新茶の夢
- 山崎行政書士事務所
- 5月5日
- 読了時間: 24分

第一章 春の香り
静岡市のはずれ、小高い丘のふもとに広がる茶畑は、春の朝日にきらきらと輝いていた。七歳のミキオは、朝露に濡れた草を踏みしめながら、はやる心を抑えきれずに坂道を駆け上がった。丘の上に立てば、遠く富士の白雪が薄い朝霧に霞み、眼下には新茶の若葉が絨毯のように一面に広がっている。山から降りてきたそよ風が、茶の葉をそよそよと揺らしながら、かぐわしい香りをミキオのもとへ運んできた。ミキオは目を閉じ、その香りを胸いっぱいに吸い込む。新芽の息吹、土の匂い、春の光――それはまるで春そのものを飲みほしたかのような気持ちにさせた。
茶畑では、朝早くからミキオの両親や近所の人々が、新茶の摘み取りに精を出していた。畝に沿って屈み込み、丁寧に新芽を摘んでいく大人たちの指先は、陽光を受けてみどりに染まっている。ミキオも「僕も手伝う!」と意気込んで、母に教わりながら小さな手で茶の葉を摘もうとした。しかし、新芽は柔らかく、ミキオの指では上手く摘めずに、葉っぱをぐしゃりと潰してしまいそうになる。「ミキオ、無理しなくていいのよ。」母は優しく微笑んで言った。「まだ手が小さいんだから、お父さんたちを応援しててね。」その言葉に、ミキオは少し悔しそうに唇を噛んだ。自分だって立派に手伝えると思っていたのに、役に立てないもどかしさが胸に渦巻いた。
ミキオは両親の邪魔にならないように、畑の端っこでしゃがみ込み、摘み取られた茶葉の山を見つめた。柳色の若葉たちは、摘まれたあともまだ生きているかのように艶々として、かすかに湯気を立てているようにも見えた。指で一枚つまみ上げてみると、朝日を透かして葉脈が黄金色に光った。ミキオはその美しさに思わず息を呑む。「こんなにきれいなんだ…」独りごちると、摘みたての葉からほんのりと甘い匂いがした。先ほど嗅いだ春の風の香りが、この小さな葉っぱ一枚に詰まっているようだった。
ふと、畑の向こうから祖母の呼ぶ声がした。「ミキオ、お茶を飲みにおいで。」見ると、畑の木陰に敷いたござの上で、おばあちゃんが魔法瓶からお茶を注いで待っている。ミキオは葉っぱをそっと山に戻すと、小走りに祖母のもとへ向かった。
祖母は湯飲みに注いだばかりのお茶を差し出した。茶碗からは薄緑の湯気がゆらゆらと立ちのぼり、周囲に芳しい香りが漂う。ミキオはそれを両手で受け取り、一口すすると、舌の上にほのかな渋みと甘みが広がった。「これが今年の新茶だよ。ありがたいねえ。」祖母が目を細めて言った。ミキオは「うん、おいしい!」と笑顔で答えたものの、心の中ではやはり、自分も摘み手として役に立ちたいという思いが燻っていた。
湯飲みを置くと、ミキオは立ち上がってあたりを見渡した。両親はまだ向こうの畝で忙しそうにしている。空はすっかり朝の青さを増し、鳥たちが賑やかにさえずっていた。ミキオは「ちょっとあっちまで行ってくるね!」と祖母に声をかけ、茶畑の奥へと歩き出した。「あまり遠くへ行かないようにね」と祖母の声が背中に届いたが、ミキオの耳には風の音に混じって消えていった。
第二章 茶畑のささやき
ミキオは誰もいない茶畑の奥へと分け入っていった。摘み手たちの声が遠のき、辺りはいっそう静かになる。聞こえるのは、自分の足が時折小枝を踏む音と、風に木々がざわめく音だけだ。日差しは先ほどより少し傾き、茶の茂みの影が長く延びている。ミキオが一株の脇を通り抜けると、その葉先が腕に触れた。すると「…ありがとう…」と誰かが囁いたような気がした。ミキオははっと立ち止まり、周囲を見回す。しかし人影はない。代わりに、ざわざわ…と茶の葉が一斉に揺れて、何かを話しているように思えた。「…ありがとう…また来年も…」風の音に混じって、小さな声がいくつも重なり合う。まるで摘まれた茶の葉の代わりに、残った木の方がミキオに語りかけているかのようだった。
