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山吹の実

雨は、武蔵の野を容赦なく打っていた。甲冑の継ぎ目から染み入る冷たさは、刀傷よりも執拗に、私の肉を責めた。馬の首筋に伝う雨水は、まるで生き物の汗のように粘り、鬣を重く垂らしている。戦場で浴びる血飛沫には熱がある。だが、雨は熱を奪うだけで、何ひとつ与えてくれない。

「蓑を借りたい」

そう口にしたとき、私は自分の声がひどく威張って聞こえた。——太田道灌。主の命を受け、軍を動かし、城を築き、野を治める者。その私が、たかが雨のために、見知らぬ百姓家の戸口で言葉を乞う。それは、威厳という鎧の、最も薄い箇所を指で押されるような屈辱だった。

戸が開いた。現れたのは、まだ娘と呼ぶのがふさわしい年頃の女だった。肌は雨に濡れた闇の中で、逆に白く見え、目だけが不思議に澄んでいた。蓑を差し出されるだろうと私は思った。いや、思い込んだのだ。

娘は無言で、一枝を差し出した。山吹。葉は濡れて艶を増し、枝はしなり、黄色の花は——花は、雨に打たれて、どこか頼りなくうつむいていた。

私は言葉を失った。怒りとも困惑ともつかぬ熱が、胸の奥でこぶのように膨らむ。武士の礼法は、こういうとき、いかなる表情を作ればよいと教えてくれない。

「……これは何だ」

娘は答えない。雨の音だけが、私の問いを嘲るように続く。私は山吹の枝を、まるで侮辱の証拠物のように掴み、すぐに突き返したくなった。しかし、突き返した瞬間、こちらの敗北が確定する気がした。だから受け取った。受け取ることで、理解したふりをしたのだ。理解などしていないのに。

馬に跨り直し、私は振り返らなかった。振り返ると、あの娘の沈黙が、私の背中に刃を当ててくる気がしたからだ。雨はいつしか小降りになった。だが私の中では、雨脚はむしろ強まっていった。

城に戻ると、灯があった。火の周りに集まる家臣たちの顔は、疲れているのに、私を見ると不思議に引き締まる。人は権威を欲しがり、権威に寄りかかり、権威の影に自分の安堵を作る。その安堵は、いつも私の胸を空洞にする。

私は座に着き、濡れた具足を脱がせながら、さっきの出来事を語った。笑い話にしてしまえば、失敗は失敗でなくなる。私はそう信じたかった。けれど、家臣のひとりが息を呑み、目を伏せた。

「……殿。それは」

言葉を継いだのは、いつも控えめな僧だった。彼は巻物の端を指で撫でるような仕草をしてから、静かに唱えた。

七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき

「山吹には実がなりませぬ。『実の一つだにない』……銭がない、という掛詞。あの娘は、蓑を貸すほどの余裕がない、と、歌で申したのでございましょう」

私は、火の明かりが一瞬強くなったように感じた。その熱が、恥として私の頬を焼いた。

歌で返された——。しかも私が理解できず、怒りにさえ似た顔をしたであろうことを、家臣たちは察していた。何より、娘が、私よりも深いところで言葉を操った事実が、私を殺した。

武は、分かりやすい。勝てばよい。だが、言葉は勝敗を拒む。言葉は、勝った者の手からこぼれ落ちる美しさを持っている。私はその美しさを、ただ雨の中で見落とした。

その夜、私は一人で山吹の枝を見つめた。濡れた葉は、まるで剃刀のように細く尖って見える。花の黄色は、あまりに無邪気で、だからこそ残酷だった。無邪気は、こちらの愚かさを一切赦さない。

私は思った。戦に勝ち、土地を治め、城を築く。それらは花だ。ならば、実とは何だ。我が仕事は果たして、どんな実を結ぶのか。私の人生は、花の豪奢さだけを誇り、実の一つも残さずに散ってゆくのではないか。

私はその瞬間、妙な予感を抱いた。自分の終わりが、雨のように静かに近づいている予感を。

私は城を築いていた。江戸と呼ばれるこの土地は、湿り気を帯びた風と、やけに広い空を持っていた。遠くの水面は鈍く光り、葦が波打つ様は、まだ形を持たぬ国家の肌のようだった。私はそこに、石と土で輪郭を与えようとした。

城は、堅固さだけが美ではない。堀の曲線、石垣の層、門の暗さ。一つひとつが人の精神の形を映す。私は、城を「守る器」ではなく、「思想の肉体」として造った。誰も理解しない。理解されなくてよい。むしろ理解されると、俗っぽくなる。

働く男たちの背中は、雨に濡れて光った。土を運び、石を据える腕は、筋が隆起し、動きのたびに皮膚が張った。あの肉体の確かさには、戦の勝ち負けよりも強い説得力がある。私は時折、その力に見惚れた。——美とは、いつも危険だ。美に触れた瞬間、人は自分の弱さを知ってしまう。

