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大和出撃



序章 桜影の帳面(令和七年・二〇二五)

春は、いつも少し遅れて部屋へ入ってくる。窓の桟に残る夜の冷えが、昼の光にほどけるまで、花の匂ひはまだ遠い。けれど私は、匂ひより先に花を知る。胸の奥が、ふいに軽くなる――それが桜の合図だ。

 

病院の白い廊下を歩くやうになって久しい。今は施設の一室、机と椅子と、古びた箪笥がひとつ。脈を支へる機械の鼓動が、夜ごと規則正しく私の内側で鳴る。昔は心臓の音など意識せずに生きてゐたのに、老いとは不思議なもので、「生きてゐる」といふことが、音として聞こえるやうになる。

 

私は筆を取る。今の世では、指で小さな板を撫でれば言葉が出るといふのに、私はどうしても紙が好きだ。紙は、重さがある。沈黙の分だけ、言葉に体温が残る。

 

封筒の束を膝に載せ、紐をほどく。黄ばみ、端が擦れ、ところどころに雨の痕のある便箋。薄い墨の文字。検閲の朱の印。――そして、押し花にした桜の一片。

 

「君」

 

声にすると、口の中が乾く。九十を過ぎて、いや、もう百に近い。けれど、この二文字だけは、若いときのまま舌にのる。私はずっと、毎年一首ずつ、君へ歌を詠んできた。日記のやうで、墓誌のやうで、恋文のやうなものを。

 

人は言ふ。「よく生きたね」と。私は首を振る。「生きた」のではない。「生き延びた」のだと。

 

あの日、君は海へ行き、帰らなかった。私は陸に残り、帰る場所を失ったまま、季節だけは律儀に巡り、桜だけが毎年、私の代りに君へ手紙を運んだ。

 

今年もまた、私は最後の一首を、きちんと書いておきたい。

 

紙の上に、ふるへる手で、私はゆっくりと仮名を置く。若い頃のやうに筆が走らぬ。けれど、遅い歩みでいい。ここまで来たのだから。

やまとなる うしほの底に 君眠り雲居へかへる 花を待ちつつ

書き終へると、胸の機械の鼓動が、ひとつだけ強く打った。まるで「よし」と頷いたやうに。

 

箪笥の奥から、いちばん古い帳面を取り出す。表紙は布で、角が丸くすり減り、背は糸で補修してある。そこに私は、昭和二十年の自分の字で、こう書いてゐる。

 

――「大和出撃」。

 

今、目を閉じれば、まだ見えるのだ。油の匂ひ。夕方の港。灰色の巨体。旗。号令。波の白さ。そして、万歳の声の向うで、ひとりだけ声を出せずにゐた、あの春の私。

 

帳面を開く。紙の擦れる音が、遠い時代の扉の蝶番になる。

第一章 昭和二十年(1945) 大和出撃

あの頃の私は、「恋」といふ言葉を、口にするのが少し恥づかしかった。恋は、家の奥に仕舞ふもの――母はさう言った。戦時下の娘が、自分の感情を前に出すのは、贅沢と同じだと教へられてゐたからだ。

 

それでも私は、確かに恋をしてゐた。いや、恋といふより先に「許嫁」といふ形が与へられてゐたのかもしれない。縁談は、親戚の紹介でまとまった。婚礼の話も進み、結納も簡素ながら済ませた。けれど、戦況は日ごと悪くなり、式の日取りは「落ち着いたら」と延びたまま、つひに二度と来なかった。

 

私は徳山の海軍燃料廠に動員されてゐた。女学生の勤労動員――名目は「学びを奉公に換へる」といふ立派な言葉だが、実際は働き手の不足を埋めるためだった。朝はまだ暗いうちに起き、モンペをはき、髪をきつく結び、寮の廊下を足音を立てぬやうに歩く。台所では麦飯の匂ひがした。配給の味噌は薄く、醤油は貴重で、砂糖はほとんど幻だった。石鹸も不足し、手は油で荒れ、指の節には黒い汚れが染みついた。

 

工廠へ行く道には、隣組の掲示板があり、「ぜいたくは敵だ」「一億玉砕」「火の用心」と赤い字が並んでゐた。私たちはそれを見上げ、自然に背筋を伸ばした。誰もが、正しい顔をしてゐた。正しくあらねば生きにくい世の中だった。

 