ミキオは不思議と怖くはなかった。ただ、その耳に届くささやきが嬉しくて、茶の茂みにそっと手を触れた。「おいしいお茶にするからね…」と小声で返事をしてみる。すると、さらさら…と葉が揺れ、まるで笑っているように見えた。ミキオの胸の中のもやもやは、いつの間にか消えていた。それどころか、自分が茶の木たちに受け入れられたような温かさを感じていた。
やがて進んでいくと、茶畑の端に小さな祠(ほこら)があるのが目に入った。苔むした石の祠で、中には石の地蔵様が祀られている。そういえば以前祖母から、このあたりの茶の守り神様だと聞いたことがある。ミキオは手を合わせようと近づいた。
そのとき、どこからか古い歌声が流れてきた。
「夏も近づく八十八夜♪…」
それは抑揚のゆったりしたわらべ歌で、茶摘みの歌の一節だった。ミキオも学校で習った歌だ。だが、歌っているのは誰だろう?周囲には誰もいないはずなのに…。ミキオは歌声のする方へ目を凝らした。
茶畑の先、竹藪の縁に、ひとりの老婆が立っていた。白い手ぬぐいを三角巾のように被り、腰に籠を下げている。まるで昔ながらの茶摘み婆さんの姿だ。老婆はこちらを見てにっこり笑うと、ゆっくりと竹藪の方へ歩き去ろうとした。
「待って!」ミキオは思わず声を上げ、老婆を追いかけた。老婆は竹藪の中の小径へと姿を消しかけている。ミキオは草をかき分け、その跡を追った。
竹藪の中は薄暗く、ひんやりとした空気に包まれていた。まっすぐ天に伸びる青竹が密生し、木漏れ日が斑になって地面に揺れている。老婆の姿を見失わないよう、ミキオは小走りに道を進んだ。すると不意に、竹藪の奥からぱぁっと眩しい光が溢れ出した。思わず目を覆ったミキオだったが、その指のすき間から信じられない光景が飛び込んできた。
先ほどまでの竹林ではなく、見知らぬ野原が広がっていたのだ。そこには無数の茶の木が植わり、先ほどの茶畑よりもさらに青々と輝いている。空は茜色に染まり、遠くの山々の稜線が金色に縁取られていた。まるで夕焼け時の風景だが、ついさきほどまで朝だったはずなのに。ミキオは自分の目を疑った。
野原の中央には一本の大きな古木が立っていた。幹はねじれ、長い年月を経た風格がある。よく見るとそれは一本の茶の木だった。こんなに大きな茶の木があるなんて、とミキオは息を呑んだ。樹の下には先ほどの老婆が立っている。老婆はミキオに向かって手招きした。
ミキオは不思議と恐れずに、その老婆のもとへ歩み寄った。耳をすますと、どこからか湧水のせせらぎや、かすかな鈴の音のような音色が聞こえてくる。風が吹き抜け、新芽の薫りがあたりに満ちていた。
「おいで、ミキオ。」老婆は優しく声をかけた。ミキオははっとした。自分の名前を教えていないのに、どうして知っているのだろう。しかし不思議と驚きはすぐに消え、その声に吸い寄せられるように足を進めた。
老婆の顔は皺だらけだがどこか幼子のようにも見え、その瞳は深い森の湖のように澄んでいた。ミキオがそばに立つと、老婆は静かに言った。
「よく来たね。さあ、一休みしなさい。」
老婆は傍らの平たい石に腰を下ろすよう促した。見ると、大樹の根もとに平石があり、まるで人を迎えるベンチのようだった。ミキオが石に腰かけると、老婆は手にした竹の柄杓で、根元から湧く澄んだ水を掬い上げ、ミキオの前に差し出した。
「お飲み。山の水じゃよ。」
ミキオはごくりとのどを鳴らして、その冷たい水を飲んだ。不思議なほど体に染み渡り、心まで透き通るような気がした。朝から動き回って喉が渇いていたことを、今さらながらに感じる。
「ありがとう…ございます。」ミキオが礼を言うと、老婆はにっこりと微笑んだ。どこかで見た笑顔のように思えたが、思い出せない。
ミキオが周囲を見回していると、遠くから何やら楽しげな笑い声や話し声が聞こえてきた。ざわめき、歌声、そして鈴を転がすような笑い声――まるでお祭りのようだ。「…祭り…?」ミキオがつぶやくと、老婆は静かに頷いた。
「ええ、今日は年に一度の新茶の祝いの日。さあ、行ってごらん。皆が待っていますよ。」
