白布の海
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月28日
- 読了時間: 7分

燃料の匂いは、火の匂いではない。火になる前の、まだ「生活」でいようとする匂いだ。松脂のように甘く、舌の奥を鈍く痺れさせる。南の基地の夕方、滑走路の端に立つと、その甘さが潮の匂いと混じって、ひどく不吉な香のように胸へ入ってくる。
私は整備兵だった。兵といっても、刀を抜くわけではない。戦場の中心から少し外れたところで、ねじ一本、布一枚、油の一滴に神経を尖らせ、機械の「気分」を宥める。宥めるという行為は、祈りに似ている。だが、祈りに似たものほど残酷だ。機械が気分よく回れば回るほど、誰かが帰ってこない。
その日、私の担当機の前に、若い搭乗員が立っていた。白い布――鉢巻を手に、結び目を探すように指を動かしている。結び目は、遺書の署名に似ている。いちど結べば、ほどけない。ほどけない結び目ほど、未来を薄くする。
「先任兵曹」
彼は私をそう呼び、ぎこちなく笑った。笑いは明るい。明るい笑いは危険だ。明るいものは、闇の手前でいちばん強く光るからだ。
「これ、上手く結べません」
私は彼の手元を見た。指が細い。骨の線がまだ柔らかい。こんな指が操縦桿を握ること自体が、時代の罪だと思った。罪という言葉は重いが、重い言葉ほど、いまの空気には軽く扱われる。
「貸せ」
私は鉢巻を受け取り、結び目を作った。布は清潔だった。清潔な布ほど、気味が悪い。血や汗の匂いを知らない清潔は、これから付く匂いを予告している。
「ありがとうござい……ます」
彼は礼を言いかけて、言葉の最後を飲み込んだ。飲み込むのは、恐れか、照れか、あるいは怒りか。若者の胸には、互いに似た形の感情が混ざっている。混ざった感情は、いつも「立派」という言葉でまとめられる。立派ほど、若者を殺す言葉はない。
私は、彼の名を知っていた。加納透少尉。透という字は、透き通るという意味だ。透き通ったものほど壊れやすい。壊れやすいものが、なぜか国家の玩具にされる。
「加納」
私が呼ぶと、彼は姿勢を正した。正しすぎる姿勢は、人を人形にする。人形は壊すために作られる。
「なにか」
「手紙は、書いたのか」
訊いた瞬間、自分が卑怯だと思った。手紙というのは、生き残る側のための道具だ。残される者は、紙を握ることで、肉の重さから少しだけ逃げられる。逃げられる分だけ、罪が薄まる。薄まった罪の上で、人はまた正しい顔ができる。
加納は、胸のポケットを軽く叩いた。
「はい。……でも、書いても、足りませんね」
「足りない?」
「言葉が。——言葉は、帰るためのものだから」
その一言が、私の腹の底を冷やした。帰る。帰るという動詞は、平時には当たり前だが、ここでは贅沢だ。贅沢ほど残酷なものはない。贅沢は、与えられぬ者の眼を乾かす。
私は、機体の翼の下面を撫でた。金属は昼の熱を抱いて、まだ温かい。温かい金属は、生き物の皮膚に似る。似るからこそ恐ろしい。生き物の皮膚に似たものが、人の皮膚を奪う。
「加納」私は言った。「立派に死ぬな」
彼は驚いたように目を見開いた。驚きは、まだ人間が残っている証拠だ。
「……なぜですか」
「立派に死ぬと、死が使われる」
私は自分の言葉の乱暴さに、少し喉が痛んだ。使われる、という語は下品だ。だが下品な語でしか言えぬ現実がある。現実は、いつでも上品さを嫌う。
「誰かが、お前の死を磨いて、光らせて、飾る。飾られた死は、次の死を呼ぶ。呼ばれた死は、また別の若い顔を連れてくる」
加納は、唇を噛んだ。噛むという動作は、言葉の代わりだ。言葉にできぬものが歯の間で鳴る。
「……じゃあ、どう死ねばいいんです」
その問いは、正しい問いではない。だがこの場所では、正しい問いほど空虚になる。空虚な正しさより、苦しい誤りの方が真実に近いことがある。
私は答えられなかった。答えがあるなら、こんな基地は存在しない。存在してしまった以上、答えは誰にもない。誰にもないから、皆が「名誉」だの「崇高」だのといった答えの形を作りたがる。形を作れば、痛みが薄くなるからだ。
そのとき、夕陽が滑走路の端に落ちた。光が機体の胴をなぞり、いっそう滑らかに見せる。滑らかさは美しい。美しさは危険だ。美しさは、殺しを清めた気にさせる。
加納はその光を見て、小さく言った。
「僕は、死にたくないです」
声は、驚くほど普通だった。普通の声で言われた「死にたくない」ほど、こちらの骨を壊すものはない。英雄の叫びなら耳を塞げる。だが普通の声は、耳の奥へ入って、そのまま居座る。
私は咄嗟に、機体のプロペラの根元に手を置いた。何か、掴むものが欲しかった。掴まなければ、自分が崩れそうだった。崩れるのは涙ではない。職務だ。職務が崩れれば、ここで私は立てない。立てなくなれば、私はその場で一人の人間になってしまう。一人の人間になるのは、戦場では罪に似る。
