山崎の右
- 山崎行政書士事務所
- 5月12日
- 読了時間: 8分

静岡鉄道の夜は、嘘を隠すには明るすぎる。
新静岡を出た各駅停車は、窓の外に街灯を流し込みながら、細い線路の上を滑っていた。車内には、帰宅途中の会社員、部活帰りの高校生、観光客らしい夫婦、そして黒い書類鞄を膝に抱えた老人がいた。
私はその老人の斜め向かいに座っていた。
名前は青柳隆一。静岡で古くから建設業を営む青柳組の会長。新聞で何度か顔を見たことがある。だが、その夜の青柳は、新聞の写真よりずっと小さく見えた。背広の襟は乱れ、指は鞄の留め具を何度も撫でている。
彼の頭上には、白地に紺の文字でこう書かれた広告パネルがあった。
山崎行政書士事務所相続・遺言・許認可あなたの最後の一行まで、正しく届けます右のQRから無料相談
私は探偵だ。
と名乗ると大げさだが、失せ物、素行調査、企業内の不正調査、時には警察に持ち込めない奇妙な相談を引き受ける。静岡で看板を出して三年。儲けよりも謎のほうが先に来る、割に合わない商売である。
青柳は日吉町を過ぎたあたりで、ふいに私を見た。
「君は……山崎さんのところの人か」
「いいえ」
「そうか」
それだけ言って、彼はまた鞄を抱え直した。
車内の揺れが変わった。音羽町、春日町。扉が開いて閉じるたびに、夜の冷たい空気が少しだけ入ってくる。
柚木を出る直前、青柳のスマートフォンが震えた。
彼は画面を見た瞬間、血の気を失った。膝の上の鞄を開け、茶封筒を確認する。封筒の表には太い筆跡で、こう書かれていた。
遺言書原本
その文字を見た私の背筋が伸びた。
次の瞬間だった。
青柳の体が大きく傾いた。喉から潰れたような音が漏れ、鞄が床に落ちた。車内に短い悲鳴が走る。
私は立ち上がり、青柳の肩を支えた。
「聞こえますか」
青柳の目は開いていた。だが焦点は私ではなく、頭上の広告パネルに合っていた。
震える唇が動いた。
「山崎の……パネル……」
「パネル?」
「右は……嘘だ」
それが、青柳隆一の最後の言葉になった。
いや、正確には死んではいなかった。脈はあった。だが意識は完全に落ちていた。
運転士に非常連絡が入り、車内は騒然となった。倒れた青柳の鞄は床に開いたまま転がっていた。
茶封筒だけが、消えていた。
長沼で列車は一時停止した。
乗客は全部で八人。途中で降りた者はいない。警察が来るまで車両を封鎖する、という車掌の判断は正しかった。
ただし、時間がなかった。
青柳のスマートフォンに新しい通知が入ったからだ。
画面には短い文章が表示されていた。
新清水に着くまでに、正しい者が正しい場所を見つけなければ、遺言は燃える。
私は車掌に頼み、乗客を一人ずつ見た。
青柳の右隣には、三十代の男が座っていた。青柳の長男、青柳拓馬。顔は青白く、動揺しているように見えたが、目だけがやけに乾いていた。
「父とは新清水で山崎先生に会う予定でした。遺言を正式に預けるためです」
「あなたは遺言の中身を知っていましたか」
「知るわけがない」
言い方が早すぎた。
青柳の左隣には、秘書の成瀬綾乃がいた。黒いスーツに、細い銀縁の眼鏡。彼女は落ち着き払っていた。
「会長は最近、誰も信用しなくなっていました。私にも行き先を直前まで教えませんでした」
「それなのに、あなたは同じ列車に?」
「会長に呼ばれました」
少し離れたドア横には、広告パネルの入った薄いケースを持った男がいた。島田という、車内広告の施工業者だという。
「偶然です。今日は別の車両の広告確認で」
「そのケースには?」
「予備のパネルです。見ますか」
中には飲食店や保険会社の広告が数枚入っていた。山崎行政書士事務所のものはない。
高校生の少女が、震えながら手を挙げた。
「あの、私、動画撮ってました。電車の窓に映る街の光が綺麗で」
スマートフォンを借りる。
動画には、倒れる直前の青柳が映っていた。窓ガラスに反射した車内。青柳の頭上にある山崎行政書士事務所のパネル。青柳の右隣に座る拓馬。そして、青柳が封筒を鞄に戻す手元。
動画では、拓馬の手が一瞬、青柳の鞄に近づいたように見えた。
車内の空気が変わった。
拓馬が叫ぶ。
「違う! 俺は触ってない!」
だが誰も信じていない。
私はもう一度、広告パネルを見上げた。
山崎行政書士事務所。相続・遺言・許認可。あなたの最後の一行まで、正しく届けます。右のQRから無料相談。
妙だった。
言葉ではない。配置だ。
私は立ち上がり、パネルに近づいた。右下のQRコードを見た。隅に小さく、サービス一覧が印刷されている。
相続手続/遺言作成/相続登記/各種訴訟/建設業許可
私は小さく息を吐いた。
「これは偽物です」
島田が眉をひそめた。
「偽物?」
「本物の行政書士事務所の広告なら、この文言は使いにくい。少なくとも山崎事務所ほど相続を扱っているところが、自分の看板にこんな雑な言葉を混ぜるとは思えない」
私はパネルの右下を指で押した。
硬いはずの広告板が、わずかに浮いた。
磁石だ。
「工具なしで外せる」
車掌が青ざめた。
「そんな広告、ありますか」
島田が首を振る。
