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静岡駅のツリー、落ちた飾りは拾へば光る

 幹夫青年が静岡駅のコンコースへ出て来たとき、空気は乾いてゐた。乾いてゐるのに、どこか甘い匂ひが混じる。ケーキの箱を抱へた女が行き、チキンの紙袋を提げた男が急ぎ、売店の前では珈琲の湯気が立つてゐる。 世間は今夜、クリスマスといふ名の用事で忙しいらしい。忙しいといふより、忙しい顔をしてゐる。忙しい顔は、しばしば楽しさうに見える。

 幹夫は、その楽しさうに見える顔の列に、自分の顔を混ぜるのが下手だつた。 混ぜるのが下手だから、いつも少し斜めに立つ。斜めに立つと、何だか分別があるやうに見えるが、実際はただ、照れてゐるだけである。照れを照れと認めるのは、男の癖に案外むづかしい。

 コンコースの真中に、大きなツリーが立つてゐた。 緑の枝に細い灯が絡み、赤や金の球がぶらさがり、先端の星が、駅の白い灯の下で妙に真面目に光つてゐる。雪の降らぬ町が、雪の代りに灯を降らせてゐるやうでもある。 ツリーの前には、写真を撮る人がひと固まり出来てゐた。スマホの画面が並び、それぞれの画面の中で同じ星がまたたく。便利な時代である。便利なものは、時々、人の心まで便利にしてしまふ。

 幹夫はツリーの前を通り過ぎようとした。 通り過ぎるのが得意だ。 見たいのに見ないふりをする。混ざりたいのに混ざらないふりをする。――さういふふりは、生活の中で妙に上手くなる。上手くなるほど性質が悪い。

 ところが、そのとき、乾いた音がした。

 からん。

 何かが床へ落ち、ころころと転がつた。 それは小さな飾りであつた。赤いリボンのついた鈴のやうなもの。ツリーの枝から外れたのか、誰かが触つた拍子に落ちたのか、事情はどうでもいい。とにかく鈴は床の上で行き場を失ひ、駅の人波に踏まれさうになつてゐた。

 幹夫の足が、勝手に止まつた。 止まると、いつもの裁判が胸の奥で開廷しかける。 ――拾へば面倒が増える。 ――拾はなければ胸がうるさい。 ――そもそも、誰のものか分からない。 くだらない裁判だが、くだらないほど執念深い。

 だが、鈴がもう一度ころんと転がり、光をひとつ拾つて、きらりと反射した。 そのきらりが、幹夫の裁判を乱暴に終はらせた。 幹夫は屈んで、鈴を拾つた。拾ふのは早い。考へるより手の方が早いとき、人間は少しだけ前向きだ。

 顔を上げると、ツリーの前で小さな子どもが、泣きさうな顔をしてゐた。母親らしい女が、困つたやうに周りを見回してゐる。子どもはツリーの飾りを指さし、「さつきまであつた」と言ひたげに口を尖らせてゐる。 落ちた飾りが、あの子の「さつきまで」だつたらしい。

 幹夫は、一歩寄つた。 寄るとき、言葉が要る。 言葉が要るとき、幹夫はいつも遅れる。遅れると、また面倒になる。 だが今日は、駅の空気が少し祝ひの顔をしてゐる。祝ひの顔をした空気は、こちらの失敗をあまり咎めない。

