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駿府の春、屋台の湯気と“先の挨拶”


 幹夫青年が駿府城公園の方へ歩いて行つたのは、花を見たくて心が洗はれる――などといふ、世間受けのよい理由からではなかつた。むしろ、さういふ立派な理由を胸に入れると、帰り道には必ずそれが重たくなつて、結局自分の肩を叩きに来るのを知つてゐたのである。

 ただ、部屋にゐると自分の影が濃すぎる。 窓ガラスに映る横顔が、何か言ひ訳の用意ばかりしてゐるやうで、見てゐるだけで疲れる。疲れると、人は匂ひのある方へ逃げたくなる。幹夫が春の公園を選んだのは、つまり、匂ひが多いからだ。

 公園の入口へ近づくにつれて、湯気の匂ひが先に来た。 焼きそばの油、醤油を焦がした団子、甘い綿菓子、そしてどこかで煮えてゐる汁の匂ひ。屋台の匂ひは、決して上品ではない。だが、上品でないものほど、こちらの自意識を遠慮なく押しのけて来る。幹夫は、その遠慮のなさに救はれることがある。

 濠端の桜は、ちやうどよく咲いてゐた。 咲いてゐるといつても、写真のやうに完璧ではない。枝の先は少し乱れて、風に撓み、花びらがときどき水へ落ちる。落ちた花びらは流れに乗つて、たちまち次の花びらに押されて行く。花の方は賑やかだが、動きは静かだ。賑やかで静か――春の町のいちばん得なところである。

 人波の中に入ると、幹夫はいつもの癖で、少しだけ斜めにならうとした。 ――皆、楽しさうだ。楽しさうに見える顔をしてゐる。 ――楽しさうに見える顔は、いくらでも作れる。 さう思ふことで、自分が混ざれない寂しさを誤魔化す。誤魔化すと、また寂しくなる。幹夫は、この循環の名人であつた。

 けれど、今日は循環を少し止めたかつた。 止めるには、考へる前に何かをやるのがいちばん早い。 ――何か。 幹夫の目が、とある小さな屋台に止まつた。

 そこは、茶の屋台であつた。 派手な看板はなく、木の箱の上に茶缶が二つ三つ、紙コップが並び、湯気がふつふつと立つてゐる。湯気は、春の冷えに触れて、白い布のやうに揺れてゐた。屋台の中にゐるのは年配の女で、顔は日焼けしてゐるが目が明るい。明るい目は、客の財布を読むやうではなく、客の肩の凝りを読むやうに見えた。

 女は、通りかかる人に声をかけた。

「ほら、あったかいお茶。新茶、もう出てるよ」

 幹夫は、その「ほら」が好きだと思つた。 「いかがですか」より、「ほら」の方が肩がこらない。 肩がこらない言葉は、人生にも要る。

 だが幹夫は、すぐには近づけなかつた。 買へばよいだけなのに、買ふのが怖い。買ふと、自分が何かを「選んだ」ことになる。選ぶと、責任が生れる。責任が生れると、また逃げたくなる。 ――ばかばかしい。 ばかばかしいと分つてゐるのに、足だけが妙に素直にならぬ。

 幹夫が立ち尽くしてゐると、後ろから小さな子どもの声が聞こえた。

「おちゃ、のみたい」

「はいはい、あったかいのね」

 母親が笑つて、屋台へ寄る。 女が、紙コップへ茶を注ぐ。湯気が立つ。 子どもが両手で受け取り、ふうふう吹く。吹き方が真剣である。真剣なふうふうは、人間の正直さの形である。幹夫は、その正直さに少し負けた。

 負けたついでに、幹夫は一歩寄つた。 そして――ここが今日の肝腎だが――女がこちらを見て「いらつしやい」と言ふ前に、幹夫は先に言つてしまつた。

「こんにちは」

 声は思つたよりも、ちゃんと外へ出た。 自分の口から出た「こんにちは」が、春の湯気に混ざつて、妙に軽くなつた気がする。

 女は目を丸くして、それから笑つた。

「あら、こんにちは。いいねえ、先に挨拶してくれると、こつちも湯気が立つ」

 湯気が立つ。 幹夫は、その言ひ方に思はず笑ひさうになつた。 湯気と挨拶を一緒にする人間は、説教くさくない。説教くさくないのに、胸へ来る。

「……お茶、ください」

「はいよ。熱いから気をつけて。――新茶、香だけでも春が分るよ」

 女は、紙コップを差し出した。 幹夫が受け取ると、掌に熱がのる。熱がのると、胸の石が少しだけ動く。 ひと口含むと、青い香が鼻へ抜けた。苦みより先に、甘さが来る。甘さの後で、やつと苦みが追ひかけて来る。追ひかけて来ても、嫌な苦みではない。春の苦みである。

