風の声とひまわりの歌
- 山崎行政書士事務所
- 4月4日
- 読了時間: 15分

第一章 春の種
薄桃色の桜の花びらが、春風にそっと舞っていた。昭和二十六年の静岡、山裾の小さな集落に、柔らかな陽射しが降り注ぐ。冬の名残の冷たい空気の中にも、大地は少しずつ温もりを取り戻し、畑の土からはほのかな匂いが立ちのぼる。雪解け水が小川を静かに満たし、遠くの山々の残雪がきらりと光る。幹夫少年は八歳になったばかりの瞳を輝かせ、家の裏手に広がる畑を眺めていた。
幹夫の父親は朝早くから畑を耕している。ゴトゴトと土をすき返す鍬の音に合わせるように、ヒバリが空高くでさえずっていた。幹夫は小学校の先生からもらった紙包みを、大事そうに胸に抱えている。その中には黒くて小さなひまわりの種が十粒ほど入っていた。先生は「夏になれば大きな花が咲きますよ」と微笑んで種を配ってくれたのだ。幹夫はその時から、まだ見ぬひまわりが心の中で大きく広がるのを感じていた。
「幹夫、ご飯ですよー」台所から母親の声が響く。幹夫は「はーい!」と元気よく返事をすると、名残惜しそうに畑に別れを告げて家に駆け戻った。朝の食卓には湯気の立つみそ汁と焼き魚が並び、母親がにこやかに迎えてくれる。父親も土の匂いを纏ったまま、手を洗って縁側から上がってきた。家族三人、穏やかな春の朝の食事が始まった。
朝食の後、幹夫は父親と一緒に畑に出た。畑の片隅に、小さなひと区画をもらってひまわりの種を植えることになったのだ。父親が鍬で柔らかく耕した土に、幹夫は指で小さな穴を開けて一粒ずつ種を落とした。黒く硬い種を掌に載せると、ほんのり日向のぬくもりが伝わってくる気がする。「大きくなあれ、大きくなあれ」と幹夫は心の中で唱えながら、優しく土をかぶせていった。隣で父親が静かに微笑み、鍬を持つ手を休めて息子の仕草を見守っている。こうして、幹夫のひまわりは春の土にその小さな命を託したのだった。
第二章 芽吹きのころ
畑に種を植えてから幾日かが過ぎ、柔らかな春雨が何度か大地を潤した。ある朝、幹夫が畑に走って行くと、黒い土の表面に小さな緑の点が顔を出しているのを見つけた。ひょろりと伸びた茎の先に、ふたつの小さな葉っぱがちょこんと広がっている。それは紛れもなく、ひまわりの芽生えだった。幹夫は「やった!」と声を上げたいのをぐっとこらえ、そっと膝をついて双葉をのぞき込んだ。朝露に濡れた双葉が陽光を受けてきらきらと輝き、小さな命が力強く息づいている。
幹夫は土に這いつくばるようにして双葉に話しかけた。「こんにちは。生まれてきてくれてありがとう。」声に出すと双葉がびくりと揺れる気がして、幹夫は心の中で静かに語りかける。そよと吹いた風が葉っぱをわずかに震わせ、まるで小さな芽が挨拶を返してくれたように感じた。幹夫の胸の奥がじんと熱くなった。
「芽が出たか。」いつの間にか後ろに来ていた父親が、柔らかな声で言った。幹夫は振り返って「お父さん、見て!ひまわりがね……」と言いかけ、胸がいっぱいになって言葉を詰まらせた。父親は無言でうなずくと、「よく世話をしてやれよ」と短く言って畑の奥へ歩いて行った。その背中を見送りながら、幹夫は小さく「うん」とつぶやいて、もう一度芽生えに目を落とした。
それから幹夫は毎日、学校から帰ると真っ先に畑へ向かった。小さなひまわりの芽は日ごとにすくすくと背を伸ばし、葉を増やしていく。幹夫は柄杓で優しく水をやり、周りの雑草を摘み取りながら、「元気に大きくなるんだよ」と心の中で語りかけた。昼下がりの陽射しの下、土の匂いと青々とした苗の匂いが混じり合い、幹夫の頬には汗がにじんだ。風が吹くと葉っぱたちは一斉に揺れてざわざわと音を立て、まるで緑の子どもたちが笑いさざめいているように見えた。