老婆に背中を押されるように、ミキオは立ち上がった。視線の先、茶畑の向こうに小高い丘があり、その頂に何か明かりが揺れている。提灯の火のような温かな光だ。ミキオは引き寄せられるように、その丘へ向かって歩き出した。
振り返ろうとすると、老婆の姿はもう見えなかった。ただ古木が静かにそびえ、葉を揺らしているだけだった。ミキオは不思議と寂しくはなく、むしろ胸を高鳴らせながら、声のする方へと駆けていった。
第三章 緑風の精
丘の頂にたどり着いたミキオの目に飛び込んできたのは、夢のような光景だった。そこには小さな野原が広がり、あちこちに淡い光を放つ提灯のようなものが宙に浮かんでいる。その明かりに照らされて、見たこともない人々——いや、人とは少し違う姿の者たち——が楽しげに踊ったり談笑したりしていたのだ。うさぎの耳を持つ少女、葉っぱの衣をまとった小人たち、狐の面を被った青年、羽虫のように空を飛ぶ者までいる。まるでおとぎ話の百鬼夜行だ、とミキオは思ったが、不思議と怖さは感じなかった。むしろ、心の奥がぽっと温かくなり、ここに来るべくして来たような懐かしささえ覚えた。
ミキオが茂みの影から恐る恐る様子を窺っていると、宙に浮かぶ提灯の一つがふわりとこちらに飛んできた。近くで見るとそれは光るホタルブクロの花のようで、中に小さな火が灯っている。ミキオの周りをくるりと一回りすると、まるで誘うように先へ進んでいく。ミキオはその光を追って、野原の中央へと歩み出た。
途端に、踊っていた者たちが一斉に動きを止めた。静寂が訪れ、無数の視線がミキオに注がれる。緊張で胸がどきどきと高鳴る。しかし次の瞬間、わっと歓声が上がった。
「よく来たね、ミキオ!」「待っていたよ、人間の子!」
口々に声が飛び交い、皆が笑顔でミキオを迎え入れた。うさぎ耳の少女が花輪を持って駆け寄り、ミキオの首にかける。茶の葉で編んだ花冠から、新芽の香りがふわりと漂った。小人たちが手をつないで輪を作り、ミキオを囲んでくるくると舞い始める。狐の面の青年は笛を取り出し、軽やかな音色で踊りの調べを奏でた。
ミキオは夢中で笑い、踊った。足取りは自然と音楽に乗り、心は羽のように軽かった。見上げると、夜空には満天の星が瞬いている。先ほどまで茜色だった空が、いつの間にか深い紺碧に変わっていたのだ。しかし不思議と違和感はない。むしろ、季節も時間も飛び越えて、特別な夜に入り込んだのだと感じた。
やがて踊りが一段落すると、一陣の爽やかな風が野原を吹き抜けた。風に乗って、新茶のような青い匂いが辺りに広がる。その風が渦を巻き、ミキオのそばでひとつの人影に形を変えた。いつの間にか、そこに緑色の衣を纏った青年が立っていたのだ。髪は草原のように柔らかな緑色で、瞳は初夏の空を映したように澄んでいる。青年はミキオに微笑みかけた。
「ようこそ、ミキオ。君を待っていた。」青年の声は、そよ風が木立を揺らす音に似ていた。「僕はこの丘の風、薫風(くんぷう)さ。君がここへ来られるよう、道案内をしたんだよ。」
「あなたが…風?」ミキオは目を丸くした。朝、茶畑で吹いていたあの心地よい風が、目の前の青年だというのだろうか。
青年——薫風は軽やかに笑った。「そうとも。僕らは皆、茶畑や山や川、この土地の精霊だ。君が茶の葉を愛おしんでくれたから、扉が開いたんだよ。」
ミキオは朝のことを思い出した。茶の葉に触れ、語りかけた自分。その時胸に感じた暖かさは、きっとこの世界につながっていたのだ。
薫風はミキオの手を取った。「さあ、一緒においで。今夜は新茶を祝う特別な宴なんだ。君は客人だから、ゆっくり楽しんでいって。」
ミキオは薫風に導かれるまま、輪の中心へ招かれた。野原には木の長卓がいつの間にかしつらえられ、周りには先ほどの精霊たちが席についている。卓上には湯気を立てる大きな急須や茶碗、小さな茶菓子の皿などが並んでいた。湯気の香りに鼻をくすぐられ、ミキオのお腹がぐうと鳴った。よく見ると、茶菓子は月のように白い饅頭や、桜色の餅菓子、茶葉を練り込んだ緑色の団子など、見たこともないお菓子ばかりだ。
