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風車の羽根で温度をはかる日――ザーンセ・スカンス、雪の村

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月15日
  • 読了時間: 4分
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アムステルダムから電車で20分、ザーンダイク駅を降りると鼻の奥にココアの匂いがした。風向きが良いと、いまも製粉・製油の工場から甘い匂いが流れてくるのだという。木の橋を渡ると、川面はうすく凍り、緑の板張りの家風車がゆっくりと肩慣らしをしていた。吐く息が白い。手袋の中で指を組み直し、「寒い」と口に出したら、隣で歩いていた地元のおばあさんが「Gezellig, toch?(でも気持ちいい寒さでしょ)」と笑った。たしかに、景色のきれいな国の寒さには、ちょっとだけ甘さが混じっている。

最初の“やらかし”は、そのすぐあとだった。岸辺の凍った木道で足を滑らせ、バランスを取ろうとした瞬間、背負っていたカメラが胸にどん、と当たる。あわてて身を固くすると、風車小屋から作業服のおじさんが飛び出してきて「Oppassen!(気をつけて)」と声をかけ、バケツから撒き砂をひと握り。足もとにぱらぱらと砂が広がる。「これで氷は紙やすり」と肩をすくめ、さらにポケットから簡易の滑り止めを取り出して靴に装着してくれた。「借りといて。帰る時にここに置いていって」と、まるで傘を貸すみたいな調子だ。私は胸に手を当てて「Dank u」。砂の上で一歩、ちゃんと地面を踏めた。

匂いにつられて入ったのはスパイスの風車。内部は木組みがきしみ、臼が回るたびにシナモンとクローブが空中にほどける。くしゃみをこらえられずに「へっくし」とやると、案内役のミレイユが「Gezondheid!(お大事に)」と紙ナプキンを差し出し、臼の前に私を立たせてくれた。「ここ、耳を近づけると粉の音がするよ」。言われたとおり耳をすますと、サラサラと雪をこすったときのような、小さく柔らかい摩擦の音。外の寒気と、鼻腔に上るスパイスの温度が交互に入れ替わり、体の中が行ったり来たりした。

製材の風車にも寄った。川に浮かんだ丸太がレールに乗り、風車の力でのこぎり台が前へ後ろへ。ギコギコではなく、すい、すいと木が切れていく。見惚れていたら、木屑がマフラーにふわりと降りた。職人のピートが「おみやげ」と言って、ポケットから木くずの小袋をくれた。ピートの指先は樹脂で少し茶色い。「ここでは、いい匂いは仕事の勲章さ」と笑う。たしかにマフラーはほんのりパインの匂いがした。

風に耳を赤くしながら歩いていると、木靴工房の前に出た。デモンストレーションが終わったばかりで、職人が削りかけの木靴を高く掲げ、ぱこんと二度鳴らす。私は試し履きをしてみたが、足首の靴ひもが切れてしまった。あちゃ、と顔をしかめると、職人が端材からすっと細い革ひもを切り出し、穴に通してくれた。「これで今日の足は大丈夫」。さらにフェルトの中敷きを入れてくれて、ぴたりと音が変わった。コツ、コツ。寒い村で歩き方まで直してもらった気分。

お腹が鳴る時間、運河沿いの屋台でエルテンスープ(グリンピースの濃いスープ)を注文した。紙カップを両手で包むと、指先に血の気が戻ってくる。隣の家族はポッフェルチェスを山盛りにして粉砂糖を降らせている。ひと口頬張ると、雪の続きみたいに甘い香りが立つ。私が目を細めて見ているのを察したのか、母親が「半分、どう?」と皿をこちらへ寄せた。私はポケットからストロープワッフルを取り出し、同じく半分に折って皿の端に置く。見知らぬ者同士の**“ハーフ・フォー・ラック”**は、寒い日にいちばん効く。

凍った川面の端では、子どもたちが小さなソリを押して遊んでいた。ひとりの少年のマフラーがほどけ、顔の下でひらひら。私は近づいて「オランダ式の一回転」――端をひとねじりして襟の中へ通す――をやってみせる。少年は「Bedankt!」と照れくさそうに頷いた。その瞬間、背後で風車の羽根がゆっくり向きを変える。村全体の呼吸がひとつ、深くなった気がした。

帰り道、借りた滑り止めを木道の脇に戻し、砂のバケツのふちをぽんと叩いた。ちょうど夕暮れで、ガス灯のような街灯にオレンジの火が入る。風車は半分だけ雪をかぶり、凍った水面には鳥の足跡がつづいていた。ポケットの中には、スパイスの香る紙ナプキンと、パインの木くずの小袋と、革ひもの余り。どれも大ごとではないのに、さわると体温を返してくる。

駅へ向かう小道で、朝の“砂のおじさん”に会った。彼は手袋を外して親指を立て、私の足もとを一度見た――もう滑らない歩き方になっているか、確かめるみたいに。私は「今日は助かりました」と日本語で言い、英語で言い直すと、彼は「Here, we keep each other on our feet(ここでは、お互いの足を立たせるのさ)」と笑った。

ザーンセ・スカンスで覚えたのは、風景の見方より整え方だった。滑りかけた足に砂を、ほどけたマフラーにひとねじりを、切れたひもに革を、冷えた指に紙カップを。風車の羽根が風を“仕事”に変えるように、人の手つきが寒さを“居心地”に変える。

電車の窓に額を当てると、遠ざかる風車の羽根がゆっくり止まりかけていた。明日また回る準備をしているのだろう。私はフェルトの中敷きのぬくもりを靴底で確かめ、胸の中でそっとひと回し――オランダ式の結び目を結んだ。

 
 
 

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