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盾の午後

※以下は史実(1970年の市ヶ谷での出来事)に着想を得たフィクションです。実在の人物・心情を断定する意図はありません。また、自傷行為を推奨・肯定する意図もありません。

十一月の光は、夏のように奔放ではない。それは刃物のように薄く、正しく、そして触れたところだけを冷やす。市ヶ谷の空は澄みすぎていて、澄みすぎたものに人はつい「意味」を貼りたがる。意味は、どんな瓦礫の上にも平気で立つ。

庁舎の門は朝から固かった。鉄の門というのは、鉄で出来ているから固いのではない。守るべきものが何か分からぬまま、それでも守る「ふり」をするために固いのだ。固さは形式だ。形式は人を落ち着かせる。落ち着かせるために、世界は形式を欲しがる。

私は当直の若い隊員で、制服の襟にだけ自分の存在理由を吊していた。襟は白い。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを初めから知った者の色である。私の襟はまだ白かった。白いままでいられるうちに、私は何かを見てしまうのだろう、と朝から予感していた。

彼らが来たのは、予感のその通りの時刻だった。

四人か五人。若い男たち。髪は短く、目は驚くほど硬い。硬い目は、熱に似ている。熱に似ているから危険だ。熱は正しさの衣を着ると、いつでも人を焼く。

その真ん中に、一人だけ歩幅の違う男がいた。歩幅が違うというのは、背丈や年齢のせいではない。世界との距離の取り方が違うのだ。彼の歩き方には、確信の代わりに「演出」があり、演出の代わりに「孤独」があった。孤独は、歩幅に出る。

その顔を私は知っていた。知らぬふりをしても、知っているという事実のほうが先に胸を刺す。写真で見た顔。活字の中で見た顔。言葉の中でだけ濃く生きていた顔。

彼は笑った。笑いは薄い。薄い笑いは、これから起こることを軽く見せるための麻酔だ。麻酔は、受ける側より施す側のほうが先に効く。

「面会だ」

彼はそう言った。「面会」という言葉は、平時の言葉だ。平時の言葉を戦の前に使うのは、下品な勇気だ。私はその下品さに、なぜか胸が苦しくなった。苦しさは恐れではない。恐れに似た、感情移入だ。

上官が出て、手続きが動き、門が開く。門が開く音は、いつでも小さい。小さい音ほど危険だ。大きな音なら人は身構えられる。小さな音は、胸の奥に入り込んでから遅れて爆ぜる。

彼らは庁舎の中へ入っていった。私はその背中を見送った。背中は顔より物語になりやすい。背中が物語になると、周囲の人間は勝手に「理由」を作り始める。理由は甘い。甘い理由は、死を美しくする。

美しくするな、と私は胸の中で呟いた。だが同時に、もう遅いとも知っていた。遅いという感覚は、戦よりも深く、皮膚の下に沁みる。

しばらくして、建物の中が妙に静かになった。静かになると匂いが戻る。機械油の匂い、古い書類の紙の匂い、床のワックスの匂い。匂いはいつでも無責任で、だから真実に近い。

やがて遠くで、机が動く音がした。次に、扉が閉まる音。閉まる音というのは不思議だ。開く音は未来の音だが、閉まる音は過去の音である。閉まった瞬間、あらゆる出来事は「もう起こったこと」になってしまう。

そして、上の階の窓が開いた。

窓枠に現れた彼は、急に小さく見えた。あれほど紙面で巨大だったものが、現実の空気の中に置かれると、こんなにも人間のサイズになる。人間のサイズになったものほど哀しい。哀しいものほど美しく見える。美しさは危険だ。

庭に隊員たちが集まり始める。集まるという動作は、理性の外側にある。集まるとき、人は「自分ではない何か」になりたがる。何かになれば、責任が薄まる。薄まった責任の上で、世界はどんなことでも起き得る。

彼が何かを叫んだ。言葉は風に切られ、こちらへ届く前に崩れた。崩れた言葉は、意味を失う代わりに音だけを残す。音だけの言葉は、祈りに似る。祈りに似るものほど、時に暴力になる。

私はその声を聞きながら、奇妙なことを思った。この人は、言葉を武器にして生きてきたはずなのに、最後の最後で言葉が届かない場所へ来てしまったのだ、と。

届かない。届かないという事実が、胸を締めつけた。届かない言葉ほど、書き手を裸にする。裸になった書き手ほど、観客は残酷になる。観客は「わからない」を「笑い」に変える。笑いは、もっとも安価な刃だ。