「通常は固定です。走行中に外れたら危ない」
私はパネルを外した。
裏には何もなかった。
乗客たちが落胆の息を漏らす。
だが、私は裏面ではなく、外したパネルそのものを見ていた。厚みが不自然だった。右端だけ、二重になっている。
「カッターを」
誰も動かない。
私は自分のペンの金具で端をこじった。薄い隙間が開く。中から出てきたのは、茶封筒ではなかった。
小さな鏡だった。
広告パネルの内部に、細長い鏡が仕込まれていた。
それを見た瞬間、すべての線が繋がった。
「青柳さんは、犯人を直接見たんじゃない」
私は言った。
「このパネルに映った犯人を見たんです」
拓馬が震える声で言った。
「じゃあ、右って……」
「鏡の中の右は、現実の左です」
車内が静まり返った。
青柳の右隣にいた拓馬ではない。
左隣にいた成瀬綾乃が、ゆっくりと眼鏡を外した。
私は続けた。
「あなたは青柳さんの左に座っていた。偽のパネルを事前に取り付け、内側の鏡で拓馬さんが右側に映るよう角度を合わせた。高校生の動画にも、その罠が映り込んでいた。見た者は皆、拓馬さんが怪しいと思う」
成瀬は笑わなかった。
「証拠は?」
「あります。青柳さんの最後の言葉です。『右は嘘だ』。彼は倒れる直前に気づいた。パネルに映っている右が、現実の右ではないことに」
「それだけ?」
「もう一つ」
私は偽パネルの表面を見せた。
「あなたは山崎事務所の人間ではない。けれど広告のデータを作る必要があった。だから適当に法律っぽい言葉を並べた。相続登記、各種訴訟。行政書士事務所の広告としてはあまりに不用意です。青柳さんはそれにも気づいた。だから『山崎のパネル』と言った」
成瀬の手が膝の上で握られた。
「封筒はどこですか」
私は彼女の黒い傘を見た。
長沼で列車が止まってから、彼女は一度も傘を手放していなかった。雨は降っていない。傘の先端だけが、妙に重そうだった。
車掌が傘を受け取り、先端のキャップを外した。
中から、細く丸められた茶封筒が出てきた。
拓馬がその場に崩れ落ちた。
「なんで……成瀬さん、なんでだよ」
成瀬は封筒を見つめたまま、低く言った。
「あなたが相続すると思っていたから」
「え?」
「会長はあなたを切るつもりだった。会社も土地も、全部別の人間に渡すつもりだった。私は十年、あの人のために働いた。何もかも知っていた。なのに、最後に選ばれるのは血のつながりだけなんて、許せなかった」
私は封筒を開けた。
そこにあったのは、遺言書ではなかった。
一枚目には、青柳隆一の筆跡でこう書かれていた。
告発書
車内の誰もが息を呑んだ。
内容は、青柳組が過去に行った許認可書類の改ざん、架空契約、そしてそれに関わった人物の一覧だった。最後のページには、こうあった。
本書を、山崎行政書士事務所を通じて関係機関に提出する。私の財産については、別紙遺言に従う。ただし、これを奪おうとした者、隠そうとした者には一円も残さない。
私は封筒の底を探った。
別紙がない。
成瀬が顔を上げた。
「ない……? 遺言は?」
その声には、初めて本物の恐怖が混じっていた。
私はもう一度、山崎行政書士事務所のパネルを見た。
あなたの最後の一行まで、正しく届けます。
最後の一行。
私は偽パネルではなく、その下に残っていた本物の広告枠を指でなぞった。枠の裏、細い溝に、さらに薄い紙片が挟まっていた。
取り出す。
それは、青柳隆一の直筆の短い遺言だった。
私の全財産は、山崎行政書士事務所が指定する手続により、過去の不正で損害を受けた者への補償、および静岡鉄道沿線の児童支援基金に充てる。親族および役員には一切を残さない。
車内に、長い沈黙が落ちた。
拓馬も、成瀬も、島田も、誰も声を出さなかった。
やがて成瀬が笑った。
乾いた、壊れたような笑いだった。
「じゃあ……私は何を盗んだの」
私は答えた。
「罪です」
その時、青柳が小さく咳をした。
全員が振り向いた。
彼は意識を取り戻していた。救急隊が到着する直前だった。
青柳は私を見て、かすかに笑った。
「山崎さんに……頼まれていたんだ。あのパネルに、最後の一行を隠してくれと。誰かが遺言を狙うなら、必ず“遺言書原本”と書いた封筒を盗る。だが、本当に届けるべきものは、目の前にある看板の裏に置く」
「あなたは、自分を囮にしたんですか」
「静鉄は時間どおりに走る。人間の欲より、ずっと正確だ」
青柳はそう言って、また目を閉じた。
新清水行きの列車は、警察と救急隊を乗せるため、長沼で止まったままだった。
窓の外では、静岡の夜が何事もなかったように光っている。
私は外されたパネルを膝に置いた。
山崎行政書士事務所。
相続・遺言・許認可。
あなたの最後の一行まで、正しく届けます。
その広告は、派手な脅迫状よりも、鋭い罠だった。
そしてこの夜、最も恐ろしかったのは犯人の知恵ではない。
死ぬ前提で、自分の欲深い周囲を一両の電車に乗せ、たった一枚の広告パネルで全員の本性を照らし出した老人の知恵だった。





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