燃料廠の構内は、いつも油の匂ひで満ちてゐた。重油の黒い艶、鉄と蒸気の熱、作業員の汗、遠くで鳴る汽笛。鼻の奥に残る匂ひは、夜になっても取れず、枕元でまで海の底を思はせた。

 

そんな場所へ、ある日、巨大な艦が入って来た。

 

「……あれが、戦艦だといふよ」

 

年上の女工さんが囁いた。私たちは仕事の手を止めぬまま、目だけを動かして沖の方を見た。灰色の壁のやうな船体が、ゆっくりと湾へ滑り込んでくる。まるで町ひとつが海に浮かんで近づいてくるやうだった。甲板の上には人影が豆粒ほどに並び、砲塔は山のやうにうずくまってゐる。

 

「大和だ」

 

誰かが言った。その名を聞いた瞬間、胸の底がひやりとした。名前だけで、重さがある。国の誇り、最後の頼み、そして――どこか、帰らぬものの名。

 

その日、私は初めて朝比奈篤志を見た。

 

彼は港の端を足早に歩いてゐた。海軍の制服はきちんと身体に沿ひ、襟の白が眩しい。帽子の庇は影をつくり、目元はよく見えなかったが、顎の線が若かった。二十そこそこ――いや、私より少し上か、同じくらゐか。軍人といふだけで、こちらが勝手に「遠い人」と思ってしまふ。けれど、その人が、突然こちらへ声をかけた。

 

「すみません。――この配管の番号、合ってゐますか」

 

私は思はず背筋を正した。「はい。……こちらで、間違ひございません」

 

声が裏返りさうになるのを、必死で抑へた。周囲の目がある。女が軍人に媚びるやうに見られてはならない。私も、彼も。

 

彼は短く頷いた。「助かりました。……ご苦労さまです」

 

その「ご苦労さま」が、不意に優しかった。上からの慰労ではなく、同じ場所で働く者同士の言葉に聞こえた。私は思はず、彼の手元を見た。指先が、油でうっすら汚れてゐた。海の上の人は、もっと清潔だと思ってゐたのに。その汚れが、なぜか嬉しかった。人の手だ、と思ったからだ。

 

それから縁談は、驚くほど早く進んだ。もともと、親戚筋で話があったのだと後で知った。私が燃料廠にゐるのも、彼がこの近くへ回ってくるのも、偶然ではなかったのだらう。戦時の縁談は急ぐ。明日があるか分からぬ世だから、親たちは「形だけでも」と焦る。私自身も、焦ってゐたのかもしれない。形でもよかった。呼べる名前がほしかった。帰る場所のある約束がほしかった。

 

けれど、私が彼を選んだのは、書類の上の都合ではない。あの一度の「ご苦労さま」の声が、いつまでも耳に残ってゐた。誰もが「お国のため」と言ひ、個人の感情を小さく畳んでゐた時代に、彼の声だけは、私の名も知らぬ私を、一人の人間として扱った気がした。

出撃の知らせは、春の終はりのやうに、どこからともなくやってきた。大本営発表など、そんなものではない。新聞には肝心なことは載らぬ。載ってゐても、分からぬやうに書く。情報は噂として流れ、隣組の井戸端で形を変へ、工廠の休憩所でひそひそと伝はった。

 

「大和が、南へ行くらしい」「沖縄だって」「もう帰れぬんぢゃないか」

 

それらの言葉は、火の粉のやうに胸へ落ち、服を焦がした。けれど私は、噂に耳を貸すのを恐れた。信じてしまへば、心が崩れる。信じなければ、まだ祈れる。

 

篤志は、出撃の前夜、ほんの短い時間だけ会ひに来た。

 

工廠の門の外、夕暮れの道。灯火管制で街は暗く、家々は窓に黒い布を垂らし、提灯の明かりもない。遠くの空に、薄赤い光が揺れてゐた。空襲で燃える町の色か、工場の炉の色か、それとも私の目が勝手に見せる幻か。

 

「百合さん」

 

呼ばれて振り向くと、彼は街灯のない道に立ってゐた。制服の肩が夜の闇から浮き上がる。帽子の下の眼差しは、昼より静かだった。

 

「今夜は……長くはゐられません」

 

私は頷いた。「はい。……存じてゐます」

 