第三章 緑の風
夏の気配が色濃くなるにつれ、ひまわりの苗は幹夫の背丈を越えるほどに成長していた。初夏の強い日差しを浴びてぐんぐん伸びる茎は太くたくましく、指でそっと触れると産毛に覆われざらりとしている。葉は大きな団扇のように広がり、濃緑色の影を地面に落としていた。幹夫がその葉陰に顔を入れると、青臭い匂いと土の蒸気がむっと押し寄せ、一瞬息苦しくなるほどだった。吹き抜ける風が再び幹夫の頬を撫で、熱を帯びた空気をさらっていく。緑の森のようになったひまわり畑で、幹夫は目を細めて空を見上げた。雲ひとつない真夏の空がどこまでも高く、眩しい光に満ちていた。
やがて、茎の頂に硬い蕾がいくつも顔を揃え始めた。緑色のつぼみは小さな拳のような形で、触ると固く、生き生きと空を仰いでいる。幹夫はその姿に胸を躍らせながらも、同時に不思議な切なさを覚えた。早く花を見たいと思う気持ちと、このままの蕾の時期が永遠に続けばいいという気持ちが、心の中でせめぎ合ったからだ。日はますます長くなり、空には入道雲がもくもくと沸き立つ季節が近づいていた。
夕食の席で幹夫が「ひまわりにつぼみができたよ!」と報告すると、母親は「まあ、もうそんなに大きくなったの」と目を細め、父親も「楽しみだな」と微かに笑った。幹夫は嬉しくてたまらないはずなのに、なぜか胸の奥がきゅっと締め付けられるような思いがした。しかしその理由をうまく言葉にできず、ただ「うん」とだけ答えて、茶碗の白いご飯をかきこんだ。窓の外では、夏の夜の闇に一匹の蛍が静かに光りながら飛んでいた。
第四章 ひまわり畑
盛夏の朝、幹夫が畑に駆け出すと、一面のひまわりが黄金の花を咲かせていた。つい昨日まで堅く閉ざされていたつぼみが、一夜にしてぱっと開いたのだ。大きな花弁が幾重にも重なり、真ん中の黒褐色の円盤には無数の小さな種のもとが並んでいる。太陽に向かってまっすぐに伸びるその姿は、まるで空へと歌っているかのようだった。朝の光に透ける花びらはきらきらと輝き、見渡す限りの畑が眩い黄色に染まっている。
幹夫は思わず「わあ…!」と声をあげ、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。青空には入道雲がもくもくと浮かび、セミたちが一斉にジリジリと鳴き交わしている。静岡の夏の空気は湿り気を帯びて蒸し暑かったが、ひまわりたちの放つ生命の輝きに比べれば、そんなことは気にならないほどだった。足元では蜜蜂たちがぶんぶんと羽音を立てて花々を飛び回っていたが、幹夫の耳にはそれさえ祝福の音楽のように聞こえた。
母親も外に出てきて、その見事なひまわり畑を眩しそうに見渡した。「まぁ、なんて綺麗なんでしょう…まるでお日様がたくさん降りてきたみたいね。」母親は感嘆の声を漏らし、汗をぬぐう幹夫に冷たい麦茶を手渡した。幹夫はごくごくと喉を鳴らして飲み干し、はにかみながら畑を見つめた。少し離れて父親も腕組みをして立っており、「よく育ったな」と静かに一言つぶやくと、照れくさそうに空を見上げた。幹夫の心に温かなものが満ち、胸の中で小さく何度も頷いた。
第五章 夏の嵐
それは夏休みも半ばを過ぎたある夕暮れのことだった。昼間から生ぬるい風が吹き、空には朝から怪しげな灰色の雲が垂れこめていた。夕方になると辺りは急にしんと静まり返り、ひぐらしの鳴き声も聞こえなくなった。遠くで雷鳴がごろごろと低く唸り始め、やがて大粒の雨がぽつ、ぽつ、と地面を叩き始めた。幹夫は縁側に座り、空を不安げに見上げている。いつもなら夕陽に染まるはずの西の空は鉛のように重く暗い。ひまわりたちもざわざわと騒ぎ始めたように見え、葉を裏返して不穏に揺れていた。
