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深海碧譚

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月14日
  • 読了時間: 6分



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第一章:駿河湾の闇へ誘(いざな)う青

 駿河湾――深海を間近に擁(よう)し、海岸線からそう遠くないところで海底が一気に落ち込む“駿河トラフ”と呼ばれる領域が横たわっている。白い砂浜や波打ち際の喧騒(けんそう)からは想像できぬほど、海底は漆黒(しっこく)の闇を宿(やど)す深淵(しんえん)。 里美(さとみ)は、駿河の海洋研究所でマリンバイオを専攻する大学院生。世界有数の深海域といわれる駿河湾に惹(ひ)かれ、研究のために潜水(せんすい)や海底探査にも携わるようになった。けれど彼女はいつしか、“海の底に神が住む”という妄想めいた感情を抱き始める。 初めはただの興味の域だったが、海底からの微かな圧迫感や、視界が暗い青に染まる深度で覚えた呼吸の乱れが、彼女の心に奇妙な神秘主義の火を灯(とも)していた。

第二章:深海ダイバー・晶(あきら)

 研究所のスタッフから紹介された**晶(あきら)**は、駿河湾で屈指の深度を経験するプロダイバー。誰もが敬遠(けいえん)する危険な減圧症リスクのある海域を、限界ギリギリまで潜り、血中窒素(ちっちゅうちっそ)が身体を蝕(むしば)もうとする瞬間にこそ“恍惚(こうこつ)の美”があるのだと言う。 その言葉に、里美は表向きの科学者の理性(りせい)を保ちながらも、同時に抑えがたい興奮を覚えてしまう。晶の身体は、筋肉が研ぎ澄まされ、日に焼けた肌の奥にある血管が浮き立つほど強靭(きょうじん)に見える。その肉体が、深海の水圧と対峙(たいじ)する瞬間にこそ「人の魂は神に触れるのではないか」――彼の言葉を聞いた里美は、奇妙な共鳴(きょうめい)を感じ取る。

第三章:海の底に棲(す)む神の幻

 ある晩、里美は研究所で撮影された深海探査ロボットの映像を繰り返し見ていた。真っ暗な海底にぼうっと浮かぶ発光クラゲ、奇形的な深海魚が一瞬カメラの前を横切る。そして、何らかの鉱物か岩か分からない巨大な塊(かたまり)が、漆黒の闇に鎮座(ちんざ)している。 その姿は、まるで“神殿(しんでん)”の一部のような威圧感を放ち、里美の胸に不思議な畏怖(いふ)を呼び起こした。 「この海底には、たぶん私たちの理解を超えた存在がいる……」 現代科学が“ただの地形”と断じるものに、彼女は神性(しんせい)を嗅(か)ぎ取ってしまう。そして、この謎に対峙するためには、自分も直接潜って確かめねばならない――そう思い詰めはじめるのだ。

第四章:肉体鍛錬と“儀式”の予感

 里美はダイビング技術を磨くため、晶の指導を受けながら、身体を徹底的に鍛えはじめる。早朝のプールで酸欠(さんけつ)トレーニングを繰り返し、夜には走り込みで肺活量を増やす。 彼女のスキンダイビングの限度は徐々に深まるが、同時に窒素酔い(ちっそよい)の感覚や身体の軽さに“甘美(かんび)”を感じだす。ちょうど陶酔(とうすい)にも似た感覚で、体が溶けてゆくような――まるで死の入り口を覗(のぞ)くかのような誘惑がある。晶はそれを、“深海の闇が呼んでいる証拠”と表現した。 > 「死が近いほど、海の底は青く、神が出迎える。そんな錯覚(さっかく)に陥(おちい)る瞬間こそ、俺たちダイバーの極限なんだ」

