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駿府城のお堀に沈む月

 静岡市の中心街には、夜になっても、昼の名残がまだ薄く漂っていた。

 ビルの窓に残る明かり。 信号機の赤と青。 自転車のベル。 遠くの車の音。 店じまいを終えたシャッターの冷たい光。

 それらはみな、眠りきれない町のまばたきのようだった。

 けれど駿府城公園のお堀のそばまで来ると、幹夫少年はいつも少し息をひそめた。

 町の音が、そこで急に遠くなる気がするのだ。

 道路を走る車も、人の話し声も、ビルの灯りも、確かにすぐそばにある。それなのに、お堀の水面を見つめていると、今いる町の下に、もうひとつ別の町が静かに重なっているように感じられた。

 その夜、月は丸かった。

 幹夫は塾の帰り道、少しだけ遠回りをして駿府城公園へ来ていた。母にはまっすぐ帰ると言ってあったから、本当は長く立ち止まってはいけない。

 けれど幹夫は、どうしてもお堀の月を見たかった。

 昼間、学校で友だちが何気なく言った言葉が、胸に刺さったままだった。

 「幹夫って、昔のことばっかり気にするよな」

 笑いながら言われた言葉だった。悪意はなかったのかもしれない。けれど幹夫には、その一言が小さな棘のように残った。

 昔のことばかり気にする。

 そうなのだろうか。

 幹夫は、古い石垣や、使われなくなった道具や、誰も読まなくなった案内板を見ると、なぜか胸が苦しくなった。そこにいた人のこと、そこを通った足音のこと、消えていった声のことを考えてしまう。

 でも、それは変なことなのだろうか。

 今の町を生きるには、古いものを気にしすぎないほうがいいのだろうか。

 幹夫は、答えを持たないまま、お堀の水面を覗き込んだ。

 月が映っていた。

 最初は、いつもの月だった。

 夜空にある月と同じ大きさの、白く揺れる丸い光。水面が風に震えるたび、月も少し崩れ、また元の形に戻る。

 けれど、その夜は少し違っていた。

 お堀の月が、ゆっくり大きくなりはじめたのだ。

 幹夫は目をこすった。

 空の月はそのままだった。静かに高く、雲のない夜に浮かんでいる。けれど水面の月だけが、少しずつふくらんでいく。

 茶碗ほどの大きさから、盆ほどに。 盆ほどの大きさから、池いっぱいの白い光へ。

 お堀の水面が、月そのものになっていくようだった。

 幹夫は息を止めた。

 白い光はまぶしいのに、目を刺さなかった。むしろ、心の奥を静かに照らすような光だった。幹夫は欄干に手をかけ、そっと身を乗り出した。

 その瞬間、水面の月が、音もなく沈んだ。

 いや、沈んだのは月ではなかった。

 幹夫の視線のほうが、水の奥へ吸い込まれていったのだ。

 お堀の底が見えた。

 そこには、泥や石だけがあるのではなかった。

 町があった。

 静かな、昔の城下町が眠っていた。

 幹夫は、声を出せなかった。

 水の奥に、細い道が見えた。道の両側には低い家並みが続き、格子の戸や、瓦屋根や、軒先の提灯がぼんやりと光っている。人影もあった。けれど皆、眠っているように静かだった。

 魚が屋根の上を泳いでいた。 月の光が、井戸の中から立ちのぼっていた。 古い橋の欄干には、藻のような影が絡んでいた。

 それは現実の町ではない。 けれど、夢だけとも言えなかった。

 幹夫にはわかった。

 これは、お堀が覚えている町なのだ。

 今の道路の下に。 公園の芝生の下に。 ビルの影の下に。 人々が急いで歩く舗道のさらに下に。

 昔の城下町が、静かに折り重なって眠っている。

 幹夫は水面へ向かって、小さく言った。

 「そこに、誰かいるの?」

 水の奥で、提灯がひとつ揺れた。

 すると、道の端に立っていた小さな影が顔を上げた。

 幹夫と同じくらいの年の子どもだった。

 髪を短く結い、簡素な着物を着ている。足もとは草履で、手には小さな竹籠を持っていた。その子は幹夫を見上げるようにして、穏やかに笑った。

 「おまえは、上の町の子か」

 声は、水を通して聞こえた。

 少しくぐもっていたが、不思議とはっきり届いた。

 幹夫はうなずいた。

 「君は……下の町の子?」

 「そうかもしれぬ」

 その子は、自分でもはっきりわからないように首をかしげた。

 「わしらは、もう町ではなく、町の記憶だから」

 町の記憶。

 幹夫は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 水の底の子どもは、道を歩きはじめた。幹夫の視線も、それに引かれるように水の奥へ進んでいった。

