水脈の光
- 山崎行政書士事務所
- 5月10日
- 読了時間: 5分
庭の苔をきめ細かく払ったばかりの敷石は、まだ薄い濡れ色を帯びていた。大正三年の曇り空を映しこむその表面を、伊藤幹夫はじっと見つめている。十三歳の少年とは思えぬ、張り詰めた横顔である。 幹夫の父・伊藤親房は、元は幕臣の末裔として静岡の地に下り、いまでは県庁の官吏という安定した地位に就いている。だが、その背筋や眼差しには、武家の血統を誇る無言の圧力があり、息子にも同じく厳粛な節度を課していた。家には七人の兄姉がひしめき、誰もが士族の品格を守るべく行儀正しく振る舞う。それは一種の崇高でありながら、どこか透き通った飢渇を伴う空気でもあった。
幹夫は畳の上に正座させられ、父から日本刀の鍔に触れることを教えられたばかりだった。布を巻いた鞘が小さく軋み、その摩擦音が幹夫の耳を刺す。 「幹夫。刀は人を斬るだけの道具ではない。己を嗤(わら)う鏡だと思え」 父の声は低く、響きはしないが、少年の血潮を呼び起こす奇妙な呪文めいて聞こえた。幼い手で柄を握ると、体の奥深くが微かな痛みと興奮に揺れる。 “己を嗤う鏡”――その言葉が示唆するものがまだよく分からないまま、幹夫は畏れを胸に秘めつつ、おのれの姿を正視するかのように刀を眺めた。
ところが、その日没近く、屋敷の裏門から町へ出ると、まるで異国のようにざわめく空気に包まれる。電灯がともる通りには人力車や自転車が行き交い、軍服姿の男が無造作にタバコを吸い、新聞売り子の甲高い声が響く。茶畑の向こうには新設の工場らしき建物が立ち、排煙がうっすらと夕暮れに溶けていた。 「百姓が米の値段に怒っているらしい……」 そんな噂話を幹夫は耳にする。父のような名家も、あるいは彼らに襲われるかもしれないと、人々はひそやかに噂し合っている。少年は不思議な胸の高鳴りを覚えた。それは恐怖というより、世界が今まさに裂け目を生じ、内側の灼熱の光をあらわにしていることへの、歪んだ魅惑だった。
屋敷へ戻ると、母と姉たちが「騒動が広がるかもしれない」と戸を固く閉めていた。奥座敷には父が座り込み、微動だにせず外の物音に耳を澄ませている。 「槍や刀で籠城するでもあるまい。官軍もすぐ来よう」 そう呟いた父の斜め横顔を、幹夫は目を逸らさず見つめた。そこには古い武士の矜持と、近代の秩序を受け入れざるを得ない懊悩とが、矛盾なく同居していた。ふと、あの鍔の感触が幹夫の手のひらに甦り、心拍がひそかに脈打つ。
やがて夜になると、幹夫は誰にも告げず庭に出た。奥の池のほとりで松の枝が月の光を揺らしている。泥鰌(どじょう)が跳ねる波紋が、光の輪を水面に広げては消す。ひんやりとした空気の中、少年は口を結び、小さく息を吐き出した。父が求める「士族の節度」を保ちたい自分と、外の喧噪にひそむ“危険な火”へ引かれてやまない自分――二つの意識が絡み合い、まるで水脈のように身体の奥でどこかへつながっているのを感じる。 男は美しく強くあるべきだという父の信念、それを否定するわけではない。しかし、町の外で起こる騒動や、新しい商売や工場の馳せる臭いは、幹夫に別種の昂揚をもたらす。その高揚こそが、自らを嗤う刀の光かもしれない――彼は月影に揺れる自分の影法師を見て、そんな考えに囚われる。
翌朝、父は幹夫に馬場での稽古を命じた。十三歳とはいえ、士族の末裔ならば馬の手綱を握り、刀を構えることを恥じるなというわけだ。だが、朝日の中で幹夫が鞍にまたがったとき、ふと以前とは違う重みを感じた。馬は少し踊ったが、少年の脚に力がこもると、馬体の筋肉と心臓の拍動がこちら側に伝わってくる。少年の脳裏に、夜の池で揺れる月の光や、町の喧噪が閃光のように走り抜け、なぜか体が奮え立つ。馬上から見下ろす地面は、まるで化粧板のようにつややかに湿り、幹夫の瞳には一瞬、そこに自分の姿が映るのが見えた。 そこにはまだ幼い体を、父の美学に染められるのを甘受しながら、同時に外の時代にも憧れを燃やす、懸隔した魂が佇んでいる。掌が濡れ、唇が乾いた。少年は馬のたてがみを強く握りしめ、烈しい息をつく。晴れやかでいて痛々しいまでの悦びが、全身をしびれさせるのを押し殺していた。
幹夫は思う。美しくあることは、破滅へと向かうことと同じ意味かもしれない。古い武家の規律を体現することは、ある種の尖鋭な美の形であり、それと同時に、米騒動や新しい文化の渦中に踏み込むことも、血を滾(たぎ)らせる昂揚の一形態だ。そうした相反する二つの流れが、一本の鋼(はがね)の線のように体の中央で交わり、彼をさらに研ぎ澄まそうとしている。 幹夫は長兄の後に続き軍人となる道もあれば、父を継ぎ官吏として秩序を支える道もあるだろう。あるいは、姉たちが見つめる女学校の新しい流れに触れることもできる。しかし彼が眺める眼差しの先には、それら全てを経て尚、さらに先にある孤独な場所が透けて見えるようだ。何かが啓示のように胸を抉(えぐ)り、一瞬、眩暈すら覚える。
遠くから母が幹夫を呼ぶ声がして、馬の横腹を軽く鞭打つと、蹄の音が乾いた朝の空にすこんと突き刺さった。幹夫の背筋に冷たい汗が伝い落ちる。 少年のまぶたの奥に、あの夜の池と刀の鍔とが重なるように浮かび上がる。光は美しく、けれど鋭く世を断つ刃でもある。空に漂うのは米騒動の不安か、それとも目覚めか。どちらが先に溢れるか分からない時代の重圧の下、幹夫は、父が信じた剛(ごう)の美と、外の社会が放つ弛(ゆる)い熱、そのどちらにも心を深く運命づけられていることを、はっきりと自覚していた。
馬を降りるとき、幹夫はふと唇に震えを覚える。地面を踏みしめる己の足取りが、ひどく頼りなく、そして危険なまでに軽やかに思えるからだ。士族の名門の末端にいるこの十三歳の少年は、いつの日か――父の教えを賛美し、その鋭敏を身につけながらも、その刀の光を嗤い、踏み越えてゆくかもしれない。 その予兆が、朝の冷たい大気のなか、彼の頬を冴え冴えとした痛みで射抜いている。空は曇りから少しだけ晴れ間をのぞかせ、鞍を下ろした馬の吐息が、白く揺れる。幹夫はその蒸気に手を伸ばしたが、すぐにかき消え、少年の指先に残ったのは、湿った鉄の匂いであった。





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