「さあさあ、遠慮せず召し上がれ。」と隣の狸顔の男が茶碗を勧めてくれた。「今淹れたばかりの今年の新茶だよ。」
ミキオはすすめられるまま、小さな湯飲みを両手で受け取った。薄緑の液体からは信じられないほど豊かな香りが立ちのぼっている。先ほど祖母に淹れてもらった新茶と同じはずなのに、ここではさらに命が輝いているような香りだ。口に含むと、爽やかな甘みが舌に広がり、体の隅々にまで染み渡っていく気がした。目を閉じると、自分が風になって空を舞っているような、そんな解放感に包まれる。「おいしい…!」と心から声が漏れた。
周りを見ると、精霊たちも満足げにお茶を啜っている。うさぎ耳の少女はおいしそうに饅頭を頬張り、狐面の青年は器用に面を上げて茶を飲んでいた。薫風がミキオの隣に腰掛け、にこにことその様子を見守っている。
こうして、満天の星空の下、新茶を囲む不思議な宴が始まったのだった。
第四章 茶の精たちの夜宴
宴もたけなわになった頃、精霊たちの中の年嵩の者が立ち上がった。それは白髭をたくわえた小柄な翁で、手に古びた茶杓のような杖を持っている。翁が静かに咳払いすると、賑やかだった場がしんと静まった。精霊たちは一斉に翁に注目し、ミキオも思わず背筋を伸ばす。
「今宵は人間の客人もおることだし、久方ぶりにこの土地の物語を語るとしようかのう。」
翁の声は深みがあり、不思議な響きを帯びていた。ゆっくりとあたりを見回し、語り始める。
「むかしむかし、まだお茶がこの里に根付いておらなんだ頃のことじゃ…。都におわす若い皇子様が重い病に伏せられ、都中が案じておった。ある陰陽師が占ったところ、『東の国に千年生きた大樹あり。その木で仏像を彫り祈れば、病は癒えよう』とのお告げが出た。そこで都から一人の高僧が遣わされた。その名を行基という…。」
ミキオははっとした。行基——それは歴史の授業で聞いた奈良時代のお坊さんの名だ。精霊たちは皆、興味深げに耳を傾けている。翁の物語は続く。
「行基は東へ東へと旅をし、この駿河の国にたどり着いた。そして山あいの村で、葦の生い茂る窪地のほとりに、見事な楠の大木を見つけたんじゃ。その幹は太く、空高くまで枝を伸ばし、千年の時を生きた風格があった。行基はさっそく祈りを捧げ、その木を切り倒して仏像を彫り始めたのじゃよ。一心不乱にな…。」
翁の目がきらりと光り、杖が地をコツンと叩いた。
「行基は昼も夜も彫り続け、とうとう七体の観音様を彫り上げようとしておった。しかし、長旅と作業の疲れがどっと出て、手は震え、意識も朦朧としてきた。その時じゃ。どこからともなく一人の婆さまが現れた。婆さまは柄杓に一杯の飲み物を汲んで差し出し、『さあ、お飲みなされ』と言ったそうな。行基がそれを飲むと、不思議や不思議、体に力が漲り、疲れがすっかり消えた。そして最後の仕上げまで成し遂げることができたんじゃ。」
ミキオは思わず身を乗り出した。その話は祖母から聞いた伝説と同じだ——行基としゃくし婆の伝説。翁はにやりと笑い、続ける。
「行基は七体の観音像をこの地の七つの寺に安置し、都の皇子の平癒を祈った。すると皇子様の病はみるみる快方に向かったという。それからじゃ。その婆さまが差し出した飲み物こそ『茶』であったと都に伝わり、やがてこの地にも人々が茶の木を植えるようになったのは…。ふぉっふぉ、以上がわしら茶の精に伝わる昔語りじゃよ。」
翁が語り終えると、周囲から感嘆のため息や拍手が起こった。ミキオは胸が熱くなっていた。まさか精霊たち自身から、この土地のお茶の起こりの話を聞けるとは思わなかった。祖母から聞いたときよりも、ずっと生き生きと心に迫ってきた。あの婆さま…しゃくし婆…それはきっと、さっき自分を導いてくれたあの老婆に違いない。ミキオはあらためて、あの優しい笑顔を思い浮かべていた。
「行基を助けたお婆さんは…?」ミキオは思わず尋ねた。翁がこちらを向く。
「ふむ、その婆さまはのう、茶の精霊の長じゃったとも、人の姿を借りた観音様じゃったとも言われる。あるいはこの土地の山神が化身したともな。正体は誰も知らぬ。しかし今もこの山里の茶畑を見守っておられる…そう信じておるよ。」