バシャーン!と突然、激しい雨が降り降ろし始めた。あっという間にあたりは水煙に包まれ、軒先から滝のような雨水が地面を打つ。風も唸りを増し、家がきしむほどの強さで吹きつけてきた。母親が慌てて戸を閉め、ランプを灯す。父親は「台風かもしれん、外に出るなよ」と低い声で告げた。幹夫は頷いたものの、胸の鼓動が早鐘のように高鳴っていた。ガラス窓の向こうで、ひまわりたちが必死に首を振り乱し、大風に抗っているのが見える。幹夫は居ても立ってもいられず、気がつけば土間に降りて雨戸を開け放っていた。
「幹夫!だめだ!」父親の制止する声も届かない。幹夫は土砂降りの闇の中に飛び出した。滝のような雨が容赦なく体を叩き、息もできないほどの風が吹きつける。目を凝らすと、稲妻が一瞬ひまわり畑を白く照らし出した。幹夫が命をかけて育てたひまわりたちは、暴風雨の中で無残に揺さぶられている。何本かはすでにぼきりと茎から折れ、地面に倒れてしまっていた。「やめて!やめてよ!」幹夫は嵐に向かって大声で叫んだ。しかし容赦ない風は唸りをあげ、幹夫の叫びをかき消してしまう。
横殴りの風に押されて幹夫はぬかるみに足を取られ、尻もちをついてしまった。ずぶ濡れの体に冷たい泥が染み込む。目の前では、大輪のひまわりがひとつ、メリメリと嫌な音を立てて折れ曲がった。幹夫の大切な太陽が、闇に飲み込まれていく。「いやだ…!」幹夫が震える手を伸ばした瞬間、がっしりと誰かに抱きかかえられた。それは父親だった。父親は無言のまま、幹夫をしっかりと胸に抱えて家の中へ駆け戻った。
家の中に戻った途端、母親が駆け寄り震える幹夫を抱きしめた。幹夫は父親の腕の中で声を上げて泣いた。悔しさと悲しさが一度に込み上げ、涙があとからあとから溢れて止まらない。母親は「もう大丈夫よ、大丈夫だからね」と繰り返し、濡れた服を脱がせて温かい布で体を拭いた。父親も「幹夫…」と何か言いかけたが、その言葉は嵐の轟音にかき消された。ただ、幹夫の頭をそっと大きな手で撫でることしかできなかった。幹夫はそのまま母親に布団へと連れて行かれ、泣き疲れた瞳を閉じた。外では嵐がなおも荒れ狂い、家屋を揺らす轟音が響いていた。
第六章 月夜の語らい
嵐が嘘のように静まった真夜中、幹夫はふと目を覚ました。窓の外から月の光が差し込み、床に白く四角い明かりを落としている。耳を澄ますと、あれほど暴れていた風も今はかすかな寝息のようにそよそよと吹いているだけだった。幹夫は布団を抜け出すと、そっと縁側の戸を開けて外へ出た。
外に出ると、空には雲間から満月が顔を出していた。地面には倒れたひまわりが黒い影となって散乱し、ところどころに白く反射する水たまりができている。折れた茎や花びらがそこかしこに散らばり、まるで戦いの跡のようだった。幹夫は胸が締め付けられる思いで近づき、そっとその惨状の中に足を踏み入れた。ぬかるみに足が沈み、小さな水音が跳ねる。生温かい泥の匂いが鼻についた。
「ごめんね…」幹夫はぽつりと呟き、倒れたひまわりの茎に手を伸ばした。その手は小刻みに震えている。月明かりに照らされた花弁はしおれて泥にまみれ、あの輝きはどこにもなかった。幹夫の目から涙がひとすじこぼれ落ち、頬を伝って泥に滴り落ちた。「僕が…守れなかった…」唇を噛みしめ、声にならない声で幹夫は言った。
「――幹夫。」不意に誰かが自分の名を呼ぶ声がした。幹夫ははっとして顔を上げた。周囲に人影はない。ただ、静かな月夜の田畑が広がるばかりだ。耳を澄ますと、風の音に混じってかすかに誰かの囁きが聞こえてくる。「…き…お…」それは幹夫の名を呼ぶ声のようだった。幹夫は泥だらけの袖で涙を拭い、「だれ…?」と震える声で問いかけた。
