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風はまだ、茶畑の奥で

風はまだ、茶畑の奥で眠っていた。夜のあいだに降りた露が、若い葉の背に薄いガラスみたいに乗って、朝の光を受けてはこぼれそうに揺れている。牧之原の台地は、地図の上ではただの緑色の面に見えるのに、実際は小さな起伏の集まりで、畝(うね)と畝のあいだに影が溜まり、そこに時間が沈む。

幹夫(みきお)は長靴の泥を玄関の端で落としきれないまま、畑へ向かう坂道を歩いた。背中に背負った籠は、まだ空なのに、肩だけが先に疲れる。空は高く、遠くの方にだけ雲が薄く張っていて、視線の端に、駿河湾の青が気配として混じる。海の匂いと、茶の匂いは、似ていないのに同じところで息をしているみたいだった。

畑に入ると、葉に触れた指先がひやりとする。露が冷たいというより、露が「冷たさ」を丁寧に運んできたみたいに感じる。その瞬間、幹夫はいつも、自分の胸の奥も同じ温度になっていく気がした。冷たさが悪いわけじゃない。ただ、冷たいまま、言葉にならないものが固まっていく。

「幹夫」

父の声は低く、畝の向こうから聞こえた。父――光一(こういち)は、畑の端で茶摘み機の調子を見ていた。手袋をはめたまま、エンジンのあたりに顔を近づけて、耳で何かを聞くようにしている。その横顔は、幹夫の目にはいつも、どこか遠い。家にいるのに、家の外を見ているような。

「そこ、昨日の雨でぬかるんでる。気ぃつけろ」

それだけ言うと、父はまた機械の方へ戻った。幹夫は「うん」と返事をしたが、声が葉に吸われてしまった気がした。

風はまだ、茶畑の奥で眠っている。そのせいか、畑は音が少ない。鳥の声も、遠くを走る車の音も、何か薄い布を通したみたいに聞こえる。聞こえているのに、届ききらない。幹夫の心と似ている、とふと自分で思い、すぐにその考えを払いのけた。似ていると思うと、苦しくなるからだ。

幹夫は籠を抱え、葉に両手を差し入れて、摘み取る感触を確かめた。柔らかいのに、ちゃんと芯がある。力を入れすぎると葉が傷むし、弱すぎると摘み残す。何事も、ちょうどいいところを探さなくちゃいけない。誰も教えてくれなくても、指が覚えてしまう。

——ちょうどいい距離。——ちょうどいい言い方。——ちょうどいい、我慢。

その「ちょうどいい」を、幹夫は家でも学校でもずっと探している気がした。

中学校の教室は、茶畑と違って風がよく動く。窓を少し開けただけで、廊下の声が入り、誰かの笑い声が飛び、プリントがめくれ、机の上の消しカスが転がる。幹夫はその落ち着かなさに、少しだけ救われることがあった。風が動く場所では、胸の奥の固まりも、少しはほぐれる気がする。

昼休み、弁当のふたを開けたときだった。同じクラスの俊(しゅん)が、いつもより静かな声で言った。

「俺さ、春休み終わったら、静岡市の方に引っ越す。親父の仕事が、あっちになったって」

幹夫は箸を持ったまま止まった。ご飯粒がひとつ、箸先の間に挟まって白く光る。

「……へえ」

返事が軽すぎて、自分でも驚いた。俊は「だら」と小さく笑った。笑ったのに、目が笑っていない。俊の目が笑っていないとき、幹夫はいつも、何か言うべきだと思う。でも言葉が見つからない。

「最後にさ、海、行かん? 久能山の下とか。しらす食ってさ」

俊の提案は、いつも通りの雑さで、だから余計に胸に刺さった。「最後」という言葉が、何度も頭の中で反響する。最後。最後。最後。そんなもの、勝手に決めるな、と怒りたかったのに、怒りの奥で、別の感情がじわじわと顔を出す。置いていかれる怖さだ。置いていかれるとわかっているのに、先回りして傷つかないように、自分の心を固める癖。

