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黄昏の綴じ糸

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月23日
  • 読了時間: 5分

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 三保の松原のいちばん端は、夕方になると海のノートの角のように少し丸く見えます。幹夫はそこへ来て、いつもの地図帳をひらきました。表紙には〈静岡市・風と水の地図〉。 一ページ目——風の地図。 二ページ目——森の水の字。 三ページ目——海の拍子。 四ページ目——砂のアルバム。 五ページ目——光の地図。 そして、まだ白い六ページ目に、鉛筆でそっと題を書きます。〈黄昏(たそがれ)の綴じ〉。

 海は、銅板を薄く延ばしたみたいな色になって、細い波が端から端まで小さな糸を引きました。沖の黒い岬は、糸巻きの影のようにいくつも重なっています。「きみ、きょうは本を閉じに来たんだね」 波が低い声で言いました。寄せるときは〈タ〉、返すときは〈ン〉。「うん。光のページまで書いたから、まとめ方を教わりに」「それなら夕日のところへ行くといい。あのひとは、この海でいちばん古い製本師(せいほんし)だ」

 幹夫は松の根をまたいで、小さな岬の先へ出ました。風が塩の匂いでポケットをふくらませ、砂の粒がぱらぱらと靴の縁へ当たります。 そのとき、低く傾いた太陽が、波の上へひと筋の道を落としました。道の縁は金色のほこりで縫われています。「幹夫くん」 光のほうから、あたたかい声がしました。「君は風の言葉も、水の文字も、波の拍子も、砂の記憶も、影の時刻も、まっすぐに集めてきた。最後は、それらをほどかずにひとつに綴じる番だよ」「どうすればいいの?」「夕焼けは糊(のり)だ。薄い橙(だいだい)の液で、君のページの角と角を貼り合わせる。だが、貼り合わせるまえに余白を作ること。余白がない本は、のちの風で割れてしまう」

 幹夫は六ページ目に白い空地を残し、五つのページの要点を短い言葉に結びました。〈風=道しるべ〉〈水=文字(もじ)〉〈海=拍子〉〈砂=配達〉〈光=時刻〉 そして、余白にだけ鉛筆を置かず、静かに夕日を見ます。波の縁はすこし紫に変わり、松の影が長くのびて、幹夫の足跡をやさしく跨(また)ぎました。

 まもなく、白い点線が砂の上に現れました。スナガニです。どうやってここまで来たのか、殻を小さくかちかち鳴らしながら言いました。「配達だよ。浜のアルバムから、今日の薄い写しを持ってきた。ここに重ねると、夕日の糊がよく利く」 蟹は砂をつまんで、幹夫のページの余白へ、ちいさな点を何個か打ちました。「ありがとう」「礼なら、波の足もとに言っておくれ。わたしたちは潮の郵便で来たのさ」 蟹は丸い印を二つ打って、松の影の向こうへ走りました。

 そこへ、パラソルの金具を思わせる澄んだカチンが、遠い浜のほうから聞こえました。用宗の白い指揮者たちは、もう畳まれはじめたのでしょう。「夕方の拍子はになる」と海が言いました。「タン・タン?」「そう、日が沈む練習の拍だ。あれは町じゅうに伝わる。バスの発車も、港のクレーンの首振りも、台所の皿の音も。だから綴じる仕事は、二のリズムでやるといい」

 幹夫は鉛筆を持ち、ページの下に二つの小さな丸を書きました。〈二=しずむ/しずむ〉「この丸のあいだに、名前の影を置きなさい」 ふいに、駅北口の三角地のひまわりの声が耳の奥でしました。「正午の鐘の続きだよ。夕べにも鐘はいる」 幹夫は身をすくめて、地面に落ちた自分の影を見ました。影は長く細く、波の道の手前で揺れています。そっと足を動かし、二つの丸のあいだに影の中心を合わせます。 ——カン。 音は胸の内だけで鳴り、夕日の糊がページの角へすっとしみました。

「よし」と太陽が言いました。「次は綴じ糸だ」 その言葉といっしょに、空に細い線が引かれました。最初の線は日本平の上をとおり、二本目は駿府城の堀へ降り、三本目は駅前の三角地へ、四本目は賤機山の肩へ、五本目は安倍川の堤へ、そして最後の一本が三保の岬と浜の上をまたぎました。「これは?」「君が歩いてきたところを、光がそっと縫い合わせた印だよ。線と線が交わった場所は、これから集まるべき場所になる。人も、風も、種もだ」「じゃあ、ここに種を一粒……」「そうしなさい。ただし海には投げない。松の影の根もとに置く。影は夜、海よりも深いからね」

 幹夫は封筒からひまわりの種を一粒とり、松の根のくぼみに指で小さな穴を作って埋めました。潮の匂いがわずかにやわらぎ、松の葉が遠い鈴のように鳴ります。 海は低く言いました。「きみが残した印は、風の頁(ページ)と水の章と拍子の段と記憶の行を、ぜんぶまたいでいる。重ねたものは丈夫だ。明日、町は少し歩きやすくなるだろう」

 日輪は、岬の影の向こうへゆっくり沈みかけていました。波頭は薄い桃色(ももいろ)を帯び、砂の表紙には光の指先が最後の一行を書いていきます。「幹夫くん、最後の文を」 太陽に促され、幹夫は六ページ目のいちばん下に、ていねいに書きました。〈黄昏=本をとじる時間。余白をのこし、二拍子で、影に名前を入れる〉

 その瞬間、水平線のあたりで小さな風が起き、ページの端が一度だけふくらみました。夕日の糊はすっかり乾き、五つの章と新しい黄昏の章が、やわらかく一本の背(せ)にまとまりました。「できたね」「うん。——ありがとう」「礼なら、夜に言うといい。夜は読者だから」

 帰り道、幹夫は堤を通って町へ入ります。安倍川はタ・タと二拍で石を撫で、遠く清水港のクレーンがもう首を止めて、灯だけが点りました。駅北口の三角地では、ひまわりが西を向いたまま、じっと薄い蜜を温めています。 家へ着くと、窓から駿河の風がすべり込み、机の上の地図帳の背を一度だけなでました。背表紙には、いつのまにか細い金の文字が浮いています。〈しずおか・地上星座〉

 幹夫は本を抱え、部屋の灯りを消してみました。すると、六つの章が薄く発光して、歩いてきた場所が線でつながります。森の水の字は深い緑の線、海の拍子は点の列、砂のアルバムは斜めの層、光の地図は円弧、黄昏の綴じ糸はあたたかな金色。 その中央で、ひまわりの種ほどの小さな星が、一度だけカンと鳴りました。 ——本は閉じられた。 けれど、明日のページはまだ白い。 幹夫はペン先をそっと確かめ、眠りにつきながらつぶやきました。「太陽は先生、風は道しるべ、水は文字、海は拍子、砂は配達、影は時刻。黄昏は、ぼくの仕事を一本にまとめる綴じ糸。」

 
 
 

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