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祝詞の靴

革の匂いは、血の匂いより先に人を裏切る。革は、体温を吸って柔らかくなり、柔らかくなることで「誰かのもの」になってゆく。私はその匂いを、蹴鞠(けまり)の庭で嗅いだ。春の陽は眩しく、眩しさは正しさに似ている。似ているから危険だ。眩しさに包まれた宮廷ほど、不潔なものはない。

鞠が高く上がり、笑いが弾け、絹の袖が風を切った。その瞬間、ひとつの沓(くつ)が跳ねて、庭の砂に落ちた。落ちた沓は、なぜか小さく見えた。小さなものほど胸に刺さる。小さなものは、これから起こる大きなことの予告になる。

私は駆け寄り、膝をつき、沓を両手で拾い上げた。沓の内側は温かかった。温かさは、生の執着だ。執着は醜い。醜い執着ほど人間を人間に戻す。私は顔を上げた。中大兄皇子の足が、ほんの少しだけ宙に浮いて見えた。浮いて見える足ほど怖い。浮いて見える者は、地を踏むとき、土ではなく人の骨を踏むことがある。

「失礼」

私は沓を差し出した。皇子の手が伸び、指先が私の指先に触れた。指先の触れ合いは、誓いより確かなことがある。誓いは言葉だ。言葉は軽い。軽い言葉が、重い人を縛る。指先の熱だけが、嘘をつかない。

皇子は沓を受け取り、私を見た。その目は澄んでいなかった。澄んだ目は正義の目だ。皇子の目には濁りがあった。濁りは迷いでも恐れでもない。濁りは、決意が肉を通るときに生まれる色だ。

「名は」

「中臣鎌足」

私が答えると、皇子は短く頷いた。頷きは楽だ。頷けば、説明を省ける。説明ほど重いものはない。だがあの頷きは、楽ではなく、刃の柄を握り直すような頷きだった。私はその頷きを見て、自分の胸の奥が冷えるのを感じた。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私の中の甘い昂ぶりを叱った。

私は中臣である。祝詞(のりと)を整え、祓(はら)えの水を用意し、穢れを言葉で押し流す役目の家だ。穢れを押し流すという行為は、清潔の仮面をかぶる。清潔は、もっとも不潔な欲望の別名だ。押し流したものは、どこへ行くのか。どこにも行かない。隅に溜まり、土に染み、やがて匂いだけを残す。匂いは時間を知らない。知らない匂いほど残酷だ。

あの沓の温かさは、私に告げたのだ。——今から先、お前は匂いを消す役ではいられない。

夜、私は灯の下で祝詞を書いた。墨は黒い。黒は祝福の色ではない。黒は、祝福が届かぬ場所の色だ。紙は白い。白は潔白ではない。白は、汚れを目立たせるための背景だ。白い紙の上に黒を置くと、世界が整って見える。整って見えるものほど危険だ。整ったものは、ひとたび崩れると「美しく」見えるからだ。美しく崩れる死は、後世に磨かれ、飾られる。飾られた死ほど、次の死を呼ぶ。

皇子が来た。戸を開ける音がしない。音のない入室ほど怖い。皇子は灯の前に座り、私の書いた祝詞を見た。

「祓えの言葉で、あの者を祓えるか」

あの者——蘇我入鹿。名を口にするだけで、口の中が甘くなる。甘いものは腐る。腐った甘さの上で、人は正しさを売買する。

私は答えた。

「言葉は穢れを祓えます。……しかし、穢れを作る手は祓えません」

皇子の口元が、わずかに歪んだ。笑いではない。歪みだ。歪みは、人間の証拠だ。証拠ほど権力は嫌う。権力は、揺れない仮面を欲しがる。

皇子は低い声で言った。

「ならば、手を止める」

止める。止めるという言葉は簡単だ。簡単な言葉ほど残酷だ。止めるために、何を折るのか、どれだけ裂くのか、言葉は言わない。私は指先が震えた。震えは恐怖ではない。恐怖に似た責任の震えだ。

「中臣は、祓えの家だ」

私が言うと、皇子は視線を上げた。

「鎌足。祓えとは、見えぬものを見える形にすることだろう。ならば——今夜、見えぬ歪みを、見える形で断つ」

断つ。刃の言葉だ。祝詞の舌が、刃の言葉に追いついてしまった瞬間、私は自分がどこへ行くのか理解した。

私は、灯の火を見つめた。火は美しい。美しい火ほど危険だ。美しさは、罪を清めた気にさせる。私は清めたくなかった。清めれば、匂いが消える。匂いが消えれば、私はまた同じことをする。

「……匂いは残します」

私は言った。自分でも驚くほど、声が乾いていた。乾いた声は涙を許さない。涙は湿っている。湿り気は秩序を崩す。秩序を崩したくないから、私は涙を捨てたのだと、そのとき初めて気づいた。