幹夫は弁当の端の卵焼きを口に入れた。甘い。甘さが舌の上でほどけるのに、胸の奥はほどけない。

「……行く」

そう言うと、俊はようやくちゃんと笑った。その笑顔を見た瞬間、幹夫は、なぜだか少しだけ苦しくなった。俊が笑えば笑うほど、もうすぐいなくなる現実がはっきりするからだった。

家に帰ると、玄関のたたきに、見慣れない封筒が落ちていた。郵便受けから溢れて、床に滑り落ちたのだろう。白い紙に、黒いインク。宛名は父の名前で、差出人の欄が小さく震えている。

幹夫は、その字を一瞬で読み取ってしまった。——母の字だった。

胸の奥が、いきなり熱くなった。熱くなるのに、指先が冷える。何かを落としそうで、落としたくなくて、封筒を拾う手がぎこちない。茶畑の露の冷たさが、ここまで追いかけてきたみたいだった。

父はまだ帰っていない。台所では祖母のツネが、湯を沸かしている音を立てていた。やかんが小さく鳴き、湯気が天井に上っていく。

幹夫は封筒を握ったまま、廊下の角で立ち止まった。開けていいのか、触れていいのか。父宛の手紙だ。自分が開けるものじゃない。そんなことはわかっている。わかっているのに、封筒の紙の薄さが、まるで心の皮膚の薄さみたいに感じられて、今ここで破れたら、何かが一気に出てきてしまいそうだった。

祖母の声がした。

「幹夫、何しとるだ」

幹夫は反射的に封筒を背中に隠した。祖母の目は、細いけれどよく見ている目だった。見ているくせに、見なかったふりもできる目。

「郵便……落ちてた」

「光一宛てか。ほいじゃ、机んとこ置いときゃあ」

祖母はそれ以上聞かなかった。聞かれなかったことが、逆に痛かった。祖母はきっと、差出人も気づいたのだろう。気づいて、何も言わずに幹夫を逃がした。逃げ道をくれたのに、幹夫はその優しさを、うまく受け取れない。

自分の部屋に入ると、幹夫は机の引き出しを開け、封筒をそっと入れた。入れた瞬間、胸の奥の熱が冷えていく気がした。冷えると同時に、別の冷たさが残る。——開けてしまいたい。——でも開けたら戻れない。

その夜、父が帰ってきた。玄関の戸が開く音、靴を脱ぐ音、手を洗う水の音。いつもの生活の音が並ぶだけなのに、幹夫の耳には、どれも少しずつ違って聞こえた。封筒が引き出しの中にあるだけで、家の空気の比重が変わる。

夕食のとき、父は祖母の淹れた茶をすすり、味噌汁を飲み、魚の骨を器用に外した。普段通り。でも幹夫は、父の視線が一度も「机の上」に行かないことに気づいた。父は机の上を見ない。郵便のある場所を見ない。見たら最後、何かを見なければならなくなると知っているみたいに。

幹夫は箸を置きたくなった。言いたいことは喉のあたりにいくつも溜まっているのに、言葉にしようとすると、全部が別の形に崩れる。

「……今日、手紙来てたよ」

口から出たのは、それだけだった。自分でも驚くほど平坦な声。

父の手が、ほんの一瞬止まった。止まったのに、父は顔を上げない。

「……そうか」

それだけ。

幹夫は、熱くなっていた胸の奥が、また固まっていくのを感じた。父が無関心だからじゃない。むしろ逆だ。父が、関心があるからこそ避けていることが、幹夫には痛い。避けるほど、そこに「何か」があるとわかってしまうから。

風は、家の中でも動かない。茶畑の奥で眠っていた風が、そのまま引き出しの奥にも眠り込んでしまったみたいだった。

週末、幹夫と俊は久能山の下の海へ行った。冬ほど鋭くない日差しが、砂の上で白く反射して眩しい。波は小さく、寄せては返して、同じことを繰り返しているのに飽きないみたいだった。しらす丼を食べる店は混んでいて、待っている間、幹夫は何度もスマホの画面を見た。母からの連絡が来るはずもないのに、何かが来る気がしてしまう。

