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夏みかん


朝の夏みかんは、まだ冷たい匂いを抱えていた。 皮のぶつぶつが、夜の露を細く残している。 手に取ると、ずしり。 ずしりは、果物の重さじゃなくて――夏の始まりの重さ。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、夏みかんの種が三つ。 昨日、口の中でころがしてから、洗って乾かした。 つるり。 つるりは刺さらない。 刺さらないのに、ちゃんと苦い匂いが残っている。

 ――いき。

 息を入れると、苦さが胸の奥でほどける。 ほどけると、苦さは“怖さ”になりきらない。

 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。

 母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。

 母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。

なつみかん いっぱいすっぱくて にがいこども たべんで かなしいよかったら どうしたらいいか おしえてください いわた

 すっぱくて、にがい。 すっぱいのは舌がきゅっとなる。 にがいのは胸がきゅっとなる。 胸がきゅっとなると、言葉が尖りそうになる日がある。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、岩田さんの“かなしい”が届いた音。 かなしいは、捨てたくない音。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でた。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も暴れない。

 父の目が「なつみかん」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。

 ふう……。

「……行くか」

 短い。 短いのに、柑橘の道が入っている。

 母が頷いた。

「うん。……夏みかんはな、待つと変わるだに。待たんと、刺さる」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「苦いもんは、押すな。……流して、待て。……待てば座る」

 流して、待て。 水の字。 清の字。 全部、胸の中でつながってきた。

 父が納屋から古い鍋と、布と、小さな包丁を出してきた。 包丁は光る。 光る刃は、匂いも切る。 切りすぎると刺さる。 父は包丁をいきなり持ち上げず、布の上に置いた。 置くと、刃が暴れない。

「……みき坊。……皮、受けろ。……掴むな。……受ける手だ」

 受ける手。 受ける手は、苦さを押しこまない手。

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん」

 岩田さんの庭には、夏みかんの木が一本立っていた。 葉が濃い。 濃い葉の下に、丸い実がいくつもぶら下がっている。 丸いのに、顔つきが固い。 固い顔は、酸っぱい顔。

 岩田のおばさんが戸口に立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは声より先に顔に出る。

「おはようだに……朝からすまんね。……せっかくなっても、子が『にがい』って……」

 にがい。 その言葉は尖りやすい。 尖る前に、幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、実を見る。 皮の厚さ。 色のまだら。 木の陰。 見ると、苦さが形になる。 形になると、手が荒れない。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が口の中で言った。

「……夏の顔だ」

 名前を置く。 置けると、苦さが全部にならない。

 ふう……。

 父が一本、実をもいだ。 もぐとき、いきなり引っぱらない。 茎のところを指で探して、少し回して、ぽとん、と外す。 ぽとん、は刺さらない落ち方。

 父が幹夫に手渡す前に言った。

「……重いだろ。……重いのは、皮だ。……皮は、助けに変えられる」

 助け。 苦い皮が、助けになる。 その言い方が、幹夫の胸を少し明るくした。

 ――いき。

 家へ戻ると、母が井戸水を桶に汲んだ。 水が冷たい。 冷たい水は、苦さを受け取る水。

 母は夏みかんを布で拭いてから、まな板に置いた。 置く。 置くと、丸いものが暴れない。

 父は包丁を持つ前に、一度止まった。 止まると、刃が怒らない。 怒らない刃は、果物を怖がらせない。

 ――いき。

 すっ。

 皮が切れた。 切れた瞬間、匂いが跳ねた。 青い匂い。 酸っぱい匂い。 夏の匂い。 匂いが胸へ来る。 胸へ来ると、走りたくなる。 走る前に、息。

 ――いき。

 父は皮を厚めにむいた。 白いわたが、ふわっと見える。 白いわたは、柔らかい受け皿。 受け皿があると、酸っぱさが刺さらない。

 幹夫は皮を、布の上へ受けて置いた。 受けて置くと、苦さが散らない。 散らないと、怖さが増えない。

 母が言った。

「この皮、まず煮るだに。……一回で終わりじゃない。流して、また煮る。……何回か、ま を入れる」

 ま。 苦さと甘さのあいだのま。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 鍋が煮立つ。 ぐら。 ぐら。 泡が立つ。 泡は、苦さが外へ出る合図。