 そこには、いくつもの時間が重なっていた。

 魚を売る声がした。 鍛冶屋の槌の音がした。 茶を運ぶ足音がした。 雨に濡れた馬の匂いがした。 誰かが戸を閉める音がした。 子どもが母を呼ぶ声がした。

 けれどそれらは、どれも遠かった。

 はっきり聞こえるのに、触れようとすると水草のように指の間をすり抜けてしまう。幹夫は、胸の奥が少し痛んだ。

 生きていた時間は、こんなふうに薄くなってしまうのだろうか。

 水の底の子どもは、古い家の前で立ち止まった。

 軒先に女の人がいた。火鉢のそばで布を縫っている。隣では年老いた男が、何かを数えるように指を折っていた。奥の部屋では小さな子が眠っている。

 「ここに、家族がいたの?」

 幹夫が聞いた。

 水の底の子どもはうなずいた。

 「いた。けれど名は、もう上の町には残っておらぬだろう」

 「寂しくないの?」

 幹夫は思わず聞いた。

 その子は少し考えた。

 「寂しい時もある」

 その答えは静かだった。

 「だが、名が消えても、暮らしはすぐには消えぬ。米を炊いた湯気。雨戸を閉める手。泣いた夜。笑った朝。そういうものは、石や水や土の中に少しずつ残る」

 幹夫は、お堀の石垣を見た。

 月の光に濡れた石が、いくつも積み重なっている。

 石のひとつひとつは黙っている。 けれど黙っているだけで、忘れているわけではないのかもしれない。

 水の底の町を進むうちに、幹夫は不思議なものを見た。

 古い城下町の道の上に、透明な線のように現在の道路が重なっていた。今の信号機の赤い光が、水の中では淡い花のように揺れている。ビルの輪郭が、古い屋根の上に薄く重なり、コンビニの明かりが昔の提灯と並んで見えた。