「ぼくたちだよ。」先ほどの声がまた答えた。確かに目の前のひまわりから聞こえてくる。「……しゃべれるの?」幹夫は目を見開いたまま尋ねた。すると花は小さく揺れて、「君にしか聞こえないよ」と静かに言った。澄んだ月光の下、泥まみれの葉が銀色に光っている。幹夫は夢を見ているのではないかと自分の腕をつねった。しかし痛みはちゃんと感じられ、これは現実なのだと悟った。
「君が一生懸命育ててくれたおかげで、こんなに立派な花を咲かせられた。ありがとう。」穏やかな声が幹夫の心に直接語りかけてくるようだった。幹夫の喉が詰まった。「ぼくは…守れなかったのに…」かろうじてそれだけを絞り出す。すると、ひまわりたちは静かに笑ったように見えた。「いいんだよ。ぼくたちは最初から知っていたんだ。この姿のままいつまでもはいられないってことを。」風がそよぎ、葉と茎がかさりと音を立てた。「咲いた花はやがて散り、命あるものはいつか形を変える。でもね、幹夫くん、それは悲しい終わりじゃない。」静かな夜気に、優しい声が溶けていく。「種を、見てごらん。」
幹夫ははっとして、折れた花の中心に目を凝らした。泥にまみれた円盤の中に、ぎっしりと黒い種が並んでいる。月の光を受けて、いくつかの種は小さく瞬いているように見えた。「これが…種…」幹夫はそっと指先で種を摘んでみた。冷たく固い粒。それは確かに、新しい命の欠片だった。「ぼくたちはここにいるよ。」ひまわりの声が言った。「この種の中で生きている。そしてまた、来年きっと君に会いに行く。」
幹夫の頬を一筋の涙が伝った。それは悲しみの涙ではなく、安堵と喜びの涙だった。「うん…うん…!」幹夫は何度もうなずいた。鼻をすすり、掌いっぱいに種を集めながら、震える声で言った。「絶対また会おうね…。僕が約束する。僕が君たちをまた咲かせるから…!」その言葉に答えるように、一陣の風がそっと吹いてひまわりの葉を揺らした。幹夫にはそれが「ありがとう」と言っているように感じられた。
空を見上げると、雲はすっかり消え去り、月が丸い微笑みを浮かべていた。幹夫の胸には静かな希望の灯がともっていた。彼は大事な種を胸に抱きしめると、もう一度「ありがとう」と心の中でつぶやいた。夜明け前の涼しい風が吹き抜け、遠くで一番鳥が小さく鳴いた。
第七章 実りと別れ
朝になり、嵐の過ぎ去った畑には、折れたひまわりの茎と散らばった葉や花弁が生々しく残っていた。空は嘘のように青く澄み渡り、照りつける日差しが泥水の水たまりに反射してキラキラと輝いている。幹夫は父親と一緒に畑に立ち、静かにその光景を見つめていた。父親はため息をつき、「ひどい有様だな」とぽつりと漏らした。幹夫は昨夜の出来事が夢ではなかったことを確信しながら、小さくうなずいた。
父親は鍬を手に折れた茎を片付け始めた。幹夫も黙ってそれを手伝う。泥に汚れた花の頭をひとつずつ拾い上げると、その中央にぎっしりと種が詰まっているのが見えた。父親が「種は乾かして来年蒔こうな」と言って微笑んだ。幹夫は驚いて父親の顔を見上げた。それは昨夜ひまわりから聞いた言葉と同じだったからだ。幹夫が「うん!」と力強く頷くと、父親は不思議そうに首をかしげたが、すぐに息子の頭をくしゃりと撫でた。
母親も戸口に立ち、二人の様子を見守っていた。息子が落胆のあまり塞ぎ込むのではと案じていたが、幹夫は黙々と種を集め、しっかりとした表情で立っている。母親は安堵し、「幹夫、おにぎりを持ってきたから少し休んだら?」と声をかけた。幹夫は顔を上げ、「うん、ありがとう!」と明るく答えた。その笑顔に、母親もほっと胸を撫で下ろす。
折れた茎や葉を片付け終える頃には、日差しはだいぶ傾いていた。幹夫は集めた種をざるに広げ、天日に干していた。黒々とした種は夕方の光を受けて艶やかに輝いて見える。幹夫はそれを眺めながら静かに目を閉じ、心の中でそっと語りかけた。「また来年、会おうね」――風に乗って、微かな返事が聞こえたような気がした。幹夫は穏やかな微笑みを浮かべ、空を見上げた。茜色に染まる静岡の空に、入道雲の名残が金色に光っていた。