「お前、最近ぼーっとしとるな」

俊が言った。幹夫は「そう?」と笑ったつもりだったが、俊は首を傾げた。

「笑い方、変」

幹夫は何も言えなかった。海の匂いが鼻の奥に残り、口の中にしらすの塩味が残る。残るものばかりで、出ていく言葉がない。

帰り道、ふたりは防波堤の端で立ち止まった。海の向こうに、うっすらと富士が見えた。富士は、近くで見るほど大きいのに、遠くで見ると「そこにいる」というだけで十分な存在になる。幹夫は、そのあり方が少しうらやましかった。何も言わず、ただそこにいて、人の心に影を落とす。

「なあ、幹夫」

俊が背伸びをして言った。

「俺さ、向こう行っても、たぶん……なんだかんだで、戻ってくると思う。茶も海も、ここにあるし。お前もさ、別に今決めなくてもいいだら」

「今決めなくても」その言葉が、幹夫の胸の奥で柔らかく転がった。

今決めなくてもいい。今言わなくてもいい。今泣かなくてもいい。でも、いつかは、決めたり言ったり泣いたりしなきゃいけない日が来る。

その「いつか」が近づいている気がして、幹夫は手のひらを強く握った。

家に戻ると、引き出しの中の封筒が、重さを増している気がした。幹夫はもう、自分がそれを隠していること自体が、嘘みたいに思えた。父が見ないふりをしているのも、祖母が見なかったふりをしているのも、全部が、薄い紙一枚の上に成立している。

夜、父と祖母が寝たあと、幹夫は机の引き出しを開けた。封筒を取り出すと、紙の角が指先に当たり、少し痛い。痛みがあるだけで、現実味が増す。

封を切る音が、部屋の中でやけに大きく響いた。手紙は一枚。便箋の線に沿って、母の字が並んでいる。

——光一へ。——茶摘みの季節ですね。そちらの匂いを思い出します。——幹夫は元気ですか。——もし許されるなら、一度だけ、顔を見に行きたいです。

最後まで読んだとき、幹夫の目が熱くなっているのに気づいた。泣いているのかどうか、判断がつかない。涙は出るのに、胸の奥は冷たいままの部分もある。怒りが残っている。寂しさも残っている。会いたい気持ちも残っている。残るものばかりで、どれが本物なのかわからない。

母は、幹夫の名前を呼んでいた。便箋の上で。幹夫はその文字を指でなぞった。指先にインクの凹凸はない。なのに、触れた気がした。触れてしまった気がした。

その瞬間、幹夫はふと思った。母は、父だけに手紙を書いたんじゃない。父と幹夫の間に、細い糸を垂らしたのだ。誰かがそれを掴めば、何かが繋がる。掴まなければ、そのまま切れる。

幹夫は便箋を胸に当てた。紙は冷たい。冷たいのに、胸が熱い。矛盾が、矛盾のまま存在している。それが、人の心なのだと、初めて実感した。

翌朝、幹夫は茶畑へひとりで行った。まだ空が白くなる前、畝の間には暗がりが溜まり、露が夜の気配を残している。父も祖母も寝ている時間。自分の足音だけが、土に吸われる。

風はまだ、茶畑の奥で眠っている。だからこそ、幹夫には、何かを言える気がした。風が動いてしまうと、言葉が散ってしまう。今なら、畑が全部聞いてくれる気がした。

幹夫は畝の真ん中で立ち止まり、手紙を取り出した。折り目のついた便箋は、夜の湿気を吸って少し柔らかい。息を吸うと、茶の匂いが肺の奥まで入ってくる。どこか、家の匂いとも似ている。家の匂いが好きか嫌いか、幹夫にはまだ決められなかった。

「……会いたい、って」

声に出したら、喉が震えた。会いたい。会いたい。会いたい。同じ言葉なのに、何度も言うたびに意味が変わる。寂しさが前に出たり、怒りが前に出たりする。言葉は、心の全部を運べない。