 昔の町と今の町は、別々にあるのではなかった。

 消えた町の上に、新しい町がただ乗っているのでもなかった。

 幾重にも、幾重にも、透き通った布のように重なっていた。

 幹夫は、その重なりを見て胸が震えた。

 都市とは、地図に描かれた現在だけではないのだ。

 今日歩いた道の下には、昨日の道がある。 昨日の道の下には、もっと昔の道がある。 その下には、誰かの願いがあり、汗があり、恐れがあり、生活がある。

 上の町が明るくなるほど、下の町は見えにくくなる。けれど、見えないからといって、なくなったわけではない。

 水の底の子どもが、幹夫を見上げた。

 「上の町は、忙しいか」

 幹夫はうなずいた。

 「うん。みんな急いでいる。車も、人も、信号も。ぼくも、ときどき急がないといけない」

 「なぜ急ぐ」

 「遅れるから。置いていかれるから。何かを間違えたら困るから」

 言いながら、幹夫は自分の胸の内を見られているような気がした。

 水の底の子どもは、少し笑った。

 「昔の町も急いだぞ」

 「そうなの?」

 「火を消す時。雨が来る時。商いの時。病人を運ぶ時。人はいつの世も急ぐ」

 幹夫は驚いた。

 昔の町は、もっとゆっくりしていたのだと思っていた。けれど、そこにも急ぐ足音があり、焦る心があり、明日を心配する人がいたのだ。

 水の底の子どもは続けた。

 「ただ、急いだあとに、月を見る者もいた」

 幹夫は水面の月を見た。

 大きな月は、お堀いっぱいに広がり、上の町と下の町の両方を照らしていた。

 「月は、上にも下にもあるんだね」

 幹夫が言った。

 「月は、時を選ばぬ」

 水の底の子どもは言った。

 「城の瓦も、町家の屋根も、今のおまえの顔も、同じように照らす」

 幹夫は、なぜか涙が出そうになった。

 自分が見ている月を、昔の誰かも見たのだ。

 同じ場所で。 違う時代に。 違う心で。

 悲しい夜に見た人もいるだろう。嬉しい夜に見た人もいるだろう。誰かを待ちながら見た人も、遠くへ行く前に見上げた人も、何も考えずただ白い光を眺めた人もいるだろう。

 そのすべての視線が、お堀の水に沈み、今夜だけ、幹夫の前に浮かび上がっている。

 幹夫は小さく言った。

 「ぼく、昔のことを気にしすぎるって言われた」

 水の底の子どもは黙って聞いていた。

 「でも、気になるんだ。古いものを見ると、そこにいた人がいなくなったことが悲しくなる。誰も覚えていない声のことを考えると、胸が苦しくなる」

 幹夫は、自分の声が震えていることに気づいた。

 「そういうのは、変なのかな」

 水の底の子どもは、少し首を横に振った。

 「変ではない」

 「本当?」

 「ただ、重い」

 その言葉に、幹夫は息をのんだ。

 慰めではなかった。けれど、ひどい言葉でもなかった。

 水の底の子どもは、静かに言った。

 「記憶に耳を澄ます者は、少し重くなる。見えぬものまで背負うからだ。だが、その重さがあるから、足もとを粗末にせずに歩ける」

 幹夫は、お堀の縁に置いた自分の手を見た。

 冷たい石。 その下に眠る時間。 さらにその下に重なる暮らし。

 自分の足もとは、思っていたよりずっと深かった。

 水の底の町では、静かに夜が更けていた。

 提灯の火が小さくなり、人影は家の中へ消えていく。商いの声も、槌の音も、子どもの笑い声も、少しずつ水の奥へ沈んでいった。

 幹夫は、もう少し見ていたいと思った。

 けれど、同時に、この町をずっと見つめていることはできないともわかった。人は、過去の中だけでは生きられない。上の町へ帰らなければならない。

 宿題もある。明日の学校もある。信号を渡り、ビルの横を歩き、今の人たちの声を聞いて生きていかなければならない。

 水の底の子どもは、幹夫の心を読んだように言った。

 「上へ戻れ」

 「君は?」

 「わしらは、ここに眠る」

 「ずっと?」

 「誰かが覗き込む夜まで」

 幹夫は胸が痛くなった。

 「また会える?」

 水の底の子どもは、笑った。

 「月が大きくなる夜があれば」

 「いつ?」

 「それは、わからぬ」

 その答えは、少し寂しかった。

 けれど幹夫は、それ以上聞かなかった。

 何でも確かめようとすると、かえって大切なものを壊してしまうことがある。幹夫は、これまでいくつもの不思議な夜を過ごす中で、それを少しずつ覚えていた。

 水の底の子どもは、最後に言った。

 「上の町を嫌うな」

 幹夫は驚いた。

 「嫌ってなんか……」

 「昔を思う者は、ときに今を責めすぎる。だが、今の町もまた、いつか記憶になる」

 幹夫は黙った。

 「上の町で泣く者もいる。笑う者もいる。働く者も、待つ者も、祈る者もいる。その声も、いつか水や石や土に沈む。だから、今も大切に見よ」

 幹夫は、胸の奥が静かに揺れるのを感じた。