皇子は立ち上がり、私の肩に手を置いた。肩の上に、軽い重さが乗った。軽い重さほど危険だ。軽い重さは、あとで骨まで沈む。

「お前の言葉で、国の形は変わる」

皇子は言った。

「だが、変わるときに出るものを、お前は知っている。それを忘れるな」

忘れるな。忘れるな、という命令は、いつも遅い。遅い命令ほど残酷だ。忘れないためには、最初から覚えていなければならない。私は頷いた。頷きは、今夜だけは逃げではなかった。首の骨を、刃の方向へ向ける合図だった。

乙巳(いっし)の朝、板蓋宮の床は冷たかった。冷たさは正しい。正しい冷たさが、余計な熱を叱る。だが床の冷えは、血が落ちたときいちばんよく分かる。冷えた木は、赤を吸って黒くなる。黒くなったものは、後で清潔に見える。私はその逆説を憎んだ。

入鹿が来た。重い足音。支配の足音。皇子の袖は白かった。白は潔白ではない。白は、汚れを引き受ける覚悟の色だ。

合図は言葉にならなかった。言葉にならぬものほど、人を動かす。

刃が走り、空気が裂け、叫びが内側へ落ちた。私は祝詞を唱えなかった。唱えれば、この血が「儀式」になってしまう。儀式になった瞬間、死は飾られる。飾られた死ほど、次の死を呼ぶ。私はただ、喉の奥で息を止め、匂いを嗅いだ。鉄の匂い、汗の匂い、そして、言葉にしたくない匂い。

皇子が振り向いた。あの濁った目で、私を見た。私は目を逸らさなかった。逸らせば、匂いは薄まる。薄まった匂いほど、後で甘い物語になる。

「鎌足」

皇子が言った。

「これからは、紙だ」

紙。軽い紙が、重い民を縛る。縛られた民が、また誰かを刺す。私はその連鎖を見た。見えてしまったものほど、胸に住みつく。

時は流れ、近江の宮に風が吹いた。風は無関心だ。無関心は残酷で、残酷だから正しい。私の身体は弱っていた。弱る身体は、言葉を正直にする。正直になった言葉ほど、胸を切る。

天智となった皇子——帝が、私の枕元に座った。枕元という距離は、王を人間に戻す。人間に戻った王ほど危険だ。人間に戻った王は、自分の罪を数えたくなる。

「鎌足。お前に名をやる」

帝は言った。

「藤原」

藤。紫の花は美しい。美しいものほど危険だ。藤は絡む。絡むものは、ほどけにくい。ほどけにくい縁は、やがて縄になる。縄は、祈りにも首飾りにも、首を締めるものにもなる。

私は目を閉じ、あの庭を思い出した。蹴鞠。落ちた沓。沓の内側の温かさ。私はあの温かさを、結局いちども捨てられなかった。捨てられないものほど残酷だ。捨てられないものは、死ぬまで胸の中で重くなる。

帝が言った。

「お前は、祓えの家のまま、刃の側へ来た。そのまま、祓えの家に戻れ」

戻れ。戻るという語は優しい。優しい語ほど危険だ。戻れない者に、戻れは刺さる。

私は、かすれた声で答えた。

「戻れませぬ。……戻れば、匂いを消してしまう」

帝は黙った。黙りは、赦しにも断罪にも似る。似ているから怖い。やがて帝は、私の手を握った。握る手は温かい。温かさは生の執着だ。執着は醜い。醜い執着ほど、人間を最後まで人間にする。

「ならば、匂いを残せ」

帝は言った。

「藤の名が、香になってしまわぬように」

香。香は甘い。甘い香は腐る。腐った香の上で、人はまた「清潔な歴史」を作る。私はそれが怖かった。怖いから、私は最後に小さく笑った。薄い笑いだった。薄い笑いは照れの仮面だ。

「はい」

私は言った。言いながら、胸の奥でひとつだけ祈った。祈りは嫌いだ。祈りは叶わぬから強い。叶わぬ強さが、次の刃を呼ぶ。それでも祈ってしまうほど、人間は弱い。

——私の家が、祓えを「香」にしませんように。——祓えを「鎖」にしませんように。——血の匂いを、最後まで血の匂いのまま覚えますように。

窓の外で風が鳴った。風は、紫の花の季節を連れてくるだろう。藤は咲き、絡み、垂れ、そして散る。散るものほど後に残る。私は散る前の匂いを、喉の奥で確かめた。

革の温かさ。墨の匂い。鉄の冷え。そして、消してはいけない匂い。

中臣鎌足——藤原の鎌足。その二つの名の間にあるものは、栄光ではない。ただ、祓えと刃が同じ手の中で擦れ合ったときに出る、あの細い痛みだけだ。

 
 
 

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