薫風が横から優しく言い添えた。「ミキオをここへ導いたのも、そのお婆さんだよ。きっと君に会いたかったんだ。」
ミキオは温かなものが込み上げるのを感じた。自分なんかのために、あの伝説の婆さまが? 信じられない思いだった。だが不思議と心のどこかで納得もしていた。——春の朝、茶畑で感じたあの優しさ。それはずっと昔から茶の精霊たちが受け継いできた思いやりそのものだったのだ。
「ありがとう…」ミキオは誰にともなく呟いた。目頭が熱くなり、湯気の向こうで星明かりが揺れて見えた。
精霊たちは静かに頷き、再び杯に茶を注いで口に運んだ。翁も満足げに腰を下ろし、杖を脇に立てかける。薫風がそっとミキオに茶碗を差し出した。「さあ、君も。茶を飲み干して、婆さまに心でお礼を言おう。」
ミキオは「はい」とうなずき、茶碗の残りをぐっと飲み干した。冷めてもなお甘みの残る新茶が、胸の奥に染み渡っていく。空には天の川が薄雲のようにかかり、瞬く星々がまるで何か語りかけてくるようだった。
その時——。
ふいに、ひゅう、と冷たい風が吹き抜け、卓上の茶碗がかたかたと震えた。遠くでごろごろ、と雷鳴のような音が響いた。精霊たちが一斉に空を仰ぐ。先ほどまであんなに美しかった星空が、どす黒い雲に覆われ始めているではないか。
「これは…まずいぞ。」薫風の表情が険しくなった。「嵐が来る。」
ぱらり、と冷たい雫が一粒、ミキオのほおに落ちた。
第五章 嵐の予感
見る間に黒雲は空一面に広がり、風がびゅうびゅうと吹き荒れ始めた。せっかくの提灯の灯も次々と吹き消され、野原は暗闇に包まれる。精霊たちは一斉に立ち上がり、ざわめきが広がった。
「どうして急に嵐なんか…!」うさぎ耳の少女が不安そうに呟く。狸顔の男が「今年は穏やかな春のはずだったのになあ」と首をかしげる。
薫風は険しい顔つきで空を睨んでいた。「おかしい。季節外れの嵐だ。まるで何かが怒っているみたいだ…。」
ごろごろごろ、と雷鳴が近づいてくる。稲妻が一筋、雲間を裂いて光った。ミキオは思わず身を縮めた。せっかくの楽しい宴が、一転して恐ろしい様相になってしまった。冷たい風が肌に突き刺さり、茶畑の新芽が震えているのが見える。
「茶の葉が…!」ミキオははっとした。あんなに大事に育てられた新茶の葉が、この嵐で台無しになってしまうかもしれない。強風に煽られ、葉が千切れ飛ぶ姿が脳裏に浮かび、胸がぎゅっと痛んだ。
「皆、急いで支度をしまえ!茶器を片付けるんだ!」翁が杖を振り上げて叫んだ。精霊たちは我に返り、ばたばたと宴の片付けを始める。皿や急須を抱えて走る者、吹き飛ばされまいと卓を押さえる者。だが風はますます激しさを増し、杯や皿が次々と転がっていった。
ポツ、ポツポツ…と大粒の雨が降り始めた。冷たい雨滴が頬を打つ。ミキオは恐ろしくなって、薫風の腕にしがみついた。「どうしよう?」震える声で尋ねる。
薫風はミキオの肩に手を置き、「大丈夫、僕らで何とかする」と言ったが、その声にも焦りが滲んでいた。彼は風の精だけに、嵐の強さがよくわかるのだろう。「このままでは茶の畑が…せっかくの新芽が台無しになってしまう…。」
狐面の青年が走り寄ってきた。「薫風!この嵐、ただの自然現象じゃないぞ。何か邪悪な気配を感じる。」
「わかっている。」薫風は鋭く頷いた。「たぶん山の龍神が荒れているんだ…理由はわからないが、鎮めなくては。」
龍神——ミキオは耳慣れない言葉に目を瞬いた。だが考えている暇はなかった。雨脚が急に強まり、ざあざあと滝のように降り注いできたのだ。
「うわぁ!」ミキオはずぶ濡れになりながら叫んだ。精霊たちも必死で踏ん張っているが、雨と風で皆視界もきかない様子だ。うさぎ耳の少女が飛ばされまいと低くしゃがみ、狸の男は転がった急須を追いかけている。
ミキオは何とか目を凝らし、丘の下の方を見た。茶畑が嵐に打たれて黒く波打っている。せっかく芽吹いた柔らかな葉が、容赦なく叩きつけられている。なんとかしなきゃ…!
