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預かりもの

 朝は、いつも同じ顔をしているようで、少しずつ違う。 違うことに気づくのは、目じゃなく胸のほうだ。布団の重さとか、障子の白さとか、台所から届く湯の匂いとか――そういうものの並びが、今日はどこか、静かすぎた。

 幹夫は目を開けてすぐ、昨夜のことを思い出した。 新聞紙の裏に書いた「父」。 折り畳んで、仏壇の前の小皿の横へ置いた、自分の小さな四角。

 置いた、というより、置いてしまった、に近い。 置いた瞬間から、胸の奥に小さな警報が居座ったままだった。

 幹夫は布団を抜け出して、足の裏で畳の冷たさを確かめながら、仏壇のほうへ行った。 音を立てないように、呼吸も小さくする。家の静けさを壊すと、なにか大事なものが落ちる気がした。

 仏壇の前にしゃがんだ。 小皿は、そこにあった。角砂糖の白い欠片も、まだ少し。線香立ての灰は、昨日のまま平らで、夜の形を残している。

 ――紙が、ない。

 幹夫の胸の奥で、警報が尖った。 尖ると、頭が真っ白になる。白くなるのに、視界だけは妙に細かくなる。小皿の縁の欠け。灰に混じった黒い粒。砂糖の角の崩れ。

 幹夫は小皿の下を覗いた。 仏壇の台をそっと指でなぞった。 畳の上も見た。 折り畳んだ四角は、どこにもいない。

 しまった、と幹夫は思った。 怒られた、じゃない。 見つかった、でもない。 なくなった、という感じがいちばん近かった。

 砂糖が減るのと同じ種類の怖さが、喉の奥に来た。 なくなるのは、音も匂いも立てない。気づいたときにはもう、ない顔をしている。

「……何してる」

 背中で、母の声がした。 低い声。けれど刃みたいに痛い低さじゃない。朝の、まだ感情が固まっていない低さ。

 幹夫は振り返れなかった。振り返ったら、仏壇の前で立ち尽くしている自分が見られてしまう。見られたら、言葉が必要になる。言葉は、今の幹夫には重すぎた。

 母が近づいてきて、幹夫の横にしゃがんだ。 その手に、紙があった。

 折り畳まれた小さな四角。 幹夫が昨夜、丁寧に折った形。 母の指は、それを潰さないように持っていた。卵みたいに、壊れたら戻らないものとして。

「これ」

 母はそれだけ言って、幹夫の顔を見た。 見方が、探る見方じゃない。確かめる見方でもない。 ――見届ける見方だった。

 幹夫は、喉の奥で息を引っかけた。 言い訳が浮かばない。言い訳がいらないことをしてしまったのに、体は勝手に言い訳を探して、見つからないまま熱くなる。

「……ぼく」

 幹夫は、ようやくそれだけ言った。 声が紙みたいに薄かった。

 母は、紙を開こうとして、途中で止めた。 止めたのは、ためらいだ。 紙を広げるのは、声を広げるのと似ている。広げると、風に持っていかれることがある。

 母は息をひとつ整えてから、紙をそっと広げた。 新聞紙の裏の白。そこに、歪んだ黒がある。

 「父」。

 幹夫の書いた「父」は、まっすぐじゃなくて、少し転びそうだった。 それでも、転ばないふりをして、紙の上に座っている。

 母の指が、その字の端をなぞった。 なぞると、鉛筆の黒が少しだけ指先に移った。 母はそれを拭わなかった。

 母の喉が、ほんの少し動いた。 駅の紙の前で見た動きと同じだ。 幹夫は、その喉の動きが痛くて、目を伏せた。

「……難しいの、よう書いたね」

 母は小さく言った。 褒める声でも叱る声でもなく、ただ、事実を置く声だった。 事実を置かれると、幹夫の胸の奥が少しだけ落ち着いた。落ち着くと、今度は涙が出そうになる。涙は、落ち着いたところから出てくる。

