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橙の約束

 十二月の蒲原は、朝の空気が薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ白い道が一本すうっと通ります。畦道の土は夜のあいだに固くなり、踏むと、こりっ、と小さく鳴りました。薩埵峠の影は長い帯になって町の端を撫で、駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光っています。波は低く、しゅう……ざあ……と、控えめに息をしていました。

 その朝は、家々の煙突から、いつもより白い煙が立っていました。煙は風にちぎられて、ちぎられながらも、ちゃんと上へ行きます。祖母が言ったとおり、道は曲がっても、行き先はあるのです。

 幹夫は八つ。縁側で靴を揃えながら、玄関のしめ縄を見上げました。譲り葉が艶を失わずにそこにあって、裏白が冬の光を受けて、さらり、と小さく光っていました。

「幹、今日は餅つきだよ」 台所から祖母の声がしました。

 餅つき。

 その言葉は、幹夫の胸の奥に、ぴん、と糸を張りました。嬉しい糸です。けれど、嬉しい糸ほど切れそうで怖い。怖いから、握って確かめたくなる。握ると痛い――幹夫は、いくつもの“ぷつん”でそれを覚えていました。

 それに、餅つきは、父の匂いを連れてくる言葉でもありました。

 父がいたころ、杵を握る腕の筋と、息の熱と、臼の縁に落ちる湯気。父が笑いながら「返し手は手を出すなよ」と言った声。声を思い出すと、胸の奥がじん、と熱くなります。熱いのに痛くない熱。でも、その熱のすぐ隣に「いない」が立つと、熱は針になります。

 幹夫は、机の上の本を一度見ました。匂いのしおりが挟まっている本。みかんの匂いに、焦げの冬がちょっとだけ足されたしおり。鼻の先に近づけると、弱いのに胸の奥へまっすぐ入ってきます。

 ――今日は、これも持っていこう。

 幹夫は本ではなく、しおりだけをそっと抜いて、胸の内側のポケットへ入れました。紙が体温で少し温まると、匂いが丸くなる気がしたのです。

 窓辺の青いガラスの星が、風でかすかに揺れて、

 からり。

 銀の輪が、

 きん。

 松葉が、

 ひゅう。

 家のいつもの会話が背中を押しました。背中を押すのは強い手じゃなくて、ただ「行っておいで」と言う風の指でした。

 餅つきは、隣組の家の庭でやることになっていました。大きな臼が据えられ、蒸籠(せいろ)から白い湯気が、もくもくと立っていました。湯気は真っ白で、白いのに、そこに米の甘さが混じっている。甘さの混じった白は、暗室の白い紙の白と似ています。待つ白。出てくる白。

 幹夫が行くと、こういちがもう来ていました。袖をまくった手首が赤く、でも目はいつもどおり慎重で、踏みこみすぎない目でした。

「餅つき、見る?」とこういちが言いました。「……やる」と幹夫は言ってしまいました。言ってから胸がきゅっとなりました。やると言った途端、失敗の絵が立ち上がりやすいからです。

 庭では男の人が二人、杵を持っていました。杵は、ただの木なのに、立てると、冬の空へ伸びる太い木みたいに見えました。臼の中では蒸した餅米が、白い塊で待っています。

「返し手、誰かできるか」 誰かが言いました。

 返し手――杵が落ちる合間に、臼の中の餅を返す役。合間を間違えると危ない。危ない言葉を聞くと、幹夫の胸の奥の空洞が、ひゅっと冷たい風を吹きました。

 祖母が幹夫の背を軽く撫でて、言いました。

「幹、やるかい。無理はしない。間(ま)を見るんだよ。間は、音でできてる」

 間は音でできてる。

 その言い方が、銀の輪の“きん”や、青い星の“からり”と、火鉢の“ぱち”を思い出させました。音と音の間に、息がある。息があるところが、通るところ。

 幹夫は、うなずきました。うなずいたのに、喉の奥が紙みたいに乾きました。

 臼のそばに立つと、蒸米の匂いと湯気が顔に当たり、頬が少しだけ湿りました。湿ると、乾いていた喉が少しだけほどけます。ほどけると、息が通ります。

「いくぞ」 杵を持った男が言いました。

 どん。

 杵が落ちる音。地面まで響く音。音は大きいのに、幹夫の胸にはそれが“心臓の拍子”みたいに聞こえました。

 どん。 どん。

 餅が臼の中で潰れ、伸びて、またまとまります。白い塊が、だんだん“ひとつの白”になっていく。

 幹夫は、杵が上がった瞬間だけ、手を入れて餅を返しました。返す手は、握りしめる手じゃない。添える手。譲り葉に藁を添えたときの手。藁のゆりかごを巻いたときの手。

 どん。

 杵が落ちる直前、幹夫は手を引きます。

 どん。 すっ。 どん。 すっ。

 その繰り返しは、まるで短い会話でした。杵が「どん」と言い、返し手が「すっ」と返す。銀の輪が「きん」と言い、青い星が「からり」と返すように。

 けれど、幹夫の手は途中で少しだけ遅れました。

 遅れた、と感じた瞬間、胸の奥がすとん、と底へ落ちました。底は冷たい。冷たいと、手が急ぎたくなる。急ぐと危ない。危ないと、怖さがさらに大きくなる。

「幹夫、息して!」 こういちが、横から言いました。声は大きくないのに、胸の中へまっすぐ届きました。

 息して。

 幹夫は息を吸いました。湯気の甘さが肺に入り、胸の中の熱い石が少し丸くなりました。丸くなると、指先が丸くなる。丸い指先は、間を壊しません。

 幹夫は、杵が上がるのを“目”で追うのをやめて、“耳”で待ちました。

 どん――のあとに、木が空を切る、ふう、という音。 そのふうの終わりに、返す。

 耳で待つと、間が見えました。見えないものが、音の形で見える。

 どん。 すっ。 どん。 すっ。

 幹夫の胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、音の通る筒になりました。筒なら息ができる。息ができるなら、手も出せる。