「僕も手伝う!」ミキオは決心して叫んだ。薫風が驚いたように振り向く。「ミキオ、無茶だ!君は人間なんだ、危ないから下がっていて!」
「嫌だ!」ミキオは首を振った。小さな体で役に立たないと思われた悔しさが、ここでも蘇ったのだ。「僕だって……茶畑を守りたい!」雨に濡れた顔を上げ、必死に叫ぶ。その目には決意の光が宿っていた。
薫風は一瞬きょとんとしたが、すぐに真剣な眼差しで頷いた。「…わかった。では君にしかできないことを頼む。」
ミキオは「何でもやる!」と答えた。
「お茶だ。」薫風は懐から小さな瓶を取り出した。それは緑色に輝く液体で満たされている。「この瓶に新茶のエキスがある。これを嵐の中に届けてほしいんだ。」
「新茶のエキス?」ミキオは瓶を受け取り、中の液体を見つめた。見るからにただ者ではない雰囲気を放っている。きっとこの宴で使われた特別なお茶の精だろう。
「そうだ。お茶には不思議な力がある。人の心を癒し、悪しきものを鎮める力が。さっきの伝説でもあっただろう? 行基は茶で力を得て祈りを成し遂げた。今度は俺たちが茶の力で龍神の怒りを鎮めるんだ。」
薫風の声は嵐に負けじと強く響いた。「でも僕ら精霊だけではこの茶を龍神に届けられない。人間である君が、架け橋となってくれ。」
ミキオは強く頷いた。瓶を握る手に力を込める。自分にそんな大役が務まるだろうかと不安もあったが、やるしかない。
「どうすればいい?」ミキオが尋ねると、薫風は「丘の頂上へ行け!」と叫んだ。「そこから空に向かって瓶を放り投げるんだ。僕が風で運ぶ。君は心を込めて祈れ——茶の香りよ、どうか天まで届け、と。」
ミキオは雨の中を這うようにして丘のさらに高い場所へ向かった。先ほどまで宴が開かれていた辺りは大木のそばだ。雷光が辺りを白く照らし、大木が不気味な影を落とす。だがミキオは怯まなかった。瓶をしっかり抱え、ずぶ濡れになりながらも一歩一歩進む。
頭上で雷鳴がとどろき、思わず体が竦む。それでも、茶畑のことを考えると勇気が湧いた。お父さんやお母さんが大事に育てた新茶、祖母が愛したお茶、それを守りたい一心だった。
やっとの思いで丘の頂に立つと、暴風がミキオを押し倒さんばかりに襲った。空は渦巻く闇だ。激しい雨で呼吸もままならない。ミキオは瓶を握った手を胸に当て、心の中で強く念じた。
(お願いです…お茶の力で、この嵐を鎮めてください!)