「……そうだろうな」
私はそれだけ言った。それしか言えないことが、恥だった。
出撃前の儀式は、淡々としている。淡々としているのは、慣れているからではない。慣れないことを、慣れたふりで押し切るためだ。押し切らぬと、全員が倒れる。倒れれば、戦争は止まるはずだ。止まらないのは、倒れないふりが上手い者が多いからだ。
盃が回り、誰かが「万歳」を言い、誰かが笑い、誰かが黙る。笑いと沈黙の比率で、その部隊の疲労が分かる。疲労は、最も正直な軍紀だ。
加納は、盃を口につけただけで置いた。酒が喉を通らぬ者は、まだ生を諦めていない。諦めていない者が、いちばん痛む。
飛行帽をかぶり、ゴーグルを額に上げ、彼は機体の前で立ち止まった。その姿が、あまりに整っていて、私は嫌な気持ちになった。整った姿は写真になる。写真は物語になる。物語は、死を軽くする。
加納は私の方を見た。目は澄んでいなかった。澄んだ目は、すでに死を美に変えた目だ。彼の目は濁っていた。濁りは恐れであり、怒りであり、未練であり、——つまり人間の色だ。
「先任兵曹」
「何だ」
「……帰ったら、って言うのは、いけませんね」
私は息を止めた。言葉の端に、笑いの気配があった。笑いはここでは毒だ。だが毒は、時に痛み止めになる。
「そうだな」
「でも、帰ったら、——」
彼はそこで言葉を切り、首を振った。
「すみません。言葉が、勝手に戻ろうとする」
言葉が戻ろうとする。戻ろうとする言葉を、国家は切り落とす。切り落とされた言葉の断面が、若者の喉にいつまでも刺さる。
私は、ポケットから小さな鉛筆を出し、彼の掌に押し込んだ。「何かあったら書け」と言うのは残酷だ。だが何も渡さぬよりはましだと思ってしまった。まし、という尺度で人の生死を扱う卑しさ。私はその卑しさを、もう隠せない年齢になっていた。
加納は鉛筆を見て、苦笑した。
「……僕、字が下手なんです」
「下手でいい。上手い字は飾られる」
彼は一瞬だけ笑い、そして深く礼をした。礼の角度が、やけに丁寧だった。丁寧さは別れの匂いを持つ。別れの匂いは、燃料より重い。
エンジンがかかる。音が、腹に響く。腹に響く音は、観念を剥がす。剥がれた観念の下から、ただの「行ってしまう」が出てくる。
機体が動き出す。加納は、こちらを見なかった。見れば、情が混じる。情は美しい。美しい情は、決断を鈍らせる。鈍れば、死が汚れる。汚れた死を、この国は嫌ったのだ。
滑走路の端で、機体が小さく跳ね、空へ浮く。浮く瞬間、私はいつも思う。人間は、こんなにも簡単に空へ行けるのに、なぜこんなにも簡単に帰れなくするのか、と。
空は青かった。青は無関心の色だ。無関心は、最も冷酷な神の顔だ。
加納の機は、青の中へ吸い込まれていった。吸い込まれていく小さな点を、私は最後まで見ていた。見ていることで、何かが変わると信じたかった。信じるという行為は、無力の別名だ。
戦が終わってからも、私は何年も「匂い」で目が覚めた。燃料の匂い。焼けた木の匂い。濡れた布の匂い。匂いは正義も敗北も知らない。ただ、身体の奥の引き出しを勝手に開ける。
ある春、私は押し入れの奥から、あの日の鉛筆を見つけた。短くなり、削り跡が歪んでいる。歪みは、握った手の癖の形だ。形が残るものは、心を刺す。
鉛筆に巻かれた紙切れが一枚、出てきた。加納の字だった。確かに下手だった。下手な字は、飾れない。飾れない字ほど真実に近い。
母上みそ汁のにおいが思い出せません。それがこわいです。こわいのに、もう書くことがありません。すみません。
短い。短いが、そこには「万歳」も「名誉」もない。あるのは、匂いと、怖さと、言葉の不足だけだ。人間の最後は、いつも言葉が足りない。足りない言葉の穴から、こちらの胸へ感情が流れ込む。私は紙を握ったまま、しばらく動けなかった。
涙は出なかった。涙は甘い。甘い涙は、また何かを許してしまう。私は許したくなかった。許しの甘さが、あの青い空を何度も呼ぶからだ。
窓の外で、桜が散っていた。花びらは美しい。美しいものほど危険だ。私は花びらを見ながら、心の中でだけ言った。
美しくならないでくれ。使われないでくれ。ただ、怖かったままでいてくれ。
そして私も、怖かったまま生きる。怖さを消すための物語を作らない。臭いを消さない。あの鉛筆の下手な字が、飾られぬまま残るように、私の生も飾らぬまま続ける。
それが、帰ってきてしまった者に許された、いちばん醜く、いちばん誠実な忠義だと、私は今も思っている。





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