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駅の忘れ傘、案内所の笑ひ

 幹夫青年が静岡駅の北口へ戻つて来たとき、雨は「降つてゐる」といふより「そこに居る」といふ顔で、改札前の空気を湿らせてゐた。濡れたコートの匂ひ、床のワックスと雨水の混ざつた匂ひ、どこかの売店の珈琲の匂ひ――駅はいつでも色々な匂ひを抱へてゐるが、雨の日の匂ひは、その全部を一枚の薄い布で包むやうにする。

 幹夫は、改札を出て、ふと立ち止まつた。 手が空だつた。 いつもなら、右手にあるはずのものがない。 傘である。

 ――あ、と思ふ。 思つた瞬間、胸の内側がすこし寒くなる。雨の寒さではない。忘れ物をしたときの寒さだ。忘れ物といふものは、物を失くしたといふより、自分の段取りの悪さが露呈した寒さである。露呈するのが嫌で、人は「まあいいや」と言つてしまひたくなる。幹夫は、まさにその「まあいいや」で、これまで大抵の小さな失敗をごまかして来た男だつた。

 だが今夜は、傘がないと困る。 駅前の屋根は長くない。外へ出ればすぐ雨だ。 濡れるのは嫌ひではないが、濡れると帰つてからの面倒が増える。面倒が増えると、机の上の白い顔(返事の遅れた通知やら、読みかけの本やら)まで増える気がする。増える気がするだけなのに、増える気がしてしまふのが厄介だ。

 幹夫は、いつもの癖で、少しだけ斜に構へかけた。 ――傘など、所詮、ビニールの骨組みだ。 ――駅前で一本買へば済む。 ――失くした傘を探すのは、時間の無駄だ。 斜に構へると、いかにも達観したやうに見えて、実はただ恥をごまかしてゐるだけだといふことを、幹夫は最近少しだけ知り始めてゐた。

 そして、雨の日の駅は、斜に構へた顔をあまり信用しない。 床に映る灯りが、妙に正直だからである。 正直な光の上で嘘をつくと、靴音まで嘘になる。

 幹夫は、案内板を見上げた。 「忘れ物」――といふ字が目に入る。 忘れ物、といふ字は、いつ見ても肩身が狭い。まるで「忘れたのはお前だ」と、駅の方から指さされてゐる気がする。指さされるのが嫌で、幹夫は目を逸らしかけたが、逸らさずに歩いた。雨の日の石畳と同じである。急ぐと滑る。ここは、急がずに「正面から」行つた方がよい。

 案内所のカウンターには、年配の女がゐた。 制服の襟元がきちんとしてゐるのに、目がよく笑ふ。駅の係の笑ひは、商売の笑ひとも、友だちの笑ひとも違ふ。誰の味方でもない代りに、誰の敵にもならない笑ひである。あの笑ひに出会ふと、人は一寸だけ安心する。

 幹夫は、カウンターの前に立つて、いつもの癖で「すみません」を口にしかけた。 ところが、ふと、先の挨拶を思ひ出した。 挨拶を先に出すと、言ひ訳が少し引つ込む。引つ込んだ分だけ、胸が歩きやすくなる。

「こんばんは」

 自分の口から出た「こんばんは」が、駅の白い灯の下で、案外まじめに響いた。

 女は顔を上げて、すぐに返した。

「こんばんは。どうしました」

 どうしました――。 この「どうしました」は責めない。困りごとを、困りごとのまま置いてよいと言ふ声だ。幹夫は、その声に乗つてしまつた。

「傘を……忘れたみたいで。さつきまで持つてゐたんですけど」

「あら。忘れ傘はね、ここがいちばん多いのよ」

 女は笑つた。 笑つたが、からかふ笑ひではない。雨粒が屋根に当たつて弾むやうな、軽い笑ひだ。幹夫は、その軽さに救はれた。救はれると、人は不思議と正直になる。

「……ビニール傘です」

 幹夫が言ふと、女は、いよいよ可笑しさを隠さずに笑つた。

「うん。みんなそう言ふの。――でもね、ビニール傘にだつて、持ち主の顔があるのよ」

「顔……ですか」

「あるある。取つ手のところにテープ貼つてあつたり、シールがついてたり。傘って、みんな同じ顔してるやうで、案外ちがふの」

 傘に顔。 幹夫は、その言ひ方が気に入つた。 同じやうで違ふ――それは、幹夫が一番苦手な分野でもある。人間の顔も、言葉も、返事も、みんな同じやうに見えるときほど、選べなくなる。選べないから黙る。黙るから遅れる。遅れた自分を責める。――その循環に、今日は傘の話で風穴が開いた。