「でも……むかつく」

その言葉が出た瞬間、幹夫は少し笑ってしまった。自分が子どもっぽくて。子どもなのに、子どもっぽさを恥ずかしいと思ってしまう自分が、また子どもっぽくて。

笑って、泣きそうになって、顔を上げたときだった。畝の端で、葉がかすかに揺れた。揺れたのは、幹夫の呼吸のせいか、夜明けの温度差のせいか、それとも本当に風が目を覚ましたのか。

揺れは、少しずつ畑の奥へ広がっていく。まるで眠っていた風が、伸びをするみたいに。

幹夫は便箋をもう一度胸に当てた。風が動く。風が動くと、葉が鳴る。葉が鳴ると、畑は「生きている」とわかる。

——心も、きっと同じだ。動けば、痛む。でも動かなければ、ずっと固まったまま。

家へ戻る途中、幹夫は玄関の前で立ち止まった。戸の向こうに、父がいる。祖母がいる。そして、母の字が残した糸が、自分の手の中にある。

幹夫は深く息を吸い、戸を開けた。

朝食のあと、父が湯飲みを洗っている背中に向かって、幹夫は言った。

「……手紙、読んだ」

父の肩が、ほんの少し上がった。父は振り返らない。けれど、その背中が「聞いている」ことだけは、はっきりわかった。

「俺が読んじゃいけなかったのも、わかってる」

沈黙が落ちる。水の音だけが、やけに整然と続く。

「でも……母さん、来たいって」

その一言で、父の手が止まった。水道の音が止まり、家の中が急に広く感じられる。広いのに、息が詰まる。

父は、少しだけ顔を下げたまま言った。

「……幹夫」

幹夫は、その呼び方に心臓が跳ねた。父が自分の名前を呼ぶとき、そこにはいつも、言いかけて飲み込んだ何かが混じる。

「俺ぁ……うまくできん」

父はそう言って、しばらく言葉を探した。探して、見つからないまま、湯飲みを布巾で拭いた。幹夫は、その拭き方がいつもより丁寧なのを見てしまう。丁寧さは、誰かを傷つけないための努力にも見えるし、逆に、触れたくないものを遠ざける仕草にも見える。

「会わせたくないとか、そういうんじゃねえ。……ただ」

父はそこで止まった。止まって、唇を一度噛んで、ようやく言った。

「お前が、また置いてかれる顔をするのが……俺は、嫌だ」

その言葉は、幹夫の胸の奥の固まりに、真っ直ぐ当たった。痛いのに、壊れる痛みではなく、固まりがほどける痛みだった。

幹夫は、返事を探した。「大丈夫」と言えば嘘になる。「嫌だ」と言えば誰かが傷つく。だから、幹夫はただ、父の拭き終えた湯飲みを受け取り、机に置いた。

そのとき、祖母が何も言わずに、新しい茶を淹れた。湯気が立ち上り、茶の香りが部屋に広がる。茶の香りは、いつもより少し甘く感じた。気のせいかもしれない。でも気のせいで救われることもある。

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。温かい。温かさが、指先から少しずつ上がってくる。胸の奥に届くまでには時間がかかるだろう。でも、届く道筋があるとわかっただけで、幹夫は息がしやすくなった。

窓の外で、茶畑の葉が揺れた。風はもう、茶畑の奥で眠っていなかった。ゆっくりと動いて、葉を鳴らし、畝と畝の間を抜けていく。

幹夫は、その音を聞きながら思った。自分の心も、今はまだ、全部を言葉にできない。けれど、動き始めた。動くことは怖い。怖いけれど、怖いまま動けると知った。

湯飲みの縁に口をつけると、茶の苦味が舌に広がり、すぐに甘みに変わった。その変わり方が、どこか人の心の機微に似ている気がして、幹夫は目を伏せた。涙は出なかった。ただ、胸の奥が少しだけ、柔らかくなっていた。

 
 
 

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