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駿府城のベンチで、私は善人になりそこねた

 私は、善人になりたかったのである。いや、善人になりたい、と言ってしまうと、もうそれだけで嘘くさくて、顔が赤くなる。善人に憧れる人間ほど信用できない、というのが私の古い持論で、私はその持論の持ち主である自分を、これまた信用していない。こういう具合だから、私は自分の胸の内でさえ、うっかりまっすぐな願いを言えない。

 その夕方、私は駿府城公園の濠のそばのベンチに、まるで罰として座っていた。静岡の街は、ちょうど「それらしい暮れ方」をする。青葉通りのほうから光がのびて、車の音が遠くで馴れて、風が少しだけ塩気を含む。観光客の声が薄くなり、かわりに烏の声が増える。私はこういう時間が好きだ、と言いたいのに、好きだと言うとまた、私が少しは人間らしい趣味を持っているみたいで腹が立つ。だから私は、ただ「寒い」と言って、首をすくめていた。

 濠の水は黒く、鯉がいるのかいないのか、わからない。わからないが、ときどき水面が丸く動く。丸く動くたび、私は自分の心臓の鼓動を思い出す。心臓もまた、理由なく丸く動く。理由のないものほど、人を追いつめる。

 ベンチの端に、紙コップが落ちていた。誰かが飲んで捨てたのだろう。私は拾おうと思った。拾ってゴミ箱へ捨てれば、それだけで世の中が一ミリだけ綺麗になる。ああ、こういうのを私は、善人と呼びたいのだ。呼びたいのだが、その瞬間、胸の奥にいやな声がした。

 ――拾ったところで、お前はそれを誰かに見せたいんだろう。

 見せたい。ええ、見せたい。見せたいというより、見られたい。いっそ「見られたい」と大声で言ってしまえば、私も救われるのだろうか。救われるどころか、ますます救いが遠ざかるのが私の人生である。私は紙コップに手を伸ばしかけて、やめた。やめた自分を、私はまた嫌いになった。

 そこへ、背広の男が通りかかった。若い会社員らしい。歩き方が早いのに、顔がぼんやりしている。携帯を見ながら、濠の縁ぎりぎりを歩く。危ない。危ないと思いながら、私はなぜだか少し期待した。――落とせ。落とせば、私が拾える。拾えば、私が善人になれる。

 ひどい話だ。人の不幸を待っている。しかも、善人になるために。私は自分の汚さに気づいて、頭の中がかっと熱くなった。けれどもその熱さのまま、現実は私の期待に忠実だった。

 男は、すとん、と何かを落とした。財布かと思った。私は心の中で、いまの自分の醜さを認めながらも、膝が勝手に動いていた。拾う。拾って呼び止める。正しく、堂々と、善人らしく。

 ところが、拾い上げてみると、それは定期入れだった。透明なケースに、社員証が入っている。写真の男は、いま目の前で携帯を見ている男と同じ顔をしている。すこし情けない顔で、笑っている。私はその写真の笑いに、なぜだか腹が立った。笑っているからではない。写真が笑っていられる程度に、彼はちゃんと生活しているのだ。ちゃんと生活している者は、それだけで私を責める。

 私は立ち上がった。呼び止めるだけだ。たったそれだけの行為だ。だが、その「たったそれだけ」の前で、私の自意識が一斉に立ち上がった。

 ――今呼び止めたら、相手は「ありがとうございます」と言うだろう。

 ――その「ありがとうございます」を、お前は胸の中で何度も反芻するだろう。

 ――帰り道に、鏡の前で、少しだけ良い人の顔を作るだろう。

 ――明日、また落ち込んでも、「昨日の俺は善人だった」と自分を慰めるだろう。

 ――つまり、お前は善行を道具にする。

 道具にする。私はその言葉にやられた。道具にするのは私の得意技だった。人の好意も、人の不幸も、自分の涙さえ、私は道具にする。道具にした瞬間、世界は自分の舞台に変わる。私は舞台に立つのが苦手なくせに、舞台を作るのだけは上手い。

 男は、定期入れを落としたことに気づかず、もう十歩ほど先へ行っていた。私は追いかければよい。追いかけて、肩を叩けばよい。叩いて「落としましたよ」と言えばよい。言えばよいのに、私は足が出ない。善人になれないのではない。善人になる自分を、私は見たくないのだ。善人になった瞬間の自分の顔が、気味が悪いのだ。

 私は、定期入れを握りしめたまま、ベンチの前で棒立ちになった。濠の水面が、少し波立った。鯉が跳ねたのかもしれない。私は鯉に嫉妬した。鯉は跳ねるだけで、いい。私は跳ねる前に、理由を並べる。