 母は紙を畳み直した。 昨夜の折り目に沿って。 幹夫より丁寧に。丁寧すぎて、折り目が痛そうなくらい。

「仏さんのとこに置くならな」

 母は言いかけて、言葉を一度折り畳んだ。 折り畳むときの沈黙が、幹夫には聞こえた。 声にならない声が、そこで鳴った気がした。

「……母ちゃんが、預かる」

 母はそう言った。

 預かる。 その言葉が、幹夫の胸の奥へすとんと落ちた。 「しまう」とも「隠す」とも違う。なくすでも、捨てるでもない。 預かる、は――また返せる言葉だ。返す日がある言葉だ。

 幹夫は、怖くて聞いてしまった。

「……だめ?」

 母は首を横に振った。

「だめじゃない。……大事すぎるで」

 大事すぎる。 大事すぎるものは、そこらに置けない。 置いたら、誰かが踏む。風が持っていく。自分が自分で壊す。 幹夫はそれを、砂糖で知っている。鉛筆で知っている。紙で知っている。

 母は立ち上がり、押し入れのほうへ行った。 箱を出す音はしなかった。けれど幹夫には分かった。母が「預け場所」へ向かっているのが、背中で分かった。

 幹夫はその場に残った。 仏壇の前の小皿と、白い砂糖の欠片と、灰。

 灰の中には、昨日の線香の折れた先が短く残っていた。 幹夫はその短さを見て、胸の奥がまたきゅっとなった。短いものは、すぐ終わる。終わるものほど、長く見ていたくなる。

 母が戻ってきた。 手は空っぽだった。紙の四角は、もう母の中にしまわれてしまったみたいに見えた。

 母は仏壇の前に座り、線香を一本取った。 火をつける前に、幹夫のほうを見た。

「幹夫」

「なに」

「線香、持てる?」

 持てる、という言い方が、幹夫の胸を少しだけ温めた。 できるかどうかを聞かれるのは、信じられているのと似ている。

 幹夫は頷いた。頷きすぎて首が痛くなった。

 母は火を借りて、線香の先にそっと近づけた。 赤い点が生まれる。小さく、でも確かな赤。 赤は怖い色のはずなのに、線香の赤は怖くない。怖くない赤は、家の中にしかない。

「これ、熱いで。落とすなよ」

 母の声は、いつもより少し優しかった。 優しい声は、幹夫を急がせない。

 幹夫は線香を受け取って、息を止めた。 白い煙が、細く上がる。 煙は、ふわふわしているのに、ちゃんと上へ行く。迷わない。線路みたいに一本じゃないのに、迷わない。

 幹夫は、煙が天井に届くのを見た。 届く、ということが、こんなに頼もしい。

 母が小さく手を合わせた。 幹夫も真似をした。祈り方は分からない。分からないから、手を合わせる形だけを借りた。

 母は、声を出さなかった。 祖母みたいに何か言うこともしなかった。 声がないのに、母の背中から何かが出ている気がした。出ているのは言葉じゃなく、折り畳まれたままの声だ。

 線香の匂いが、部屋に広がった。 匂いだけでいいものがある、と祖母は言った。 幹夫はその意味が、少しだけ分かった気がした。匂いは残る。残るのに、誰も責めない。

 母は手を下ろして、幹夫のほうを見た。

「……字、書きたいなら」

 母はそこで一度止まった。 止まったあと、声を少しだけ柔らかくした。

「母ちゃんも、教えるで」

 幹夫は、息がうまくできなかった。 嬉しいとき、胸はうまく膨らまない。 膨らまないのに、熱だけが増える。

「うん」

 幹夫はそれだけ言って、また頷いた。 母は笑わなかった。けれど眉間が固くなっていなかった。 固くない眉間は、朝の光みたいに短い。短いのに、目に焼きつく。

 その日、幹夫は新聞紙の裏を広げて、「父」をもう一度書いた。 今度は、母が横で見ていた。 見ているだけで、線が少しだけまっすぐになる気がした。まっすぐになるのは、手の力じゃなく、見られている安心の力だ。

 書き終えると、母は小さく頷いた。

「よし」

 たった一言なのに、幹夫の胸の奥の警報が、少しだけ丸く鳴った。 サイレンみたいに命令しない音。 波みたいに寄せて返す音。 鉛筆みたいに、残る黒の音。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも、預かりものは増えていく。 折り畳まれた紙。白い石。竹を継いだ鉛筆。線香の匂い。 それらが一つずつ、幹夫の中で「なくならない形」になろうとしていた。

 
 
 

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