 女は、カウンター脇の札を指さした。

「傘はね、そこの『忘れ物コーナー』に並んでるの。いま拾ひ物の届いたのを見てみる? 今日、雨だから多いよ」

 幹夫は「お願いします」と言ひ、札の方へ歩いた。 そこには、傘、傘、傘。 透明の骨組みが、ずらりと列を作つてゐる。列の作り方が妙に立派で、まるで傘だけが模範生みたいである。模範生が並ぶのを見ると、幹夫はまた胸が狭くなりかけた。だが、よく見ると、どれも少しずつ違ふ。取つ手に小さな擦り傷があつたり、ビニールに細い線が入つてゐたり、先端が少し欠けてゐたり――立派に並んでゐても、立派に同じではない。

 幹夫の傘には、ひとつだけ目印があつた。 取つ手の根元に、茶屋でもらつた小さなシールが貼つてある。 何でもないシールだが、何でもないものほど、頼りになる。

 幹夫は列を端から端へ見て、やがてそれを見つけた。 小さな茶の葉の絵のシール。 見つけた瞬間、胸の奥がふつと温かくなつた。傘ひとつ見つけただけで温かくなるのは可笑しい。だが、可笑しい温かさほど、生活には要る。

「……これ、たぶん、僕のです」

 幹夫が持ち上げると、女がカウンターの向うから頷いた。

「よかつたねえ。ほら、顔があつたでしょ」

 幹夫は、思はず笑つてしまつた。 笑つてしまふと、駅の白い灯が少し優しく見える。優しく見えるのは灯のせゐではない。幹夫の目の角が、ほんの一寸だけ取れたのだ。

 女は、事務的な紙を一枚取り出し、さらりと言つた。

「一応、確認のためにね。お名前だけ、書いてもらへる?」

 来た。 名前。 幹夫は、名前を言ふのが苦手である。名を言へば、そこに自分の責任が生れる気がして、責任が生れると息が詰まる。――と、頭の中の裁判がまた開廷しかけた。 だが、女の笑ひがまだそこにゐる。笑ひがゐるうちは、裁判は声を潜める。

「……幹夫です」

 幹夫が言ふと、女は、紙に書きながら、自然に繰り返した。

「幹夫さんね。はい、ありがとうございます」

 たつたそれだけであつた。 責任の鈍い石が胸に落ちて来るかと思つたら、落ちて来なかつた。むしろ、名を呼ばれると、こちらの輪郭が少し整ふ。整ふと、歩きやすい。 名を名乗ると、逃げ道が塞がれるのではなく、行き道が一本出来る――幹夫は、今日また一つ、湯気みたいな実用を覚えた。

 幹夫が傘を畳み直してゐると、横から若い男がカウンターへ来て、焦つた声で言つた。

「すみません、傘……忘れて。青い柄のやつ、ありませんか」

 女は、さつきと同じ調子で返した。

「こんばんは。青い柄ね。探してみませう」

 幹夫は、その「こんばんは」が気持よく耳に残つた。困つてゐる人へ、先に挨拶を添へる。挨拶は、相手の困りごとを急に軽くする。

 幹夫は、列の端で少し逡巡して、それから、小さく声をかけた。

「こんばんは。……もし、よかつたら一緒に見ますか。青い柄、どのへんの青です?」

 若い男は、少し驚いた顔をして、それからほつとしたやうに笑つた。

「こんばんは。えっと、取つ手に青いテープが巻いてあるやつです」

「じゃあ……この列の真中あたり、かもしれません」

 幹夫は言ひながら、自分でも可笑しくなつた。 さつきまで自分の傘ひとつで胸がいっぱいだつた男が、いまは他人の傘を探してゐる。人間の心は、湯気みたいに形が変る。形が変つてしまへば、前向きも案外簡単だ。

 三十秒ほど探して、青いテープの傘が見つかつた。 若い男が「あ、それです」と言つて、少し大げさに頭を下げた。

「助かりました。……ありがとうございます」

 幹夫は、いつもの癖で「いえ」と言ひかけて、今日は挨拶に変へた。

「どういたしまして。雨、やまないですね」

「やまないっすね。でも……傘あるだけで勝ちっす」

 勝ち。 その言葉が、妙に清々しい。 大勝ちではない。傘が戻つただけの小勝ちである。だが、小勝ちは長持ちする。雨の日の石畳みたいに、そつと光る。

 幹夫は、傘を差して駅の外へ出た。 雨は相変らず降つてゐる。だが、降り方がさつきより柔らかい。柔らかいのは雨が変つたのではなく、幹夫の気分が一枚ほど薄くなつたのだらう。 傘のビニール越しに、駅前の灯がにじむ。にじんだ灯は、叱らない。叱らない灯の下なら、多少の遅れも、多少の忘れ物も、生活の範囲に収まる。

 幹夫は歩きながらスマホを出した。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。今日は傘の話だ。短くていい。濡れにくい言葉でいい。

 ――「静岡駅で傘を忘れた。案内所で笑ってくれて助かった。幹夫です、と言えた。」

 送信すると、画面が静かに戻つた。 雨は、まだ止まない。 だが、止まない雨の中でも、傘がある。笑ひがある。名を名乗る声がある。 それだけで、今夜の帰り道は、十分に明るい。

 
 
 

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