 最後に男が言いました。

「よし、つけた」

 餅は、臼の中で白い一つの惑星になっていました。白いのに、湯気で少し光っています。白い光は、冬の朝の富士の白にも似ていました。

 祖母が言いました。

「幹、よく見たね。間を見た。よく返した」

 “よく”の言い方に針がなかったので、幹夫の胸は助かりました。嬉しさが、痛みに変わらない。

 幹夫は、胸のポケットの匂いのしおりを、指先でそっと押さえました。紙の端が、体温で少し柔らかくなっている。柔らかくなると、みかんの匂いが弱く、でも確かに立ち上がりました。

 ――父さん、今もどこかで、息してるかな。

 そう思うと、喉の奥がじん、と熱くなりました。涙の前の熱。熱いのに痛くない。ほどける熱。

 ついた餅は、台の上に出されて、みんなで丸めました。手に粉をつけて、ころころころ。餅は熱くて、熱いのに、手のひらに吸い付く。吸い付くのが怖いのに、吸い付くからこそ、丸くなるのが分かります。

 幹夫は、丸めながらふっと思いました。

 ――離れないって、痛いけど、形を作る。

 糸電話の糸は引っぱると切れる。 でも餅は、引っぱっても切れにくい。 切れにくいものは、ちょっとだけ安心の材料になる。

 祖母は鏡餅を作りました。下の餅を大きく、上の餅を少し小さく。重ねると、白い月が二つ重なったように見えました。

「上に橙(だいだい)を乗せよう」 祖母が言いました。

 橙は、みかんより少し固くて、色が深い。皮も匂いも、冬の重さを持っています。祖母が橙を手に取ったとき、幹夫の胸がこつん、と鳴りました。

 橙――代々。

 幹夫は、その言葉をどこかで聞いたことがありました。でも、耳だけが知っていて、胸はまだ知りませんでした。

「ばあちゃん、なんで橙?」 幹夫が聞くと、祖母は橙のへたを整えながら言いました。

「“代々”だよ。代が続くって意味の縁起。橙はね、木に長く残る。去年の実が、次の花のころまで残ることもある。譲り葉と同じだ。次が育つまで、落ちない」

 落ちない。

 その言葉が、譲り葉の艶とつながって、幹夫の胸の固いところに、ふっと布をかけました。

 父が帰れない正月。 でも、代は続く。 代が続くというのは、父が消えるということじゃない。父の道が、いま“落ちない実”みたいにどこかで踏ん張っているということかもしれない。

 幹夫は橙を見つめて、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、ゆっくり息をする筒になるのを感じました。筒はすぐに温かくはならない。でも凍りもしない。

 こういちが小さく言いました。

「橙って、待つ実だね」「……うん」と幹夫は答えました。 待つ実、という言い方が、胸にすっと入りました。待つのは苦しい。でも“実”だと思うと、待つ時間にも形ができる。

 家に帰ると、鏡餅は床の間に置かれました。白い餅の上に、橙の深い色。譲り葉の艶。裏白のさらり。しめ縄の門と、床の間の白い月と橙の約束が、家の中に二つの“年の印”を作りました。

 窓辺にはいつもの並び。

 青いガラスの星。 割れた貝の星座。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。 松葉。

 風が薩埵峠のほうから一筋降りてきて、

 青い星が、からり。 銀の輪が、きん。 松葉が、ひゅう。

 そのあと、床の間の橙の皮が、部屋の暖かさでほんの少し匂って、みかんとは違う深い香りが、静かに広がりました。匂いは音よりゆっくりで、ゆっくりだから胸の奥まで届きます。

 幹夫は、匂いのしおりを取り出して、鼻の先に近づけました。みかんの匂いと、焦げの冬の匂い。そこへ、橙の深い匂いが少し混ざりました。

 ――匂いも、代々混ざっていく。

 そう思うと、喉の奥がじん、と熱くなりました。涙ではありません。ほどける熱。ほどける熱は、胸の結び目を少しだけゆるめます。

 幹夫は机に向かって、父へ短い手紙を書きました。

 「とうさん」 「きょう もちを つきました」 「ぼくは かえしを しました」 「どん と すっ の あいだを みました」 「かがみもちに だいだいを のせました」 「だいだいは まつ みだって ばあちゃんが いいました」 「こっちは からり と きん と ひゅう と どん でした」

 “早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。けれど今日は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。橙は落ちない。譲り葉も落ちない。落ちないものがあるなら、待つことは、ただ寒いだけじゃない。

 布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。床の間の橙の匂いが、家の暗さを少しだけ丸くしました。

 窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。 松葉が、ひゅう。

 幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。

 ――間は音でできてる。 ――待つ実は、落ちない。 ――だから今日は、落ちなくていい。

 その夜、幹夫の胸の空洞は、冷たい穴ではなく、餅の白い湯気と橙の約束が通っていく、あたたかい筒のままでした。

 
 
 

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