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ならぬ雪

「ならぬことは、ならぬものです」

雪の降る朝、子どもの声は薄く、しかし妙に硬く響く。この北の仮の村では、声はすぐに白へ吸い込まれる。けれど、その一句だけは吸い込まれない。雪の表面に釘のように残り、私の胸の内側へ冷たく打ち込まれる。

私は薪を割る手を止め、割れた木の匂いを嗅いだ。乾いた木は、戦を知らぬ顔で香る。だが私の鼻は、もう乾いた匂いに安心できない。乾いた匂いの裏には、いつも焦げた匂いが潜む。焦げた匂いの奥には、言葉にならぬ敗北の味がある。

村の外れに立つ粗末な社の屋根は、雪を被って白く沈み、空は鉛のように重い。ここは会津ではない。だが、会津が消えたあとに残された者たちの国だ。国とは地図ではなく、残骸の集まりであることを、私はこの数年で知った。

掌の中には、小さな黒い木片がある。鶴ヶ城の廊下の欠片だ。火に舐められ、漆がひび割れ、どこか甘く焦げた匂いを残したまま、私の懐に潜み続けている。私はこの欠片を、護符のように握る。護符は救いのためではない。救われぬことを忘れぬためにある。

——会津を守れ。——ならぬことは、ならぬものです。

あの言葉は戒めではなかった。私たちの身体に縫い付けられた、形式の刺青だった。刺青は美しい。美しいものほど危険だ。美しい刺青は、血が流れぬまま人を殺す。

雪が、さらに深く降り始めた。私は目を閉じる。閉じたまぶたの裏で、あの黒い城が立ち上がる。

鶴ヶ城は、秋の終わりにいちばん黒くなる。赤瓦が煤を含み、石垣の間から湿った苔が匂いを上げる。黒は不吉の色だと言う。だが私たちは黒を誇りの色として着込まされた。誇りはいつも、どこか喪服に似ている。

城下の道場で、私は木刀を振った。木刀が空を切るたび、乾いた音が立つ。乾いた音は、まだ血に触れていない音だ。血に触れぬ音ほど、若者は愛する。愛するから、死が美しく見える。

「京へ上がる」

藩主が京都守護職として京へ発った日、城下には妙な熱が走った。守護職——守るという二文字は、若い私の胸を軽くした。軽さは勇気に似ている。似ているから、軽さは最も危険な毒になる。

だが京から戻った人々の顔は、勝者の顔ではなかった。煤と香が混じった匂いを纏い、眼の奥が乾いている。乾いた眼は、いちばん最初に「言い訳」を殺す。言い訳が死ぬと、人は静かに強くなる。静かな強さは、誰にも頼らない。誰にも頼らぬ強さは、やがて孤独になる。

「会津の鬼」

京の町でそう呼ばれたと聞いた夜、私は笑おうとして笑えなかった。鬼と呼ばれることは、ある種の便利さを持つ。鬼になれば、こちらの事情を説明せずに済む。説明をしないで済むことは、若い武士にとって魅惑だ。だが魅惑の裏側には、必ず血がつく。血がついた魅惑は、二度と洗えない。

そしてその血は、やがて会津へ戻ってくる。戻ってくる血は、いつでも遅れてやって来る。遅れは罪に似ている。遅れた罪ほど、深く刺さる。

戦が越後へ迫った頃、城内の空気が変わった。米の匂いが減り、鉄の匂いが増えた。鉄の匂いは、未来の匂いではない。終わりの匂いだ。

私は白虎隊に選ばれた。白虎という名は勇ましい。勇ましい名は、若者の胸を勝手に整える。整った胸は、美しい死を受け入れやすい。私は自分の胸が整っていくのを感じ、同時に怖かった。胸が整うほど、心は柔らかくなる。柔らかい心は、簡単に折れて美しい形に変わる。

出陣の日、母は何も言わなかった。言わないことが、いちばん残酷な祈りになることを、私はそのとき初めて知った。母の眼差しは涙を持たない。涙を持たぬ眼差しは、こちらに逃げ道を与えない。逃げ道のない言葉ほど、死を呼ぶ。

城下の女たちが、髪を結い直し、槍を握った。娘子隊。中野竹子。私は一度だけ、竹子の横顔を見た。頬に汗が光り、しかし眼だけが冷えている。冷えた眼は、すでに死を受け取っている眼だ。あの眼の美しさに、私は胸が痛んだ。美しいものは、人を裏切る。裏切りは、こういう形で起こる。

「守るために斬るのではない」

竹子が誰かに言った声が、耳の奥に残っている。

「斬ることで、自分の形を守るのだ」

形。その言葉が、私の胸にしつこく残った。守るべきものが城か、藩か、徳川か——そういう問いは、実は後から作られる飾りだ。飾りが剥がれたあとに残るのは、ただ自分の形である。形を失えば、人はただの肉になる。肉は恥を知らない。恥を知らぬ肉ほど、恐ろしいものはない。

砲声が聞こえた日、空は妙に澄んでいた。澄んだ空の下で人が死ぬとき、死は不自然に整って見える。整って見える死ほど危険だ。人はそこに意味を見出し、次の死を準備してしまう。

