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駿河湾の深海列車



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静岡の海岸沿いには、ふだんは青や碧のはるかな海が見渡せます。けれど、満月の晩ともなれば、波の合間に不思議な輝きが広がると噂されていました。その名も**「深海列車」**――いつしか漁師や古老たちは、そう呼ぶようになったのです。

 ある月の夜、海辺の岩場に、ひとりの青年が立っていました。彼は自分がなぜここにいるのかさえわからないほど、記憶の糸を失っていました。名前はかろうじて覚えていても、どこで生まれたのか、どういう人生を送ってきたのか、さっぱり思い出せないのです。

 潮騒(しおさい)の音が繰り返し耳に寄せては返し、白い波頭(なみがしら)が月光を受けて銀色の光をまとうと、突然、海面がゆるやかにきらめきはじめました。青年の目には、それがまるで青白い光のレールのように見えます。波と波のあわいを縫うように、闇の底から大きな車体が浮かびあがってきました。かすかな汽笛(きてき)のような音も聞こえます。

「これが……深海列車?」

 青年は言葉を失いながらも、ひとりでに足が動いていました。列車はまるで待っていたかのように、車両の扉を開いています。扉からは淡い緑色の灯(ひ)がもれて、あたりの夜気をさらに神秘的に染めあげていました。

 列車の中は、不思議な光に包まれていました。車窓の向こうには、駿河湾の深い海が広がっているらしく、藍色の水の中に、いくつもの影がゆらゆらと漂っています。海藻(かいそう)のように長い髪を揺らす人魚めいた影もあれば、巨大なイカのように触腕をふわりと伸ばす生きものも見えるのです。

 車内を奥へと進むと、妙に懐かしいような香りが鼻をくすぐります。それは潮の香りにまじった、どこか遠い故郷(ふるさと)のにおいのようでもありました。青年がふと視線をめぐらせると、座席には客らしき姿がまばらに座っていますが、どこか異形(いぎょう)の姿をしているようにも見えます。人間ではないような体の構造の乗客や、透明なクラゲの体をもったような者までいます。

「あなたは……記憶を探していらっしゃるのね。」

 隣の席から、しずかな声がかかりました。振り向くと、そこには白くほのかに光る髪をした少女がいました。彼女の瞳は、まるで深い海底のように透き通っていて、そこには不思議な哀しみと優しさが同居しています。

「どうしてわかるんですか?」 「この列車に乗ってくる人の多くは、何かを探しに来るの……。ここは海の底にある記憶や夢、そんなかけらが集まる列車だから。」

 少女は彼に、小さな貝殻を渡します。その貝殻の中からは、かすかな潮騒の音が響いていました。耳を当てると、自分の名を呼ぶ声が聞こえるような、そんな錯覚に陥ります。

 やがて列車が少し速度を落としはじめました。車窓の向こうの暗い海には、無数の星のようなプランクトンの光が輝いています。その一帯だけが淡い金緑色(きんりょくしょく)に満ち、まるで夜空が海中へ逆さまに落ちたかのようでした。青年はその光景に目を見はりながら、自分の胸の奥にある記憶の破片(かけら)が、少しずつざわめき始めるのを感じます。

 貝殻を手にぎゅっと握りしめると、かすかな映像が浮かびました。子どものころ、波打ち際で遊んでいた自分。それを笑顔で見守る母親。父親は漁船を操り、たくましい背中で家族を支えていた――。もう断片的な映像だけれど、確かにあたたかな記憶です。

「思い……出せそうかしら?」

 少女が静かに問いかけます。青年ははにかむように笑って、うなずきました。

「ええ、少しずつ、ですけど。この貝殻のおかげかもしれません。」

 少女は軽くほほ笑んで、「よかった」とひと言だけそっと呟(つぶや)きました。それから、顔を少し曇らせるようにして続けます。

「でも、この列車は満月の夜にしか走れないの。もうすぐ停車したら、きっと再び海底深くに沈んでしまうわ。どこで降りるかは、あなたの自由……。けれど、記憶が戻るまで乗っていたいと思うなら、次の停車駅でもう一度考えて。」

