村刑事が席を囲んでいた。テレビのニュースでは、一連の「幻影列車事件」の真相と、黒田慎司が逮捕寸前に死亡したことが報じられている。

「皮肉なもんだな。」吉村がコーヒーをすすりながら言った。「結局黒田は自ら命を絶ち、真意の全ては闇の中か。」沢村は静かに首を振る。「いえ、彼の企てたタイムトリックの概要は解明されました。彼の残した装置やプログラムから再現できましたし、それは各鉄道会社に共有され、対策が進められています。」

山崎も頷いた。「ああ。もう同じ手は使えないでしょう。黒田が求めた“時間の支配”も、彼一人の妄想に終わった。」そう言いながらも、山崎の胸には一抹の寂しさがあった。あれほどの情熱と才能が、狂気に走らなければ社会に有益な発明をもたらしたかもしれないのに…。

「山崎さん。」沢村が口を開いた。「今回のことで、僕は貴重な経験をしました。あなたの推理力と行動力には本当に驚かされました。もしよかったらこれからも…その…お力を貸していただけませんか。鉄道の安全のために。」真剣な眼差しで頭を下げる。

「勘弁してくれよ。」山崎は苦笑した。「私はただのフリーの物書きさ。そんな大それた役目は向かないよ。」沢村は恐縮して頭を下げた。「失礼しました…。ですが、また何かあれば是非…。」吉村がニヤリとして口を挟む。「へっ、そういうこと言ってると、またすぐにでも事件が起きるかもな?」冗談めかして笑う。

「それはご免だね。」山崎は肩をすくめた。「しばらくは平穏な日常に戻りたいものだ。」窓の外では、いつもと変わらぬ静岡の街が動いている。定刻通りに走る電車、人々の規則正しい生活。その日常の尊さを、山崎は改めて嚙みしめていた。

「ところで沢村さん。」山崎はふと思い出したように尋ねた。「あの黒田が使った論文の署名、T.K.というのが気になってね。何かわかりましたか?」沢村は「ああ」と頷いた。「実は、投稿者が判明しました。某大学の教授でした。田嶋邦夫——頭文字をとってT.K.です。黒田とはかつて師弟関係にあった人物で、既に故人ですが…黒田は彼の思想に共鳴し、実践に及んだようです。」

「そうでしたか…。黒田だけの狂気ではなかったんですね。」山崎は空になったカップを見つめた。「悲しいことです。でも、この事件で救われた未来もある。そう信じたいですね。」沢村が穏やかに笑む。吉村も「まったくだ」と頷いた。

三人は店を出て、それぞれの帰路についた。山崎は駅へ向かう道すがら、ふと上空を新幹線が走り抜けるのを見上げた。夕焼けの空に白いボディが一瞬シルエットを描く。あの高速でさえ、時の流れには逆らえない。ただひたすらにレールの上を前へ進むのみだ。

「時間を手に入れる、か。」山崎は呟いた。「結局、誰も時間そのものを支配することなんてできないんだ。」だが、と彼は思う。人は誰しも限られた時間の中で精一杯生きるからこそ、美しい「今」がある。黒田はそれを歪んだ形で追い求め、そして破滅したのだろう。

駅に着くと、タイミングよくホームに電車が滑り込んできた。山崎は足を踏み入れ、ドアが閉まる。発車のベルが鳴り、電車が動き出した。車窓に流れる静岡の街並みを眺めながら、山崎は静かに目を閉じた。

再び穏やかな日常が戻った。しかし、あの幻影列車の記憶は消えない。あの不思議な事件が残した教訓を胸に、山崎仁は新たな未来へと走り出す電車に身を預けたのだった。

 
 
 

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