 男は曲がり角へ行きかけた。ここで逃せば、私はどうする。定期入れを交番へ届ける? それも善行である。だが、交番へ行く私の姿を想像すると、またいやな甘さが込み上げる。「立派ですね」と言われたい私が、もうもうと立ちのぼる。私は、そういう自分が心底嫌いなのだ。

 結局、私は卑怯な手を使った。

 私は、男の進行方向へ、定期入れを軽く放った。放ったと言っても、投げつけたのではない。転がした。石ころのふりをさせるように、ちょい、と足元へ滑らせたのだ。うまく行けば、男が自分で見つける。私はただ、何も知らない顔でそこにいる。善人にならずに済む。――私は、善人になりそこねることに成功しようとしたのである。

 定期入れは、情けない音を立てて、タイルの上を少し滑り、男の靴の前で止まった。

 男は足を止め、定期入れを見た。首をかしげた。拾った。開いた。自分の社員証を見て、顔色が変わった。そして、くるりと後ろを向いた。私はベンチの前で、間抜けな顔をして立っている。逃げ場がない。

 男は私に近づいてきて、少し息を弾ませて言った。

「すみません、これ、落としてたみたいで……あの、さっき、落ちる音しました? もしかして、拾ってくれました?」

 私は言葉が詰まった。私は善人になりたくなかったのに、相手は私を善人にしてしまう。相手の善意が、私の卑怯を照らしてしまう。私は、咄嗟に最低の返事をした。

「いや、……たぶん、そこに落ちてましたよ」

 男は「えっ」と言い、私の顔を見た。私の顔はきっと、変な顔だったに違いない。善人の顔でもなく、悪人の顔でもなく、ただ、自分の魂の汚れを隠そうとして失敗した顔である。男は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに、救いのように笑った。

「そうですか……よかった。ありがとうございます」

 ありがとうございます。来た。私の恐れていた言葉が、来た。私は胸の中で、それを握りしめてしまいそうになった。握りしめた瞬間、私はまた私の舞台を作ってしまう。だから私は、笑ってはいけない。感動してはいけない。私は、できる限り無表情で、軽く頭を下げた。

「いえ」

 男は、礼を言いながら去っていった。去っていく背中は、私の心配をよそに、すこぶる軽かった。自分の定期入れが戻った、それだけで、彼の世界は元通りになる。元通り、という言葉が私には眩しい。私の世界は、何が戻っても元通りにならない。私はいつも、元通りであることに失敗している。

 男が見えなくなると、私はベンチに座り込んだ。膝が少し震えていた。善行のために震えたのではない。卑怯が露呈したために震えたのだ。私は空を見た。雲の切れ目があって、そこに星が一つ見えた。静岡の空の星は、東京より少し強い。私は星に向かって、心の中で言い訳をした。

 ――私は善人になりそこねた。

 ――しかし、善人になりたくなかったのは、私が自分の汚さを知っていたからだ。

 ――汚さを知っている者は、少しは救われるのではないか。

 こういうところが、もう、いけないのだ。救いを欲しがっている。救いを欲しがる自分を、私は殴りたい。けれども殴れば、痛いのは私である。私は殴ることもできず、ただ濠の水を見ていた。

 そのとき、さっきの紙コップが、まだベンチの端にあるのに気づいた。私は急に腹が立った。あれほど拾えなかった紙コップが、いま私を嘲っている。私は立ち上がり、紙コップを拾った。拾って、近くのゴミ箱へ捨てた。捨てた瞬間、胸の中に、いやな甘さが少しだけ湧いた。私は、すぐそれを踏みつぶすように、早足で歩き出した。

 帰り道、私は何度も思った。善人とは、何だろう。善人は、きっと、私のように善人を考えない。考えないで、手が動く。私の手は、考えすぎて動けなくなる。動けなくなってから、ようやく、変な形で動く。私は善人になりそこねたのだ、と言いながら、その「なりそこねた」を、どこかで美化している。いやらしい。どうしようもない。

 それでも、あの男の「ありがとうございます」の声が、耳の奥に残っていた。残っていること自体が、私には恥ずかしかった。恥ずかしいが、消えない。消えないものは、私にとって、たぶん少しだけ本当なのだ。

 私は明日も、駿府城のあのベンチに座るかもしれない。座って、また善人になりそこねるかもしれない。けれども、そのたびに紙コップを拾えるようになったら、まあ、それでよい。そういうふうにしか、私は生きられない。善人にはなれない。だが、善人になりそこねる恥を、少しずつ小さくしてゆけるかもしれない。

 静岡の夜は、相変わらず、湿った絹のように肌に触れた。私はその湿り気を、嫌いではない。嫌いではない、と言ってしまった。――ああ、また私は、少しだけ人間らしいことを言ってしまった。

 
 
 

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