「存じてゐます」――私は、いかにも物分かりのよい許嫁のやうに答へた。さう答へるのが正しいと思ってゐたからだ。本当は、袖を掴んで、子どものやうに泣きたかった。行かないで、と言ひたかった。でも、言へない。言ってはいけない。当時の私たちは、さう教へられてゐた。男は戦ふ。女は送り出す。泣くなら、誰にも見えぬところで。

 

彼は小さく息を吐き、私の手を取った。手袋越しではない、素手だった。油の匂ひがした。燃料廠の匂ひ。私の指と同じ匂ひ。

 

「これを」

 

彼はポケットから小さな布包みを出した。中には、白い紙にくるまれた桜の押し花が一片。「この前、あなたが……工廠の裏で拾ってゐたのを覚えてゐます。乾かして、持ってゐました」

 

私は言葉を失った。あのとき私は、花びらを一枚拾ひ、こっそり懐へ入れただけだった。誰にも見られぬやうに。贅沢だと思はれぬやうに。それを、彼は見てゐた。覚えてゐた。たった一片の花が、戦時の夜に、こんなにも明るい。

 

「――百合さん」

 

彼は私の名を、もう一度呼んだ。「もし……もし、です。帰れぬことがあっても、あなたが恥ぢる必要はありません。あなたは何も悪くない」

 

「帰れぬ」その言葉を、彼は口にした。私は喉の奥がつまって、頷くことしか出来なかった。

 

「私の方が、勝手に……あなたを巻き込んだ」

 

「いいえ」

 

声がかすれた。「巻き込まれたとは、思ひません。……私は、篤志さまの許嫁です」

 

許嫁――その言葉が、鎧のやうに私を守る。同時に、鎧のやうに私を縛る。

 

彼は笑った。ほんの少しだけ。「そうですね。……なら、お願いがあります」

 

「はい」

 

「来年も……桜が咲いたら、見てください。私の代りに」

 

その言葉は、命令でもなければ、泣き言でもない。未来の形を、私に託す声だった。

 

私は胸の奥で、何かが崩れ落ちるのを感じながら、それでも顔を上げた。「見ます。必ず」

 

そして私は、布包みを握りしめた。押し花は軽い。けれど、その軽さが、海より重い。

翌日、港は異様な静けさに包まれてゐた。

 

出撃の時間は、私たちには知らされない。知らされるはずもない。けれど構内の空気で分かった。大人たちの声の少なさ、足取りの速さ、見回る憲兵の目の鋭さ。私たちは余計なことを言はぬやう、互ひの顔色をうかがひながら働いた。

 

午後、突然、湾の方から低い号笛が響いた。腹の底に届くやうな音だった。作業の手が、揃って止まった。止めるなと言はれても、身体が勝手に止まった。誰かが小さく呟いた。

 

「――出る」

 

私は走った。走ってはいけない。構内で走るな。規律を守れ。何度も叱られてきたはずなのに、足が勝手に動いた。

 

港の高台へ。そこから湾が見える。曇り空の下、灰色の巨体が、ゆっくりと動き出してゐた。

 

戦艦大和。

 

海を割り、波を押し、静かに、しかし確実に、岸から離れていく。随伴する艦が周りを固める。細身の駆逐艦が白い航跡を引き、巡洋艦が影のやうに寄り添ふ。甲板には整列した人影が見えた。小旗が振られてゐるのか、腕が上がってゐるのか、遠すぎて分からない。それでも私は、そこに篤志がゐると信じた。信じるしかなかった。

 

高台には、私と同じやうに駆けてきた女たち、工員たちが集まってゐた。誰かが声を上げる。

 

「万歳!」

 

すぐに声が重なった。「万歳!」「万歳!」「万歳!」

 

私も口を開いた。けれど声が出なかった。

 

万歳は、勇ましい言葉だ。国のための言葉だ。送り出すための言葉だ。けれど私の胸にゐるのは、国ではなく、ひとりの男だった。「行くな」と言へない代りに、「万歳」と言はねばならぬ――その裂け目に、私の声は落ちた。

 

代りに私は、手だけを上げた。布包みを握り、桜の押し花を握り、ちいさく、ちいさく振った。誰にも見えぬほど小さな合図。もし篤志が見てゐたなら、それで十分だと思った。もし見てゐなかったとしても、それでも振らずにはゐられなかった。

 