 父の肩がふっと上がりかける。 湯気が目に刺さりそうになる。

 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は小さく言った。

「……ま」

 父が、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……ま」

 父も言えた。 言えると、湯気が湯気のままで座る。 刺さらない。

 茹でた皮を、母が水へ移す。 水が、少し白く濁る。 濁りは怖い。 でも、落ちた濁りは“出た”しるし。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「苦いのは、出せばいい。……溜めるな。……溜めると胸が荒れる」

 出す。 川みたいに。 水みたいに。 幹夫は桶の水面を見て、胸の中も少し軽くなった。

 ――いき。

 昼。 皮は水に浸かったまま、台所の隅に座った。 座ってる皮。 座ると変わる。 変わるには、時間の“ま”が要る。

 学校の教室は、夏の粉の匂いがした。 窓の外から、潮の匂いが細く入る。 蒲原の夏は、海の匂いが字の角を丸くする。

 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 蜜柑

 きゅっ、きゅっ。

「“みかん”は、こうも書く。蜜は“みつ”。柑は木の実の仲間だ」

 蜜。 みつ。 朝の岩田さんの「にがい」と、反対の字。

 教室がざわ、とする。 ざわ、は角が立ちやすい。 先生が手を上げた。 手を上げるのは、止める線。

「でもな、蜜柑って書いても、すぐ甘いとは限らん。夏みかんは、特に苦い。――苦いのは悪さじゃない。苦いのは、まだ“蜜”が座ってないだけだ」

 座ってないだけ。 座る、の言葉が、幹夫の胸にふっと落ちた。 落ちると刺さらない。

 ――いき。

 先生が続けた。

「水にさらす。待つ。煮る。――甘さは、押しこむもんじゃない。間を入れて、苦さを出して、座らせる。そうすると蜜みたいに残る」

 間。 押しこまない。 今朝の桶の水が、胸の中で光った。

 休み時間、正夫が小声で言った。

「みきぼー、蜜柑って書いても夏みかん苦いよな」

 幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。

 ――いき。

「……苦いの、出すと……甘いが座るって……先生」

 正夫が目を丸くする。

「座るって、また言った!」

 幹夫は小さく頷いた。 頷く前に、息。

 ――いき。

「……座ると……刺さらない」

 夕方。 家の台所に戻ると、桶の水は二度、替えられていた。 替えるたびに、濁りが薄くなる。 薄くなると、苦さが小さくなる。

 母が小さな袋から、砂糖を少しだけ出した。 配給の砂糖。 少し。 本当に少し。 少しは、刺さらない甘さ。

「今日は、これだけだに。……でも、少しでええ。少しが座ると、胸が喜ぶ」

 父が頷いた。 頷く前に、一度息。

 ふう……。

 鍋に水と砂糖。 弱い火。 弱い火は、急がない火。

 皮を入れると、ふわっと匂いが立った。 酸っぱさが丸くなる匂い。 苦さが遠くなる匂い。 鍋の中で、皮が静かに揺れる。 揺れるのに、暴れない。

 父が言った。

「……みき坊。……焦がすな。……焦げは刺さる。……湯気を見るだけでいい」

 見るだけ。 押さない。 掴まない。 受ける。 幹夫は鍋の湯気を見て、胸に“ここ”を作った。

 ――いき。

 ことり。

 母が小さな瓶を出した。 瓶は薄い。 薄い瓶は、落とすと割れる。 割れると刺さる。 母は瓶をいきなり手に取らず、布の上に置いた。 置くと、瓶が怖がらない。

 煮上がった皮を、瓶に移す。 とろり。 とろりは、苦さの角が落ちた音。

 幹夫はその瓶を見て、胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 岩田さんの家へ持っていく。 夕方の風が、少しだけ涼しい。 涼しいと、匂いがよく分かる。 瓶のふたを閉めても、夏みかんの匂いは外へ出たがっている。 出たがる匂いは、生きてる匂い。