第八章 冬のひだまり
秋が過ぎ、田の稲穂が黄金色に実ったかと思えば、やがて刈り取られ、野山の木々も赤や黄色に染まって散っていった。幹夫は学校へ通いながら、季節が巡るのを静かに見つめていた。秋の夜長、縁側に座って虫の音を聞いたときには、夏のひまわりを思い出した。あれほど鮮やかだった記憶も、次第に遠く霞んでいくようで、幹夫は少し寂しくなった。しかし、部屋の棚にしまった種の包みを手に取ると、カサカサと乾いた音がして、中で命が眠っていることを感じた。幹夫はそれを耳元で振ってみて、「春まで待っててね」とそっと囁いた。
やがて木枯らしが野原を吹き抜け、霜が降りる季節となった。静岡の冬は比較的穏やかだが、それでも朝は白い息が空に昇り、庭先のバケツの水は薄氷を張る日もあった。幹夫は火鉢で手をあたためながら、窓の外の枯れた景色を眺めることが増えた。冷たい風が吹くたび、あの夏の日差しとひまわりの香りが恋しく胸によみがえった。そんなときは、そっと机の引き出しにしまった種を取り出し、ひと粒掌に乗せてみるのだった。小さな黒い種は硬く、冬の間じっと力を蓄えているように感じられた。
冬の昼下がり、縁側には柔らかな日差しが差し込み、小さなひだまりができていた。幹夫はそのひだまりに座り込み、種の入った包みを膝に置いている。遠くの畑では麦が青い芽を出し始め、風にそよいでいた。スズメたちが軒下でちゅんちゅんと鳴き、時折、庭先に降りては乾いた地面をつついている。ひなたに出た黒猫が伸びをして、のんびりと昼寝を始めた。幹夫は穏やかな冬の日の光を全身に浴びながら、静かに目を閉じ、春の景色を思い描いた。
春になったら、またあのひまわりが空いっぱいに咲き誇るだろう。幹夫はその光景を胸に描き、ゆっくりと息をついた。頬を撫でる冬の風は冷たいが、ひだまりの暖かさが彼の中に静かに広がっていた。
第九章 春の朝
淡い朝の光が庭先に降り注ぎ、枯れ木の枝先にふくらんだ蕾がほころび始めていた。冬枯れの景色の中に、ぽつんと薄紅色の花が一輪咲いている。昨夜降った名残の雪が土の上にわずかに残り、ひんやりとした空気に混じって梅の花の香りが漂った。幹夫は息をのみ、この小さな春の兆しにそっと手を伸ばす。九歳になろうとする少年の指先に、花びらの柔らかな感触と微かな匂いが触れた。
幹夫は庭から畑へと歩いて行った。足元では霜柱がサクサクと音を立てて崩れる。吐く息は白く、肩先に朝の日差しが差し込んでいる。父親が先に畑を耕し始めていた。畑の片隅――去年ひまわりを育てた場所のあたりで、幹夫はふと何か緑色のものが地表に顔を出しているのに気づいた。近寄ってみると、それは小さな双葉だった。幹夫の胸が高鳴る。間違いない。ひまわりの芽生えだ。
「お父さん、見て!」幹夫は思わず叫んだ。父親も鍬を止めて近づいてくる。幹夫は地面の双葉を指さした。「ひまわりが芽を出してる!」父親は目を細めて笑った。「そうか、昨年落ちた種がもう芽吹いたんだな。春はちゃんと来るもんだ。」幹夫はうなずき、そっと双葉に触れた。冷たい土から生まれたばかりの芽生えは、小さいけれど確かな命の温かさを宿しているように思えた。
幹夫は顔を上げて春の空を見渡した。どこからか吹いてきた風が頬を撫で、「おはよう」と囁いた気がした。幹夫はにっこりと微笑み返す。「おはよう。また会えたね。」心の中でそう語りかけると、澄んだ空にヒバリの高い歌声が響いた。新しい朝の光の中で、幹夫のひまわりの物語がまた静かに動き始めたのだった。





コメント