飛ぶ雲の下で結び目をひとつ――サンクトペテルブルク《血の上の救世主教会》の午後
- 山崎行政書士事務所
- 9月16日
- 読了時間: 3分

グリボエードフ運河沿いを歩くと、雲が速い。北の町の空は、誰かが上から布を送っているみたいに、白と灰がさーっと流れていく。アパートの切れ間から、金とエメラルドの玉ねぎ屋根がいっぺんに現れた。近づくほどに模様は細かく、煉瓦の赤はしっとりと濡れて見える。ここが《血の上の救世主教会》――皇帝アレクサンドル二世が倒れた場所に、悲しみを抱き上げるように建てられた教会だと知っていても、最初に胸に来るのはやっぱり色のごちそうだった。
最初の“やらかし”は、運河の欄干でもらった。風でストールの端がねじれ、飾り格子の尖ったところに噛んだのだ。もたもたしていると、露店のバーブシュカが小さなбулавка(安全ピン)を差し出した。端をひとねじりして八の字で留め、「Готово(これで大丈夫)」と笑う。ピンの先に光が揺れて、雲がもう一枚軽くなる。
チケット売り場の列に並ぶ。手袋をはずした拍子に10ルーブル硬貨を落とし、石畳でコロコロ。前にいた少年がつま先でそっと止め、掌にのせてくれた。「Держи(はい、どうぞ)」。私は「Спасибо」と受け取り、礼にポケットののど飴を半分こ。飴の甘さが、北の空気にやっと馴染む。
内部へ入ると、空気の温度がひとつ下がった。壁も天井もモザイクでぎっしり、聖人の目が静かにこちらを見る。足音がひびかないのは、床の石がよく磨かれているからだろう。私は無意識に息を小さくし、色の粒を指の腹で撫でるように眺めた。
ここで二度目の“やらかし”。カメラのストラップの金具が緩み、ぶらりと危うい角度に。冷や汗をかいた私の横で、若い係員が細い輪っかのキーリングを取り出し、金具に通して簡易ロックを作ってくれた。「Так безопаснее(その方が安全)」と短く。金属の輪がチリと鳴り、心臓も元の場所へ戻る。
礼拝スペースの隅で、露店で買ったピロシキをこっそり食べかけていたら(※屋内ではしまいました、続きは外で)、隣のベンチの家族が紙袋を差し出す。「пополам?(半分こする?)」とお母さん。リンゴのピロシキを二つに割ってくれて、代わりに私はさっきの飴をもう半分。Half for luckは、ロシア語でもちゃんと効く。
外へ出ると、雲の速さが増していた。運河の脇でクヴァスを一杯。ところが、紙コップを握る角度が悪くて、茶色い泡がコートに一滴。あっと固まる私に、屋台の兄さんが無言で炭酸水を含ませた紙ナプキンを渡し、胸元をトントン。「Ничего страшного(たいしたことない)」。しみが薄くなると同時に、教会の金の十字架が雲の切れ目でぱっと明るくなる。
帰ろうとして、最後の小さな事件。毛糸の手袋の片方が見当たらない。諦めて歩きだすと、さっき安全ピンをくれたバーブシュカが店先から手袋を突き上げるように掲げ、「забыла!(忘れ物!)」。私が走り寄ると、彼女はピンの余りで手袋同士を細く結び、「Следующий ветер не унесёт(次の風では飛ばないよ)」。私は胸の前で手を合わせ、「Большое спасибо」。風は冷たいのに、手の甲がぽっと温かい。
教会を振り返ると、飛ぶ雲の合間に玉ねぎ屋根が重なって、金と青と緑が交互に息をしている。今日の小さな出来事――ストールの八の字、つま先で止められた硬貨、キーリングのチリ、ピロシキの半分こ、炭酸水のトントン、手袋の結び目。どれも大事件じゃないのに、モザイクの一粒みたいに胸の中で光っている。
サンクトペテルブルクで覚えたのは、豪華さとの距離の取り方だ。風と和解するピン、落ちる前に受け止めるつま先、ほどけそうなものをひと結び、そして少しずつ分け合うこと。次にまたこの運河沿いを歩くときも、私はきっとポケットのピンを確かめ、飴を一つ余らせておく。誰かの小さな“やらかし”を、飛ぶ雲の下でそっと直すために。





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