実際、庭のどこかで笑いが起こった。笑いは短く、乾いていた。乾いた笑いは、情の欠乏の音だ。欠乏は、戦後の匂いをしている。

彼の声は続いた。だが、言葉は空に吸われ、吸われた言葉は戻ってこない。戻ってこないものほど、胸に残る。

私は自分の拳がいつの間にか握られているのに気づいた。握られた拳は、怒りの拳ではない。どちらかと言えば、泣かぬための拳だ。泣けば、私は彼を「理解」したふりをしてしまう。理解したふりは、最も残酷な慰めになる。

彼は、最後に一度だけ、こちらを見たような気がした。見たのは私ではない。集まった全員でもない。おそらく、彼自身の内側にある「観客」を見たのだろう。観客はいつでも冷たい。冷たい観客ほど、芸術家を追い詰める。

窓が閉まった。閉まる音は、さっきより重かった。重い閉まる音は、決断の音だ。

その後、時間が薄くなった。薄い時間は、手に取れない。手に取れない時間の中で、人はただ自分の呼吸の音を聞く。呼吸は生の証だ。証というものは、時に恥になる。生きているという証ほど、死の現場では恥ずかしい。

廊下の向こうで、誰かが走った。階段の音。命令の声。扉を叩く音。そして、急に静寂。静寂は、最も確実な報せの形をしている。

私は上官に呼ばれ、内側へ入った。廊下は明るすぎた。明るさは、血を隠さない。隠さない明るさは、刑場の明るさに似ている。

部屋の前で、誰かが小さく言った。

「……終わった」

終わった。その言葉があまりに簡単で、私は腹が立った。終わったという語尾の軽さは、人間の生の重さに釣り合わない。釣り合わない軽さは、記憶の中で何度も反響して、後から重くなる。

私は扉の隙間から、畳の匂いを嗅いだ。畳の匂いは生活の匂いだ。生活の匂いの中に、何か違う匂いが混じっていた。鉄の匂い。汗の匂い。焦げた紙の匂い。そして、言葉にしたくない匂い。匂いはいつでも先に来る。匂いが先に来るとき、現実はもう取り返せない。

私は目を逸らした。逸らすという動作は卑怯だ。だが卑怯は、生き残った者の最初の道徳だ。生き残るために、私は卑怯になった。卑怯になった瞬間、私はもう彼の側ではなく、こちら側――「後で語る側」に立ってしまった。

後で語る側。語るという行為が、急に汚れた行為に思えた。語れば語るほど、彼の最後は物語になる。物語は磨かれる。磨かれた物語は、次の若者の胸を熱くする。熱くなった胸は、また同じ場所へ走りたがる。

私はそれが怖かった。怖かったから、何も言えなかった。言えないことが、私の中で最も大きな言葉になっていった。

夕方、門の外に出ると、秋の光がまだ残っていた。世は平然としている。車が走り、人が歩き、新聞売りが声を張る。平然としているという事実は、慰めではない。むしろ残酷だ。世界は、個人の破滅に興味を持たない。興味を持たないからこそ、破滅は際立つ。

私は制服の襟を触った。朝と同じように白い。白いままの襟が、恥だった。恥は、私がまだ生きる側にいる証拠だ。生きる側にいる限り、私はこれからも「終わり」を背負う。背負うというより、皮膚の下へ入ってくる。

その夜、私は帰宅しても眠れなかった。眠れない夜は、世界が「答え」を求めてくる夜だ。だが答えはない。答えがないから、人は美しい言葉を作る。美しい言葉は危険だ。美しい言葉は、死を軽くしてしまう。

私は、あの男の本を一冊だけ取り出した。紙の匂いがした。紙は軽い。軽い紙が、あれほど重い何かを抱えられるのかと思うと、喉が痛んだ。

ページを開くと、文章は相変わらず濃密だった。濃密な文章の中で、私は奇妙なことに気づいた。そこには「終わり」が書かれていない。あるのは、終わりに向かう身体の熱と、言葉の冷たさと、そしてその二つが噛み合わないまま擦れ続ける音だけだ。

擦れ続ける音。あの日、庭で言葉が届かなかったあの音。届かないまま、こちらの胸の中でだけ増幅していく音。

私は本を閉じた。閉じる音が小さかった。小さい音ほど、胸に残る。

そして私は思った。彼の最後が何であれ、いちばん残酷なのは、生き残った者がそれを「意味」に変えたがる癖なのだ、と。意味に変えれば、傷は形になる。形になれば、扱える。扱えるから、人は安心してしまう。

安心してはいけない。あの午後を、安心に変えてはいけない。

私は暗い部屋で、ただ息をした。息は臭い。臭い息のまま、生き続ける。美しくもなく、潔くもなく、説明のつかないまま、皮膚の下に残った冷たさを抱えて。

それが、あの日を見てしまった者に課された、最も醜く、最も誠実な「その後」なのだと思った。

 
 
 

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