風のまにまに
- 山崎行政書士事務所
- 6月17日
- 読了時間: 4分

春の風は、いつも彼女を迷わせた。
そして、導いてもいた。
リナがこの草原に通い始めたのは、去年の春だった。
祖母が眠ることになった小さな丘のふもと、町外れにぽつんと広がる原っぱ。舗装されていない細い道を抜けて、急な坂を登った先に、それはあった。
その草原には、誰が植えたとも知れぬ野の花が、毎年きまって咲く。青紫のムスカリ、白くて小さなハナニラ、控えめにうつむくスイセン、あとは名も知らぬ細やかな花々が風に揺れていた。
リナは、そこにしゃがみ込んで、じっと土を見つめるのが好きだった。
誰とも話さず、誰にも見られず、ただ風と花の声を聞くために――。
祖母は静かな人だった。
目立つことを嫌い、笑顔を多くは見せず、しかし不思議なあたたかさを持った人だった。
「野の花はね、誰かに見られるために咲いてるんじゃないのよ。風と太陽と、土と話して、それで十分幸せなの」
子どもの頃、庭に咲いたタンポポを摘んで帰ったリナに、祖母はそう言って微笑んだ。
花瓶に生けてほしいと期待したリナは少しがっかりしたけれど、祖母のその言葉だけは、ずっと心に残っている。
――風と太陽と土と話す花。
人がいなくても、ちゃんと生きて、ちゃんと咲く花。
それはまるで、祖母そのものだった。
春の風が草をなでる音は、誰かの囁きのようだった。
ムスカリの群れの間に小さな白い花がぽつんと顔を出す。リナはそれをそっと指先でなぞった。
「こんにちは」
誰に聞かせるでもない声だった。
返事はない。もちろん、ないはずなのだ。
それでもリナは、ほんの少しだけ風が変わった気がして、頬に触れた空気がどこかやわらかくなったような気がした。
リナは胸元のペンダントに手を添えた。
それは祖母が亡くなる直前に譲ってくれたものだった。シンプルな銀のペンダント。何の飾りもないけれど、リナにとっては何より大切なものだった。
「また、会いに来たよ」
そうつぶやいたとき、草原の向こうに影が見えた。
小さな子どもが、こちらを見ている。
「……?」
見覚えのない顔。けれど、どこか懐かしさを感じた。
子どもは笑うでもなく、泣くでもなく、ただじっとリナを見つめていた。
そして、ふいに花の中へと消えた。
リナは無意識のうちに立ち上がり、その子のいた方向へと歩き出した。
草を踏むたびに、ぱちぱちと音がする。春の草はまだ柔らかく、足元から命の匂いが立ち上る。
あの子どもがいた場所まで来ると、不意に風が止んだ。まるで誰かが時間を止めたように、草も花も静まり返った。
そこには、小さな丸い石があった。人の手で積まれたような、けれど誰も気づかなかったような、ぽつんとした石の塊。
リナはしゃがみ込んだ。
そして石の横に咲く、小さな青い花を見つけた。
それは、祖母が好きだった「忘れな草」だった。
「……どうしてこんなところに?」
声に出した瞬間、風がふたたび吹き、リナの髪を撫でていった。
風はその花のまわりをそっと旋回するように流れ、やがて彼女の胸にたどりついた。
そのときだった。
胸元のペンダントが、わずかに光ったような気がした。
「あなたに会えて、よかった」
風の中に、声があった。
けれどそれは、耳では聞こえない。心の奥、胸の奥の、もっと深いところに響く声だった。
「私は、あなたの中で、生きてるわ」
それは、祖母の声だった。
リナの頬を一筋の涙が伝った。
――ああ、やっぱりそうだった。
ここは、祖母が眠っている場所。
でもそれだけじゃない。祖母が、ずっと好きだった春の草原。
風と花と話す場所。
「おばあちゃん……」
涙がぽろぽろとあふれて、リナはしゃがみ込んだ。
けれど、悲しみではなかった。胸に満ちるのは、あたたかさと、懐かしさと、安心だった。
ムスカリが風に揺れていた。ハナニラがゆっくりと揺れていた。
まるで「ようこそ」と言ってくれているようだった。
リナは両手を胸の前でそっと合わせた。
そして目を閉じて、春の草原のすべてを感じ取ろうとした。
風の匂い。草の音。花の呼吸。
それらはすべて、祖母の声と重なって――やがて、リナ自身の声になっていった。
帰り道、リナは花を一輪だけ摘んでいた。
ムスカリでもなく、ハナニラでもなく、小さな小さな忘れな草。
祖母が言っていた言葉を思い出す。
「花はね、摘んでもいいのよ。ただし“約束”があればね。
“また来るからね”って、ちゃんと心で言えるなら、花も喜ぶのよ」
リナはペンダントに触れながら、そっと微笑んだ。
「また来るよ、おばあちゃん」
空はあたたかく晴れていた。
丘の向こうには、次の春を待つ花の種が、そっと風に揺れていた。





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