それでも私は造り続けた。石垣が積み上がるたび、私は自分の内側の空洞が少しずつ埋まるのを感じた。城が私の代わりに黙ってくれる。城が私の代わりに立ってくれる。城は私の沈黙を、何百年も保管してくれるだろう。

だが、世は沈黙を好まない。世は噂を好む。噂は、人の功績を毒に変える。「道灌は大きくなり過ぎた」「道灌は主の座を狙っている」そういう声が、私の知らぬところで育ってゆく。

私には、反論する言葉がなかった。反論することは、噂を認めることに似ている。それに私は、どう反論すればよいのかを知らない。私は権力を欲しがってなどいない。ただ、完成を欲しているだけだ。完成——その美が、私の命よりも価値があると信じているだけだ。

ある日、主から使者が来た。「相模の館へ参れ」

その一行は短く、しかし紙は重かった。紙の重さの正体は、命の重さではない。命の軽さだ。人は命が軽いとき、紙が重くなる。

私は支度をしながら、ふと思った。あの雨の日、娘が差し出した山吹の枝。あれは、蓑がないという意味だけではなかったのではないか。実のない花——。花ばかり咲かせ、実の一つだに残せぬ人生。それは私自身の比喩だったのではないか。娘は、私の未来を、無邪気な黄色で示したのではないか。

私は笑いかけた。笑いは、恐怖を着物の裏に隠すための、最も上手い仕立てだ。

相模へ向かう道は、妙に明るかった。冬の澄んだ光が、木々の影を鋭く地面に刻み、空気は硬い。硬い空気は、刀が鞘を出入りするときの感触に似ている。私はその冷たさを好んだ。冷たさは正直だ。温かさは嘘をつく。

途中の野辺で、山吹が咲いていた。季節はずれの花だった。その黄色は、かえって不気味なくらい鮮やかだった。私は馬を止め、しばらく見つめた。花は、実を作ることを最初から放棄したかのように、ただ咲いている。——美は、実を必要としない。そう言い切りたい気持ちが、喉まで上がった。だが同時に、胸のどこかで、別の声が囁いた。美だけでは、人は救われない。

私は救われたかったのだろうか。救いとは、武士に似合わぬ言葉だ。武士は救いを求めず、ただ型を守る。型の中で死ねば、それでよい。しかし私は、型を守るために城を築いたわけではない。私は、自分の空洞を埋めるために城を築いた。それが救いでなければ、何だというのか。

館に着いたとき、私はもう分かっていた。庭の石の据え方、灯の置き方、家臣たちの視線の角度。すべてが「予定された美しさ」を帯びている。死というものは、ときにひどく美しく設計される。それは、殺す側の自己陶酔だ。だが、殺される側にも、拒みがたい誘惑がある。——ここで死ねば、私は一つの詩になる。そんな傲慢が、私の背筋を伸ばした。

夜半、襖がわずかに鳴った。次の瞬間、刃の冷たさが空気を裂き、灯の影が暴れた。私は立ち上がり、刀を抜いた。鋼の光が、短い稲妻のように走る。斬り結ぶ音は、雨の日の記憶を呼び起こした。雨も刃も、等しく人の体温を奪う。

数が違った。私は幾度か斬り、幾度か避けたが、やがて体のどこかが熱くなり、すぐ冷えた。血は熱い。だが床に落ちた瞬間、血もまた冷たくなる。私は膝をついた。畳の匂いが、急に強く鼻を刺した。命の終わりに、匂いが一番正確になるのは、どうしてだろう。

誰かが言った。「道灌、これまでだ」

私は笑った。雨の日に、理解できぬ山吹を握ったあのときの、惨めな笑いとは違う。今度の笑いは、ようやく意味を理解した者の笑いだった。

「……そうか。実の一つだに、なかったか」

言葉が出た瞬間、私はあの娘の目を思い出した。沈黙の澄んだ目。あれは蔑みではなく、ただの事実の提示だった。世界は、こちらの威厳など気にしない。世界は歌で返し、花で返し、雨で返す。

私は目を閉じた。すると、江戸の城が見えた。まだ未完成の石垣。堀の水面に浮かぶ月。そこへ、山吹の花びらが一枚落ちる。水は、花びらを抱いたまま、何事もなかったかのように静かに揺れる。

——城は残る。——名も残る。——だが、私の空洞は、結局私のまま終わる。

その哀しみが、奇妙に甘かった。甘さは、死の最後の装飾だ。私はその装飾を、受け入れた。

翌朝、庭の隅に、山吹が咲いていた。誰が植えたのかは知らない。ただ黄色だけが、すべてを知っているように、静かに笑っていた。

 
 
 

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