 昔だけが尊いのではない。

 今も、いつか誰かにとっての昔になる。 今日の信号の光も、コンビニの白い灯も、急いで歩く人の靴音も、いつか都市の層のひとつになる。

 そのとき、誰かがそれを覗き込み、幹夫たちの町を思うかもしれない。

 そう考えると、現在の町が急にやわらかく見えた。

 幹夫は、深くうなずいた。

 「忘れないようにする」

 水の底の子どもは、少し困ったように笑った。

 「忘れてもよい。だが、時々思い出せ」

 その言葉は、どこか遠い雨の匂いに似ていた。

 忘れないことは難しい。 でも、思い出す道を持つことならできる。

 幹夫は、その言葉を胸にしまった。

 次の瞬間、お堀の底の町が揺れた。

 提灯がにじみ、道がほどけ、屋根が水草の影に変わっていく。水の底の子どもの姿も、月の光の中へ少しずつ薄れていった。

 「待って」

 幹夫は思わず手を伸ばした。

 指先が水面に触れた。

 冷たかった。

 波紋が広がり、大きすぎた月がいくつもの白い破片に割れた。

 気づくと、お堀にはいつもの月が映っていた。

 空の月と同じ大きさの、静かな白い月。

 水の底には、もう城下町は見えなかった。あるのは夜のお堀と、石垣の影と、揺れる街灯の光だけだった。

 幹夫はしばらく、その場に立っていた。

 手の先が濡れていた。 それだけが、今の出来事が夢ではなかったことを告げているようだった。

 公園の外では、車が走っていた。信号が変わり、人が横断歩道を渡っている。ビルの上の明かりがひとつ消えた。コンビニの前で誰かが笑った。

 いつもの静岡市中心街だった。

 けれど幹夫には、その下に眠る層が見えるような気がした。

 今の舗道の下に、昔の道。 昔の道の下に、人の足跡。 足跡の下に、土。 土の下に、さらに古い沈黙。

 町は、上へ上へと新しくなるだけではない。 下へ下へと記憶を深くしていく。

 幹夫は、ゆっくり歩き出した。

 帰り道、信号待ちをしながら、幹夫は道の反対側に立つ人たちを見た。会社帰りの人、買い物袋を持つ人、自転車を押す学生、犬を連れた老人。

 みんな、それぞれの今を生きていた。

 その姿が、幹夫には少しまぶしかった。

 この人たちも、いつか誰かの記憶になるのだろう。 自分もまた、町の層のひとつになるのだろう。

 それは少し寂しく、少し安心する考えだった。

 家に帰ると、母が台所から顔を出した。

 「遅かったね」

 幹夫は靴を脱ぎながら、少しだけためらった。

 お堀の月が大きくなったこと。 水の底に城下町が眠っていたこと。 昔の子どもと話したこと。

 話しても、うまく伝えられない気がした。

 だから幹夫は、ただ言った。

 「月を見てた」

 母は少し笑った。

 「寒くなかった?」

 「うん。少しだけ」

 幹夫は手を洗った。

 水道の水が指に触れると、お堀の水の冷たさを思い出した。大きな月。眠る町。水の底の子どもの声。

 上の町を嫌うな。

 幹夫はその言葉を、心の中でそっと繰り返した。

 夜、自分の部屋の窓から外を見ると、月はまだ空にあった。

 お堀に映った月より小さく、けれど確かに明るかった。町の灯りの上で、静かに浮かんでいる。

 幹夫は机の上のノートを開いた。

 そこに、今日の日付を書こうとして、手を止めた。

 日付を書けば、出来事は今日の中に閉じ込められる。けれど今夜見たものは、今日だけのものではなかった。何百もの夜が重なり、無数の人の視線が沈み、それがたまたま幹夫の前に開いたのだ。

 それでも、幹夫はノートに一行だけ書いた。

 お堀の底に、町が眠っていた。

 それ以上は書かなかった。

 書きすぎると、消えてしまいそうだったから。

 幹夫は鉛筆を置き、窓の外を見た。

 都市は眠っているようで、眠っていない。 過去も、現在も、まだどこかで息をしている。 人の声は消えても、石が覚え、水が覚え、土が覚えている。

 そして、ときどき月がそれを照らす。

 幹夫少年は、目を閉じた。

 胸の奥に、お堀の水が静かに広がっていた。そこには、小さな月が映っていた。月の下には、昔の城下町が眠り、さらにその上には今の町の灯りが揺れていた。

 幾重にも重なる都市の層。

 その一番上で、自分は今日を生きている。

 幹夫は、それが少し怖く、少し誇らしかった。

 やがて眠りに落ちる前、幹夫は心の中で水の底の子どもに言った。

 また、思い出すよ。

 返事はなかった。

 けれど遠くで、水面が小さく揺れたような気がした。

 駿府城公園のお堀には、その夜も月が映っていた。 空の月と同じ大きさの、静かな月だった。

 けれど、お堀の底では、昔の城下町が眠りながら、次に誰かが覗き込む夜を待っていた。

 
 
 

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