「うまいです」

 幹夫が言ふと、女は、いかにも手慣れた顔で頷いた。

「うまいでしょ。うまいものは、うまいでいいんだよ。難しくすると冷めるからね」

 幹夫は、その一言が、青葉おでんの女将の言葉とどこかで繋がるのを感じた。 難しくすると冷める。 冷めたら火を入れる。 湯気は戻る。

 ――静岡の町は、湯気で人を慰めるのが上手らしい。

 幹夫が紙コップを持つたまま立つてゐると、女がふと、屋台の脇の小さな箱を指さした。そこには短い札が挿してある。

  「先の挨拶で、春は早い。」

「これ、誰が書いたんですか」

 幹夫が聞くと、女は笑つた。

「さあね。誰かが書いて、勝手に置いてつた。ここ、みんな勝手にいいことするんだよ。祭りはさ、勝手がちやうどいい」

 勝手。 その言葉が、幹夫の胸にひつかかつた。 勝手といふのは、自己中心のことではない。誰かに許される前に、ちよつと明るい方へ動いてみる――さういふ意味の勝手もあるのだらう。

 幹夫は茶を飲み終へ、コップを捨てに行かうとした。 すると、脇のゴミ箱の前で、若い男が袋を落として困つてゐる。紙袋の底が破れて、飴玉がころころ転がつたらしい。男は慌てて拾ひ集め、顔が赤い。幹夫は、その赤さが他人事に見えなかつた。自分もよく赤くなる。赤くなつて逃げる。

 幹夫は、口から先に言葉を出した。

「……大丈夫ですか。拾ひますよ」

 言つてから、また照れた。 照れたが、手は動いた。 飴玉を二つ三つ拾つて、男に渡す。

「すみません、ありがとうございます……」

 男は恐縮した。 恐縮されると、幹夫はいつも「いえ、たまたま」と逃げたくなる。だが今日は逃げない。今日は、先に挨拶をした日である。先に挨拶をした日には、先に逃げないのが筋だと思つた。

「どういたしまして」

 幹夫が言ふと、男はほつとした顔になり、照れくささを紛らすやうに言つた。

「祭りって、こういうのありますよね」

「ありますね」

 幹夫も笑つた。 笑ひは大きくない。けれど、逃げの笑ひではない。 人の困つた顔を見て、少し手を出して、笑つてしまへる――それは案外、前向きの正体である。

 幹夫はまた屋台の方を振り返り、女に向つて言つた。

「ごちさうさまでした」

 女は、鍋の湯気の向うから手を振つた。

「はいよ。兄さん、いい顔になつたよ。――先の挨拶、明日もやんな」

 幹夫は、胸がむづがゆくなつた。 いい顔――などと言はれると、すぐ自分が嘘つぽくなる。 だが今日は、嘘つぽくなつた自分を叱らなかつた。叱ると、せつかく立つた湯気が消える。湯気は消えやすい。だから守る。

 濠端を歩くと、桜の花びらがまた一枚、幹夫の肩へ落ちた。 彼はそれを払はず、そのまま歩いた。 肩に花びらがゐるぐらゐで、人生は重くならない。 むしろ、肩の上に春が一枚あると、少しだけ背筋が楽になる。

 公園を出て、街の灯の方へ戻る途中、幹夫はスマホを取り出した。 返事を先延ばしにしてゐた相手の名前が、画面の上にある。 幹夫は、一度だけ深く息を吸つた。 息を吸ふと、新茶の香が、まだ鼻の奥に残つてゐる。

 そして、短く打つた。

 ――「こんにちは。いま駿府の方にゐた。元気? 今夜、ちゃんと話す。」

 送信してしまふと、胸の内が少し軽くなつた。 軽くなつたからといつて、問題が消えたわけではない。 だが、問題を抱へたままでも、先に挨拶ぐらゐはできる。 挨拶を先にできると、不思議に、次の一歩も先に出る。

 幹夫青年は、駿府の春の屋台の湯気の中で、先の挨拶をひとつ覚えた。 それは立派な改心ではない。 けれど、明日を少し早くするには、十分に明るい稽古であつた。

 
 
 

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