 岩田のおばさんが戸口で受け取った。 受け取る前に、いったん戸口の板に置いて、置いてから掌で包む。 置くと、嬉しさが刺さらない。

「……うわ……いい匂いだに……」

 おばさんが瓶のふたを少しだけ開けた。 少し。 少しの開け方。 少しの“ま”。

 匂いが、ふわっと出る。 おばさんの肩が、すとん、と落ちた。

「……苦い、って言ってた子が……これなら……」

 奥から子どもの声がした。

「なにそれ! いいにおい!」

 声が跳ねても、刺さらない跳ね。 跳ねは、嬉しさの跳ね。

 おばさんが小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……捨てんでよかった……」

 捨てんでよかった。 その言葉が、幹夫の胸を少し熱くした。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 父はすぐ「当たり前だ」と言わず、短く置いた。

「……うん。……苦いもんは……出せばいい。……待てば、蜜が座る」

 蜜が座る。 先生の言葉が、父の口からも出た。 それだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。

 ――いき。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 蜜柑

 幹夫はその字を見た瞬間、桶の濁りと、鍋のとろりと、岩田さんの肩の落ち方が一緒に浮かんだ。

 母が「蜜」を指でなぞる。

「蜜は、みつだに。甘いもんだに。……でも夏みかんはすぐ甘くない。だから、ま が要る」

 母が「柑」をなぞる。

「柑は木の実だに。木にぶら下がって、待って、落ちて、また人が手を入れる。――木の仕事と人の仕事が重なる字だに」

 重なる。 押し合うんじゃなく、重なる。 それも“ま”がいる。

 父がま札を撫でて、ぽつりと言った。

「……俺、苦いの……嫌いだった。……でも今日……苦いのを出すって……助かった」

 母は否定しない。 低く言う。

「うん。……苦いのを抱えると荒れるでな。出せりゃ、静かになる。……夏みかんは、それを教えるだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「苦いは悪さじゃねえ。……苦いを知ると、甘いが分かる。……甘いを押すと刺さる」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……みき坊。……おまえの『ま』……今日も助かった。……鍋が焦げんかった」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 蜜を書く。 柑を書く。

 一回目の「蜜」は、線が強くて、字が少し押しこむ顔になった。 押しこむ顔は刺さる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「押しこみそうならな……力を小さく置け。蜜は甘いけど、刺さん。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「蜜」は、甘さが座って、字が丸く見えた。 柑も、木へんが立って、実がちゃんとぶら下がった。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。

「……俺も、書く」

 父の「蜜柑」は、線が震えた。 震えるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……苦いのが、ちょっと出た感じするな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……出りゃ、座るだに」

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

けさ いわた の なつみかんすっぱくて にがいでも すてたくないかわ を にて みず かえて ま を いれたにがい の みず でたでたら みつ が すこし のこったこども の こえ はねたはねても ささらんいき

 翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、二つと、ひとつ。

 一枚目、岩田さんの字。

こども たべたにがい って いわんいいにおい ってすてんで よかったありがとう

 最後に、小さな丸。

 二枚目、母の字。

夏みかん は ま を いれろにがい は だせすこし の みつ が すわる うん

 最後に、丸。

 三つ目。紙じゃなく――夏みかんの皮の、細い干した切れ端。 黄色が少し濃くなっている。 触ると、指に匂いが移る。 移る匂いは、刺さらない匂い。 その横に、岩田さんの字で小さく、

すこし

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその皮を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 夏みかん。 すっぱくて、にがい。 でも捨てない。 流して、待って、少しの砂糖を座らせる。 そうすると、苦さは全部にならず、蜜が小さく残る。 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど胸の尖りは届く。 その尖りの前に、桶の水と、鍋のとろりと、幹夫の「ま」と父の「ふう」は届いた。 届いた“少しの甘さ”が、苦い夏を刺さらない夏にして――今日も、匂いだけはやさしく、胸の中に座っていった。

 
 
 

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