風の谷の調べ
- 山崎行政書士事務所
- 1月19日
- 読了時間: 6分

静岡市の朝は、駿河湾からやってくる潮の香りを含んだ風で始まります。その風は安倍川の流れに寄り添いながら街を抜け、日本平の丘をすり抜けて、やがて遠くの山々まで吹き渡っていきます。人々はいつしかその風を「駿河の風」と呼ぶようになり、季節の移ろいを知らせてくれる優しい友だちのように感じていました。
しかし、街から少し離れた山あいには、“風の谷”と呼ばれる不思議な場所がありました。そこは地形のせいか、一度吹き込んだ風が渦を巻きながら溜まっていくと言い伝えられている谷です。その谷に足を踏み入れると、誰もが自分自身の心の声を聴くことになる――という、不思議な噂を持っていました。
ふたりと風のはじまり
静岡市内の学校に通う少年・**久哉(ひさや)**は、少し人付き合いが苦手で、いつも俯きがちでした。一方、同じクラスの少女・**涼香(すずか)**は、やわらかな笑顔をたたえ、周囲に明るい雰囲気をもたらす存在でしたが、家の事情で悩みを抱えていました。
ある放課後、久哉は学校の図書室で、古い民話集を読んでいました。そこに「風の谷」の伝説が載っていて、「駿河の風が集まる聖地――人々の願いや思いを運び、谷で浄める」と書かれています。帰ろうと荷物をまとめたとき、涼香が偶然図書室へやってきて、そのページを見つけました。
「あ、もしかして『風の谷』の話を読んでるの? ずっと気になってたんだよね。風が思いを運んでくれるなんて、夢みたいだけど、なんか素敵。」
涼香が微笑むと、久哉は少し頬を赤らめてうなずきました。二人は風の谷の話で盛り上がり、いつしか「実際に行ってみよう」という話になりました。久哉は気弱な性格でしたが、涼香のまっすぐな瞳に不思議な勇気をもらい、「よし、行こう」と決心したのです。
風の精霊と谷へ
その週末、久哉と涼香は静岡駅からバスと徒歩を乗り継ぎ、山間の道をひたすら進んでいきます。やがて人里離れた登山道のような小道に入り、風の谷へと近づいていきました。
森の木々がやわらかくざわめき、駿河湾から吹き上げる風が緑の葉を揺らして通り抜けます。遠くには富士山の姿がうっすらと見え、空は澄み渡る青。二人の背を押すように優しい風が吹き、どこからかかすかに声が聞こえるような気がしました。
「ようこそ、風を愛する子たちよ。わたしは“駿河の風”の精霊。あなたがたの思いを感じ、ここまで導いたのです。」
耳をすませば、たしかに風の音に溶け込むように声が聞こえます。驚いてまわりを見回すと、地面から立ちのぼるようにやわらかな青白い光が現れ、風の輪郭を形づくったような存在が二人を見つめていました。
「わたしはこの地に古くから宿り、人々の想いを運んできました。けれど最近は、街の喧噪や人々の悩みで風が重たくなり、“風の谷”も曇りがちなのです。あなたたちがもし、谷を訪ねて心の奥を見つめるなら、風の持つ本当の力を取り戻す手伝いができるかもしれません。」
久哉と涼香は顔を見合わせ、小さくうなずきました。自分たちも、何か心に抱えたものを解きほぐしたい――そんな思いに駆られ、足を進めます。風の精霊は先導するようにふわりとたなびき、二人を谷の奥へと導きました。
心の声が響く谷
谷の入り口は鬱蒼とした木立に囲まれ、淡い霧が漂っています。歩くたびに風の流れが変化し、森の葉や小枝がざわざわと歌うように響きあいます。
すると、涼香が立ち止まりました。表情が少し歪み、胸を押さえています。
「……なんだか苦しい。頭の中に、何かがざわざわと浮かんでくる。」
ふだんは明るくふるまう涼香でしたが、家の事情――両親の離婚にまつわる不安や、どうしようもない孤独感――そういった心の声が押し寄せてきて、涙が滲んでいます。