私たちは城外へ出た。土は湿り、草は踏まれ、硝煙の匂いが甘く鼻を刺す。甘い匂いは腐敗の前触れだ。腐敗は、勝利にも敗北にも等しく宿る。

敵の銃弾は速かった。刀は遅い。遅い刀を持つ者は、速い弾に対して「姿勢」で勝とうとする。姿勢は美しい。美しい姿勢は、弾よりも早く倒れる。私は何度も倒れる影を見た。影の倒れ方が、あまりに静かで、胸が悪くなった。

退却の途中、私の足元で、仲間が呻いた。血が土に吸われ、赤がすぐ黒くなる。黒くなる赤は、言い訳を失う。言い訳を失った赤ほど、私の腹を冷やすものはなかった。

やがて、飯盛山が見えた。山の上は風が冷たい。冷たさは正直だ。正直な冷たさは、人の美学を剥がす。剥がされた美学の下から、ただの恐怖が出てくる。恐怖は恥だ。恥は生の証拠だ。

山の上から、城が見えた。鶴ヶ城の方角に煙が立っていた。煙は火の証であり、火は終わりの証だ。誰かが言った。

「城は落ちた」

その一言が、私たちの胸の中の形を決めた。形が決まると、あとは簡単だ。簡単な決断ほど、残酷なものはない。

仲間たちは刀の柄に手をかけ、互いの顔を見た。顔は若い。若い顔は整っている。整った顔が「死」を選ぶとき、それはあまりに美しく見える。美しく見えることが、私は怖かった。美しい死は、いつでも後世の酒の肴になる。酒の肴にされた死ほど、無惨なものはない。

「ならぬことは、ならぬものです」

誰かが言った。その瞬間、言葉が刃になった。刃は、敵を斬るためではなく、自分の胸を整えるためにある。整えられた胸は、痛みを薄める。痛みが薄くなると、人は平気で死ねる。

私は刀を抜いた。抜いた刃が曇って見えた。曇りは涙ではない。汗でもない。私の眼が、現実に追いつけずに揺れているのだ。

そのとき、ふいに母の背中が浮かんだ。言葉を持たぬ背中。逃げ道を与えぬ背中。私はその背中を裏切れなかった。裏切れないことが、恥だった。恥は、仲間の美しい決断を汚す。

「……待て」

私は声を出した。声を出した瞬間、私はもう“形”から外れた。外れた者は醜い。醜い者は生き残る。生き残る者は、説明を背負う。説明は、刀より重い。

仲間は私を見なかった。見れば、情が混じる。情は美しい。美しい情は、決断を鈍らせる。鈍れば、死が汚れる。汚れた死を彼らは嫌ったのだろう。彼らはただ、静かに倒れた。倒れる音は雪のように小さかった。雪のように小さい音が、私の胸の奥でいつまでも鳴り続けた。

私は膝をつき、刀を落とした。落ちた刀の音が、妙に大きく響いた。生き残る音は、いつでも大きい。

城は落ちなかった。煙は、落城ではなく戦の火だった。誤りは、あまりに簡単で、あまりに取り返しがつかない。取り返しがつかないものを、人は「運命」と呼んで自分を赦そうとする。赦しは甘い。甘い赦しほど、後から苦くなる。

捕らえられ、縄が手首に食い込み、私は城下を見下ろした。瓦が砕け、柱が折れ、井戸の水が黒く濁っている。女が泣き、子が黙り、老人が空を見る。泣かぬ者の方が怖い。泣かぬ者は、すでに何かを諦めている。諦めは、敗北より深い死だ。

やがて鶴ヶ城の前で、松平容保の姿を遠くに見た。その背中は、京の鬼の背中ではなかった。ただ、重いものを背負いすぎて、背骨の形が変わってしまった男の背中だった。私はその背中に、どうしようもなく感情移入してしまった。鬼でも英雄でもない、ただ「守る」の言葉に押し潰された人間の背中に。

守る。守るとは何だったのか。結局、守れたのは何だったのか。

答えはない。答えがないまま雪が降る。雪は白い。白は潔白ではない。白は、血の色を最後まで消さない。

私はいま、この北の村で薪を割り、子どもが唱える「ならぬ」を聞いている。彼らは知らない。あの言葉がどれほど多くの若い喉を締めたかを。だが知らないことが、救いになることもある。救いは、いつも無知の顔をして来る。

私は黒い木片を掌で転がした。漆の割れ目が、指先に痛い。痛みは、生の証拠だ。生きることは、醜い。醜い生は、誰にも誉められない。誉められぬ生の中でしか、死を美談にしない記憶は保てない。

雪は降り続ける。降り続ける雪の下で、私は今日も、自分に言い聞かせる。

ならぬことは、ならぬものだ。——だが、死を美しく語ってはならぬ。——生き残った者の醜さを、誤魔化してはならぬ。

誤魔化さぬために、私はこの冷たさを抱く。抱いた冷たさが、いつか溶けて土へ滲み、誰かの足跡を少しだけ正直にするなら、それでいい。雪は、音を立てない。けれど音を立てないものだけが、ほんとうに世界を変えるのだ。

 
 
 

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