 列車の通路には、さまざまな乗客が行き交う姿が見えます。魚のヒレのような耳をもつ青年や、貝殻で作った帽子をかぶった老爺(ろうや)、あるいはふわふわと宙を泳ぐように動くクラゲ人形の子ども……。そのたびに、不思議な会話や温かなまなざしが交わされ、青年は自分がこれまでに見失っていた「世界の広がり」を思い出していくように感じました。

 ある車両の奥には、古い螺旋階段(らせんかいだん)があり、その先には船窓(ふなまど)のような大きな窓がはまっています。そこから覗(のぞ)く海底には、沈んだ船の影があり、サンゴや海藻がふんわりとたなびいています。青年は見覚えのあるような船の形に、はっと胸が騒ぎます――それは、かつて父が乗っていた船に似ているのです。

 ふと、見上げた天井には、満月の光が差しこんでいるかのような円窓がありました。深い海を貫くような月明かり。いつしか青年の瞳は涙で曇っていました。

「ああ……、たしかにあのとき、嵐で船が転覆して、父は……」

 ぽろりと落ちた涙は、海水と混ざり合うようにして宙を漂いました。そして、彼の中にあった喪失感や悲しみが、波紋となって拡がっていきます。

 列車は満月の夜の終わりを告げるかのように、静かに停車しました。車内放送のような、どこからともなく響く声が告げます。

「次の停車駅は、思い出の岸辺でございます。降りられる方はお急ぎくださいませ……」

 すると、例の白髪の少女が再び姿を見せました。彼女は窓の外を見つめながら、そっと語りはじめます。

「わたしはこの列車の一部みたいな存在。ずっと深海で、記憶や夢を運んできた。でも、あなたがここから降りるなら、その先の世界で歩みを続けるのよ。あなたの父上やお母様が、きっと見守ってくれている。だから、どうか、自分を見失わないでね。」

 青年は目をふせ、貝殻を握りしめながら、これからの道を考えます。記憶を取り戻したら、自分はどう生きていけばいいのだろう――。けれど、不思議と心は落ち着いています。涙をこらえ、青年は静かに席を立ちました。

「ありがとうございます。もう行かなきゃ……。きっと、また会える気がします。」

 少女は微笑むと、青年に返すように貝殻をそっと指し示しました。

「それはあなたのものよ。いつか、また満月の夜に深海列車を思い出すとき、貝殻を耳に当ててみて。きっと潮騒の音とともに、わたしたちの声が届くでしょう。」

 満月の夜が明けるころ、青年が海岸に立っていた場所には、もう列車の姿はありませんでした。遠くには、静かに明けゆく空と、うっすらと橙(だいだい)色に染まりはじめる水平線が見えるばかり。いつもの海の風景と変わらないはずなのに、彼の心には確かに新しい光が灯っていました。

 掌(てのひら)の中の貝殻をそっと耳に当てると、潮騒とともに、深海列車の車輪の音がかすかに響いてくるように感じます。そこには亡き父の声も混じっているかもしれないし、謎多き乗客たちの囁(ささや)きが交ざっているかもしれません。けれど、それはもう悲しみだけの響きではありませんでした。

「これからは、あの海で生きていこう。かつて父が教えてくれた勇気や優しさを、今度は自分が誰かに渡せるように……」

 青年はそう決意し、貝殻を大事に胸ポケットにしまい込みました。白んでいく朝の光は、駿河湾の穏やかな波を優しく照らし出し、その海面が青年の足下まで、きらきらとした光の帯を送り届けています。まるで新しい旅立ちを祝福するかのように。

――深海列車は満月の夜、失われた記憶を探す人々を導くため、かすかな汽笛を鳴らして走る。駿河湾の深い青の底で、夢と想いが交差する限り、その列車はきっとどこかを走り続けるだろう。

 
 
 

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