 幹夫は、先に言つた。

「こんばんは」

 母親が振り向いた。驚いた顔が一瞬、すぐに安心の顔へ変はる。人間の顔が変はる瞬間は、いつ見てもきれいだ。

「こんばんは……」

「これ、落ちました? 鈴みたいな飾り」

 幹夫が手のひらを開くと、子どもの目がぱつと明るくなつた。 明るくなつた目は、ツリーの灯より早い。灯は飾りだが、目の明るさは生活だ。

「あっ、それ! それ!」

 子どもが叫び、母親が思はず笑つた。

「よかった……! ありがとうございます。すみません、気づかなくて」

 すみません、と言はれると、幹夫はいつも逃げたくなる。重たい感謝は、こちらの胸を固くするからだ。 そこで幹夫は、挨拶で返した。挨拶は、重たさを少し軽くする。

「どういたしまして」

 そして――自分でも驚くほど、するりと言つてしまつた。

「……メリークリスマス」

 言つてから、幹夫は少し照れた。 照れたが、照れは悪くない。照れは人間がまだ柔らかい証拠だ。柔らかいと、次の一歩が出る。

 母親は一瞬目を丸くして、それから、同じやうに軽く言つた。

「メリークリスマス。ほんと、助かりました」

 その言ひ方がよかつた。 メリークリスマスが、立派な掛け声ではなく、助かりましたに添へられてゐる。添へる程度の祝ひなら、幹夫にも持てる。

 子どもは鈴を握りしめたまま、ツリーを見上げた。 見上げる顔が、さつきまでの泣きさうな顔とは違ふ。 幹夫は、その変はり目を見て、胸の奥がふつとほどけるのを感じた。ほどけると、いつもの裁判の書類が、少しぐにやりと湿る。湿れば、裁判は進みにくい。湿るのは悪くない。

 母親が、ツリーの係員らしい駅員を呼び止めた。駅員はサンタ帽などかぶつてゐないが、名札の下の顔がどこか柔らかい。

「すみません、これ……落ちちゃって。付け直せますか」

 駅員は鈴を見て頷いた。

「はい、大丈夫です。……あ、拾ってくださったんですね。ありがとうございます」

 幹夫はまた、逃げの「いえ」を言ひかけて、やめた。 やめて、ひとつだけ言つた。

「こんばんは」

 駅員が笑つた。

「こんばんは。……メリークリスマスですね」

 駅員の方から言はれると、幹夫の照れは少し軽くなつた。言葉は、向うから来ると受け取りやすい。

 駅員は脚立を持ち出し、鈴を枝へ戻した。 鈴は枝にぶらさがり、また灯を拾つて光つた。落ちたときより、少しだけ光が落ち着いて見えるのは気のせゐか。落ちても拾へば光る――そんなことを、鈴が顔をせずに言つてゐるやうだ。

 母親が子どもに囁いた。

「お兄さんに、ありがとう言へた?」

 子どもは幹夫を見て、少し恥づかしさうに、けれどはつきり言つた。

「ありがとう」

 幹夫は、その「ありがとう」が、鈴より小さく鳴つて、鈴より深く胸へ入るのを感じた。 人間は、案外、こういふ小さな音で救はれる。太鼓ほどの大音量はいらぬ。十円玉の「ちん」や、拍手の一拍や、子どもの「ありがとう」――その程度で十分だ。

 幹夫はツリーの前を離れ、売店の方へ歩いた。 ホットの茶を買ふ。クリスマスに茶といふのは、洒落てゐないが、静岡ではそれがいちばん落ち着く。紙コップの湯気が立つと、駅の白い灯が一寸だけ柔らかくなる。湯気は、景色を少しだけ人間寄りにする。

 幹夫はベンチに腰を下ろし、湯気を見ながら思つた。 祝ひの日に「楽しい顔」をするのが苦手でもいい。 楽しい顔をする前に、拾へるものを拾へばいい。拾つたら、返せばいい。返せたら、ひとこと言へばいい。 ひとことが言へれば、あとは無理に立派にならなくて済む。

 幹夫はスマホを取り出した。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。クリスマスの夜は、巣を作るより、灯りをほどく夜だ。

 ――「メリークリスマス。駅のツリーで飾りが落ちて、拾って返した。小さいことだけど、気分が明るい。」

 送信すると、胸の内がすとんと静かになつた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、今日はそれで十分だ。言葉を腐らせずに出せたことが、今夜の自分の贈り物になつた。

 幹夫青年は静岡駅のツリーの前で、立派な感動をしたわけではない。 ただ、落ちた鈴を拾ひ、返し、言へてしまつた「メリークリスマス」をひとつ持ち帰つただけである。 だが、その一つがあると、帰り道の白い灯も、少しだけ叱らない顔に見えた。 落ちた飾りは、拾へば光る。――その当たり前を、幹夫は今夜、やつと自分のものにしたのである。

 
 
 

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