第五章:駿河トラフへの挑戦

 そして、研究プロジェクトの一環で駿河トラフの近傍(きんぼう)に深度調査の計画が立ち上がる。通常はROV(遠隔操作型探査機)で行うが、里美はどうしても**“自分の目”で見たいと主張し、危険を承知で晶と二人で潜ろうとする。 上司や仲間は猛反対するが、二人は夜中に研究所の設備を無断で使い、船外に出る――それはまるで“死の儀式”**に臨む若い男女のようにも映る。 酸素ボンベと深海用の特殊スーツを身に着けた彼らは、月光が照らす夜の湾へボートを出し、駿河湾の深奥(しんおう)へと漕(こ)ぎ進む。その先に待ち受けるのは、光なき青黒(あおぐろ)い水域。水深が急激に落ち込み、水圧が人間の骨を軋(きし)ませる領域である。

第六章:深海と死の官能(かんのう)

 海中へ潜り始めると、圧倒的な暗さが二人を包み、ランプの光だけがわずかに周囲を照らす。水圧は身体を押し潰さんばかりに強く感じられるが、そこにこそ**“快感”があると里美は悟る。軽やかに動き回る晶を見て、彼女の胸は鼓動(こどう)を速める。 ふと、ランプが照らす先に、巨大な海底崖(かいていがい)が現れる。地形の割れ目から青い光が射しているように見えた。二人の心が一瞬にして奪われる――まるで“神殿”**がここにあるようだ。 いつしか酸素残量が警告ゾーンを示し始めるが、彼らはまるで酔ったように離れようとしない。窒素酔い(ちっそよい)も加わり、視界にじわじわと“幻”が浮かぶ。クラゲの光が神々しく漂い、そこに人影のようなものが映る――それは、二人の精神が死と隣り合わせになった故(ゆえ)の幻覚(げんかく)かもしれない。

第七章:帰還するか、沈むか――最終決断

 やがて、猛然と頭痛が里美を襲(おそ)い、減圧症(げんあつしょう)のリスクが極限まで高まる。晶も呼吸が乱れ、顔が蒼白(そうはく)になりかけている。普通ならここで急いで浮上するのが定石(じょうせき)だが、二人とも海底崖の下に輝く“何か”を見ようとしている。 「深い青にこそ神性がある……」 晶がモニター越しにそう声を震わせると、里美は無線機を通じてかすかに応じる。「私も行く。神に触れたい……」 酸素残量はもうほとんど尽きている。それでも二人は意識朦朧(もうろう)としながら、さらに数メートル深度を増していく。まるで破滅を受け入れるかのように、身体を強烈(きょうれつ)に締めつける水圧へ甘んじて委(ゆだ)ねる姿は、三島由紀夫が描く**“死と美の融合”**を彷彿(ほうふつ)とさせる。

エピローグ:姿なき生還、もしくは消息不明

 翌朝、研究所では救助隊が出動し、付近の海域を捜索しても里美と晶の行方はわからない。ボートは漂着していたが、潜水用具とカメラは見つからず、人々は「深海に呑(の)まれたのだろう」と噂(うわさ)する。 しかし、何日か後に、里美のダイビングスーツの破片らしきものが海岸に打ち上げられたとの情報が出る一方で、彼女らしき人物が遠くの漁港で目撃されたという風聞(ふうぶん)もある。まるで死と生が曖昧になったように、二人は静岡の深海の闇に消えたのか、あるいはどこかの岸に漂着したのか――誰にも確固たる事実はつかめない。 ただ、研究所で後日発見された彼女のメモには、「深海こそ神の住みか。われ深き青に抱(いだ)かれ、死と融合せん――」と書かれていたという。 駿河湾の暗い水面は、さざ波に月の光を宿しながら、二人の結末を語ることなく深く沈黙している。人々はただこの事件を**“深海の狂気”と呼び、やがて忘れ去る。しかし、その闇の底で二人は今も何か神秘的な陶酔に浸り、“死と美”**を体現しているのかもしれない――という余韻(よいん)が読者の胸に刻み込まれるに違いない。

 
 
 

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