そして力の限り、瓶を空めがけて放り投げた。
瓶はくるくると宙を舞い、稲妻に照らされて一瞬緑色の光を放った。その瞬間、薫風の叫び声が聞こえた。「今だ!」突風がミキオの横を駆け抜け、瓶を高く高く空の彼方へ運んでいった。
ミキオは目を凝らした。黒雲の中に瓶が飲み込まれ、見えなくなる。激しい雨に顔を叩かれながら、ただひたすら祈った——どうか、どうか届いて…。
第六章 朝焼けの茶畑
ミキオの祈りが天に届いたのか、やがて信じられないことが起こった。暴れ狂っていた風が、ふっと息切れるように弱まり始めたのだ。雷鳴も次第に遠ざかり、黒雲の色が少しずつ薄墨色に変わっていく。降り注いでいた大雨が小降りになり、やがてぱたぱた…と優しい音に変わった。空気にふわりと新芽のような青い香りが混じり始める。まるで雲の上からお茶を煎じた湯気が降りてきたかのようだった。
「やった…!」遠くで誰かが叫んだ。薫風だ。ミキオははっと顔を上げた。雲間に一筋の光が射し込み、渦巻く闇を切り裂いている。朝日だ。眩い黄金の光が、東の空から漏れ始めたのだ。重く垂れこめていた雲がみるみる裂け、晴れ間が広がっていく。その向こうには淡い橙色に染まった空と、雪化粧の富士の峰が顔を覗かせた。
精霊たちから歓声が上がった。雨にずぶ濡れのうさぎ耳の少女が飛び跳ね、狸の男が「助かったぞ!」と笑った。狐面の青年は静かに面を外し、安堵の笑みを見せた。翁は杖を高く掲げ、「龍神様、どうかお鎮まり下さった!」と天に向かって拝んでいる。
ミキオはその光景を眩しい思いで見渡した。嵐に震えていた茶畑はすっかり雨に洗われ、朝焼けの光を受けて煌めいている。葉先についた雨露が宝石のように輝き、一面の茶畑が黄金と緑の錦を織り成したようだ。「綺麗…」思わずミキオはつぶやいた。あの激しい嵐が嘘のように、大地は静かさを取り戻している。
「ミキオ!」薫風が駆け寄ってきた。彼も全身ずぶ濡れだったが、その顔は晴れやかだった。「君のおかげだ。本当にありがとう!」そう言ってミキオの両肩に手を置く。
「僕…何かできたのかな。」ミキオは実感が湧かず、ぽかんとしていた。しかし薫風は力強く頷いた。
「もちろんさ。君の祈りと茶の力が、龍神の心を静めたんだ。見てごらん。」薫風が指さす方を見ると、朝日に照らされた雲がゆっくりと遠ざかっていく。その雲はどこか龍の形に見えたが、険しかった表情が穏やかに変わったように思えた。雲の龍はやがてすっと霧散し、青空だけが残った。
ミキオは胸に熱いものが込み上げてきた。自分にも役に立てることができた——茶畑を守るという、大好きな家族を助けるようなことが。この嬉しさに勝るものはなかった。
精霊たちが次々にミキオのもとに集まり、口々に礼を述べた。「よくやった!」「恩に着るよ、人間の子!」「君は勇敢だ!」ミキオは何度も「ううん…僕ひとりの力じゃないよ。みんながいたから…」と首を振った。頬が熱く、照れくさかったが、誇らしくもあった。
ふと、辺りを見渡すと、あの老婆の姿がないことに気づいた。祭りの始まりにミキオを導いてくれたしゃくし婆は、どこへ行ったのだろう。ミキオが気にかけていると、翁が笑って教えてくれた。「婆さまなら、龍神をなだめに雲の上へ行っとるよ。きっとすぐ戻ってこられるじゃろう。」
「そうですか…。」ミキオは雲一つない空を仰いだ。もう嵐の気配はどこにもない。ただ朝焼けが天を染めているだけだ。
薫風が静かに言った。「ミキオ、もうすぐ君の世界の朝が来る。僕たちの宴もお開きの時間だ。」
ミキオははっとした。楽しくて不思議な夜は、もう終わりなのだ。「帰らなきゃいけないの…?」寂しさが胸に広がる。
薫風は優しく微笑んだ。「君が現実の世界で果たす役目があるように、僕たちもまたそれぞれの持ち場で生きていかなくちゃならないからね。でも大丈夫。君が茶畑を訪れるたび、風の音や葉の囁きの中に僕たちはいるよ。お茶を飲むとき、きっと思い出してほしい。」
ミキオの目に涙が浮かんだ。「皆に、また会える…?」
「ええ、きっと。」背後から柔らかな声がした。振り向くと、あの大きな茶の古木の下に婆さまが立っていた。いつの間に戻ってきたのか、穏やかな笑みを湛えている。婆さまはミキオに歩み寄り、その頭をやさしく撫でた。「あなたが真心を忘れず、自然を敬う心を持っている限り、いつでも会えるとも。現にこうして、心が通ったではないか。」
ミキオは涙をこぼしながら頷いた。婆さまは懐から小さな包みを取り出した。白い布にくるまれていたのは、一枚の美しい茶葉だった。朝日に透けて翡翠のように輝いている。