一方の久哉は、涼香を支えようと手を差し出したものの、自分自身も胸の奥に秘めていた“人とうまく関われないもどかしさ”や“心を開けない弱さ”に向き合わざるを得なくなり、動揺します。二人とも言葉にできない思いが波のように溢れ、しばらく身動きがとれませんでした。
そのとき、風の精霊のやわらかな声がそっと背中を押すように響きました。
「心の中に溜まった声が、風に乗ってあらわになっているのです。恐れずに、まずは認めてあげること。そして、風にゆだねて解き放してみてください。あなたの思いは、きっと浄められ、また新しい風となって空へ昇っていくでしょう。」
涼香は泣きじゃくりながら頷き、久哉は彼女の手を強く握りました。二人は目を閉じ、吹き抜ける風を感じながら、それぞれの心の声をそのまま受け止め、そして少しずつ風へと預けていきました。
谷を抜ける新しい風
どれほどの時間が経っただろう。風の流れが急にやわらぎ、空が明るさを増したように感じられました。二人は気づくと、谷の奥にある開けた場所へ立っていました。そこは大きな岩が円を描くように並んでいて、真ん中には小さな湧き水が湧いています。空は青く澄みわたり、まるで屋根のない大聖堂のようにも見えました。
涼香の表情は穏やかにゆるみ、涙の跡をぬぐいながら微笑みます。
「不思議……苦しかった思いが、風の中に解けていったみたい。まだ解決したわけじゃないけど、少しだけ肩の荷が下りた気がするよ。」
久哉も、胸の中に澱んでいた感情が、風に流されたように軽くなっているのを感じました。
「ぼくも……。こうして気持ちを認めてあげるだけで、こんなにも違うんだね。ありがとう、涼香。そして、ありがとう、風の精霊さん……。」
すると、風の精霊が再び姿を現し、うっすら青白い光をまとって二人の間を漂いました。
「あなたたちは心の声を風に乗せ、そのありのままの思いと向き合った。それこそが、風が人を導く最も大切な力です。そしてその力は、街にも、海にも、山にも、あらゆる場所を爽やかにしてくれるでしょう。さあ、駿河の風を携えて、あなたたちの街へ戻りなさい。人々の心を温める新しい風が、あなたたちを通して吹いていくのです。」
精霊はそう告げると、霞のように消えていきました。ちょうどその瞬間、谷に強い陽光が差しこみ、青空がどこまでも高く澄んで広がります。
風とともに帰る道
帰り道、二人は時折大きな深呼吸をしながら、まるで生まれ変わったかのような晴れやかな気持ちで谷を出ました。山道を下りながら、風景が一段と輝いて見えます。
街に戻ってみると、いつもの静岡の風が、どこかいっそう心地よく感じられました。駿河湾の潮の匂いも、安倍川の流れも、茶畑をそよぐ風も――すべてがまるで歓迎してくれているかのようです。
その晩、久哉は家の窓を開け放ち、寝る前に少し風を味わうようになりました。心の奥に小さな声が聞こえても、もう逃げずに「そうか、そうだったんだな」と受けとめることができます。涼香もまた、家庭の事情に立ち向かおうと決意しながら、窓辺で夜風にあたり、「私は大丈夫」とそっとつぶやきました。
――こうして、風の谷を訪れた二人は、自分の中に吹く新しい風を得ることができました。その風はやがて、静岡市のあちこちにささやかな変化をもたらしていきます。悩みを抱える人の背中を押すように、疲れた心を優しくほどくように。駿河の風が運ぶのは、自然だけではなく、人々の思いと希望なのだ――。
遠く富士山のシルエットが夜空に浮かぶころ、静岡の町には今もまろやかな風が吹きぬけています。もしその風に耳をすませば、風の谷で出会った精霊の声が、かすかに聞こえてくるかもしれません。
「あなたの心の声は、わたしがそっと運んであげましょう。風を信じて、一歩ずつ進んでいくのです。」





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