大和は、やがて湾の外へ滑り、水平線の低い雲の中へ溶けていった。海の色は、鉛のやうだった。春なのに、桜の色が見えない世界だった。

 

その瞬間、私ははっきりと悟った。これは「見送る」のではない。「別れる」のだ、と。

出撃の後の数日は、時間が変な形をしてゐた。朝が来ても、昨日の続きのやうで、夜になっても終はりがない。仕事をしてゐても、手は動くのに、心が置いていかれる。

 

手紙は来なかった。来るはずがない。彼は海の上だ。出撃中の艦から便りなど出せぬ。――頭では分かってゐるのに、私は毎日、寮の郵便受けを見た。

 

ある日、工廠で作業をしてゐると、門の外で人の気配がした。憲兵ではない。郵便配達でもない。小走りの足音。誰かが私の名を呼んだ。

 

「綾瀬さん! 綾瀬百合さん!」

 

心臓が一度、止まるかと思った。私は手袋を外すことも忘れ、油に汚れたまま門へ走った。

 

そこに立ってゐたのは、制服姿の海軍の下士官だった。顔は疲れ、目が赤い。彼は私を見ると、視線を少しだけ逸らし、硬い声で言った。

 

「朝比奈篤志殿の――ご関係の方で、相違ありませんね」

 

「はい」

 

私の声は、もう出てゐた。自分の声なのに、遠かった。

 

「お届けします」

 

差し出されたのは、薄い紙切れ。電報だった。紙は軽い。恐ろしいほど軽い。

 

私は受け取った。指先が震え、文字が滲んで見えた。けれど、そこに書かれてゐる意味は、滲んでも消えなかった。

 

「戦死」

 

その二文字は、どんな爆弾より重い。

 

「……名誉の戦死であります」

 

下士官は、定型句のやうに言った。私は頷いた。頷くしかなかった。周りに人がゐた。工員たちが、遠巻きにこちらを見てゐた。私は泣いてはいけない。泣けば「覚悟が足りぬ」と言はれる。泣けば彼の死が「美しくない」とされる。当時の世は、死にまで型を求めた。

 

私は頭を下げた。「……ありがとうございました」

 

口が勝手に、礼を言った。礼を言ふべきではないのに。誰に? 何に? 何のために?

 

下士官もまた、苦しさを隠すやうに敬礼し、そのまま踵を返した。

 

私はその場に立ち尽くし、風の音だけを聞いてゐた。油の匂ひが、急に吐き気を誘った。世界が、ずれる。ああ、これが「喪失」なのだと、身体が先に理解した。

 

その夜、私は寮の布団の中で、声を殺して泣いた。布団を噛み、袖を噛み、歯を噛みしめて泣いた。泣き声が漏れれば、同室の娘たちが困る。励ましの言葉を言はせてしまふ。「おめでたうございます、名誉です」――そんな言葉を、言はせてしまふ。私は誰にも、そんな言葉を言はせたくなかった。

 

翌朝、私は工廠の裏の小さな土手へ行った。そこに一本だけ、桜の木があった。花は盛りを過ぎ、枝先に薄紅が残るだけだった。花びらがはらりと落ち、私の掌に乗った。

 

掌の上の花は、あまりに軽い。篤志の命も、こうして落ちたのだらうか。大和の巨体も、こうして沈んだのだらうか。

 

私は海を思った。深い青。誰も触れぬ底。そこに、灰色の鉄の塊が横たはり、彼が――彼の声が、彼の手が、彼の笑ひが、もう届かぬところへ沈んでゐる。

 

私は布包みを開き、押し花の桜を見た。乾いた花びらの影が、紙の上に落ちる。その影が、海底の影に見えた。

 

言葉が欲しかった。泣く代りの言葉。死を受け止めるための器。私は帳面を取り出し、鉛筆を握った。筆の先が折れさうに震える。

 

そして、ただ一首だけ――その年の、私のすべてを詰めた一首を書いた。

やまとの艦 しづみし海の あをき底桜の影に 君を偲びぬ

書き終へたとき、私は初めて、少しだけ息ができた。歌は、墓ではない。けれど、ここに埋めなければ、私は崩れてしまふ。

 

あの日から私は、毎年、桜の季節に歌を詠むことになる。世が変はり、町が変はり、私が老いても。春が来るたび、海の底へ向かって――

 

「君」と呼ぶために。

 
 
 

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