「これは…?」ミキオが受け取ると、布に何か文字が書かれているのが目に入った。拭われかけた雫の跡で少し滲んでいるが、「感謝」という二文字が確かに読めた。
「それは今日の新茶の、一番立派な若葉じゃよ。」婆さまが優しく言った。「あんたの働きに、山も畑も感謝しとる。どうか忘れずに持ってお行き。」
ミキオは胸がいっぱいになって、「ありがとう…ございます…!」と何度も頭を下げた。布に包まれた茶葉を大切に胸に抱える。その姿に、精霊たちも微笑んで頷いていた。
「さあ、時間だ。」薫風が一陣の風を起こした。精霊たちが道を開け、もとの竹藪への小径が朝日に照らし出される。
ミキオは名残惜しそうに皆の顔を見回した。「本当にありがとう!僕、ぜったいにこのこと忘れません!」
「元気でな!」うさぎ耳の少女が手を振る。狸の男が「達者で暮らせよ」と笑う。狐面の青年は静かに頷き、翁は「またいつでもおいで」と杖を振った。
最後に薫風が風の羽のように軽く抱きしめてくれた。「行きなさい、ミキオ。また会おう。」
ミキオは大きく頷き、振り返りながら竹藪の小径へと走り出した。朝露を含んだ草が足に冷たい。先へ進むごとに、声や気配が遠のいていく。振り返ると、もう誰の姿も見えなかった。ただ淡い朝もやの中に茶畑が広がり、鳥たちがチチチと鳴き交わしているだけだった。
やがて石の祠が見えてきた。ミキオは祠の前で立ち止まり、そっと手を合わせた。「みんな、ありがとう…」心の中でそう告げてから、ゆっくりと来た道を引き返し始めた。朝日を背に受けながら、ミキオの影は茶畑の上に長く伸びていた。
第七章 新茶の朝
ミキオが茶畑から家へ戻ると、あたりはすっかり朝日に満ちていた。両親はちょうど茶摘みを終え、一籠分の新芽を持って帰ってきたところだった。祖母は縁側で麦わら帽子を脱ぎ、汗を拭っている。ミキオの姿を見るなり、母がほっとした表情で駆け寄った。「ミキオ!どこに行ってたの?心配したのよ。」
「ごめんなさい…。」ミキオは少し照れくさそうに笑った。「ちょっと祠の方まで行ってたんだ。お茶の神様にお祈りしてたの。」
「まあ…祠に?」母が目を丸くする。祖母はゆっくりと微笑んだ。「そうかい、それは感心だねぇ。」
父も戻ってきて、「少し前にぽつぽつ雨が降ったけど、大丈夫だったか?ずぶ濡れじゃないか」とミキオの服を見て驚いた。ミキオの服は朝露や雨で濡れていたのだ。「う、うん、でも平気だよ!」ミキオは慌てて答えた。確かに現実の世界でも小雨が降ったらしい。でもすぐに晴れて、被害もなかったようだ。父は首を傾げながらも、「風邪ひくなよ」と笑った。
「さあ、一息つこう。」祖母が湯飲みを用意し始めた。摘みたての新茶の葉が急須に入れられ、台所から湯を注ぐ音が聞こえる。ミキオは胸の包みをそっと握りしめた。あの茶葉はどうしよう。みんなに見せたい気もするけれど、自分だけの宝物にしておきたい気もした。
縁側に家族が腰を下ろし、湯飲み茶碗が手渡された。祖母がお茶を注ぎ終えると、軒先にほっとするようなお茶の香りが立ちのぼった。ミキオも湯飲みを受け取り、一口含む。爽やかな苦みと甘みが舌に広がり、朝の光とともに心に染み渡った。なんて美味しいんだろう——まるで昨夜の宴で飲んだお茶のようだ、とミキオは思った。
「今年のお茶は出来がいいねぇ。」祖母がにこにこと茶をすする。母もうなずいた。「ほんと。香りが格別だわ。」
ミキオは湯飲みを両手で包み込み、透き通った緑色を覗き込んだ。そこに空が映り、小さな雲がぷかりと浮かんでいるように見えた。あの雲は龍神様だろうか、とふと思う。でももう怖くない。きっと優しく見守ってくれているに違いない。
風がそよと吹き、庭の木々が揺れた。ミキオは目を閉じ、その音に耳をすます。——ほら、ざわざわと茶の葉たちが歌っている。「ありがとう、ありがとう」と。
「ミキオ、どうしたい?」父の声に、ミキオははっと目を開けた。「ううん、なんでもない!」照れ隠しに笑って答える。その胸には、今朝経験した不思議な出来事が暖かく息づいていた。言葉にしなくても、大丈夫。あの茶畑と風と香りが、すべてを知っている。
ミキオは家族のみんなと顔を見合わせ、「おいしいね」とお茶を飲み干した。空には高く青空が広がり、遠く富士山がくっきりと見える。今日摘んだばかりの新茶の香りが、静岡の穏やかな朝にいつまでも漂っていた。





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