稲の小包
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

十月の中旬の蒲原は、朝いちばんだけ空気が澄んで、息を吸うと胸の奥に、すう、と白い道が一本通るみたいでした。田んぼは刈ったあとで、切り株が短い影をつくり、その影の間を風が通ると、さら……さら……と、見えない紙をめくるような音がしました。駿河湾は遠くで薄い鋼の板みたいに光り、薩埵峠の影は、まだ夜の名残りを少しだけ背負ったまま、町の端を静かに撫でていました。
縁側の外で、祖母が“唐箕(とうみ)”の取っ手を回していました。 がらり、がらり。 風が木箱の中で生まれて、籾殻をふわっと持ち上げます。籾殻は軽い灰のように舞って、粒は粒で、こつこつと桶に落ちました。
幹夫は八つ。桶の中をのぞきこんでいました。白い米の粒が、まだ少しだけ黄色い光を抱えていて、ころころと小さな月のように見えます。米の匂いは、湯気の匂いとは違って、乾いたのに温かい匂いでした。鼻の奥に入ると、胸の底を少しだけ丸くしてくれる匂い。
「今年のは、いい粒だよ」 祖母は言いました。「倒れた稲もあったけどね、粒は落とさなかった。よく出来た子たちだ」
“よく出来た子たち”と言われると、米が急に生き物みたいに見えて、幹夫の胸の奥が、こつん、と鳴りました。鳴ったのは、嬉しさだけではありません。嬉しさのすぐ隣に、すこし痛いところがある鳴り方でした。
――父さんにも、これ、食べさせたい。
その思いが立ち上がると同時に、すぐ次の思いが足を引っぱりました。
――でも父さんは、今ここにいない。
いない、という事実は、米の白さの中で余計に黒く見えました。白いものの前では、黒いものは隠れられないのです。
祖母が、桶の縁をぽん、と叩きました。
「幹。これ、少しだけ小包にして父さんに送ろうか」「……送る?」
送る、という言葉は、幹夫の胸に、蜘蛛の糸みたいな線を一本引きました。線があると、そこを辿って息ができます。けれど、線は細いから、強く握ると切れます。幹夫は糸電話の夜の“ぷつん”を、まだ手のひらが覚えていました。
「新米は、家の匂いがするからね」 祖母は続けました。「匂いは、遠いところまで行ける。言葉より先にね」
幹夫は、うなずきました。うなずいたのに、喉の奥が少し乾きました。嬉しいときほど、怖いときほど、口の中が紙みたいになることがあるのです。
午後、こういちが来ました。袖をまくった手首が、秋の冷たさで少し白く見えます。こういちは土間で靴を揃えながら、桶の中の米を見て言いました。
「白いね」「うん……星みたい」と幹夫が言いました。
言ってしまってから、幹夫は少し恥ずかしくなりました。星、なんて言うと子どもみたいだ。でも、八つは子どもだ。子どもが星を言って、何が悪いんだろう――そう思うと、恥ずかしさが少しだけ薄くなりました。
祖母が、小包用の茶色い紙と麻ひもを出しました。紙はざらりとして、触ると指の腹に細い粉がつきます。麻ひもは少し硬くて、まっすぐ伸びようとします。伸びたがるものを結ぶのは、いつも少し難しい。
「幹、米はこぼれると拾えなくなる。袋の口を二度折って、息を入れないように」 祖母が言いました。
幹夫は、米を量って袋に入れました。粒がさらさらと落ちる音は、稲架の琴の音とは違うけれど、どこか同じ“さらり”を持っていました。さらり、は、心の中の角を少し丸くしてくれる音です。
袋の口を折るとき、幹夫の指が少し震えました。震えは、米が大事だからです。父が大事だからです。大事なものを包むとき、人の手は勝手に慎重になります。
こういちが、麻ひもを持って言いました。
「結び目、きつすぎると切れるよ」「うん……ちょうどいい張り」と幹夫は言いました。
祖母が笑わずに、うなずきました。うなずき方が、青いガラスの星の“からり”みたいでした。音は出さない。でも返事の形。
小包が出来上がると、見た目はただの茶色い箱なのに、幹夫には中で白い星がたくさん息をしているように思えました。息をしていると思うと、胸が少しだけ温かくなりました。
けれど温かさのすぐ隣で、怖さが立ち上がりました。
――途中で落としたら。 ――濡れたら。 ――父さんのところへ行かなかったら。
幹夫は、その怖さを追い払おうとして、胸の中で強く握りました。握ると、怖さは一瞬静かになる。けれど握ったままだと、指が痛くなる。痛くなると、結局もっと苦しくなる――幹夫は、それも少し覚えていました。
「幹」と祖母が言いました。「小包はね、あとは郵便屋の手だ。預けたら、預けたぶんだけ軽くなる。軽くなるのが怖いときもあるけどね、軽くならないと歩けない」
幹夫は、祖母の言葉を胸の中で転がしました。軽くならないと歩けない。歩けないのは、嫌だ。嫌なら、少し軽くなるのを覚えなきゃいけない。
夕方、祖母と幹夫とこういちは、蒲原の郵便局へ向かいました。畦道の草は、昼の名残りをまだ持っているのに、風はもう秋の匂いを混ぜています。遠くで踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと薩埵峠の影へ入っていきました。
その音を聞くと、幹夫の胸の中に「運ぶ」という言葉が立ち上がりました。 汽車は運ぶ。 郵便は運ぶ。 風も運ぶ。 そして今日は、米が運ばれる。
郵便局の中は、紙の匂いとインクの匂いと、どこか金属の匂いが混ざっていました。窓口の板はつるつるしていて、手を置くと少し冷たい。冷たいのに、落ち着く冷たさでした。冷たいものは、胸の熱をいちど整えてくれます。
窓口のおじさんが、小包を受け取って、秤(はかり)の上に置きました。
ごとん。
秤の針が、ふらり、と揺れて、しばらく迷ってから、ひとつのところで止まりました。止まった針を見ていると、幹夫は自分の胸も、誰かに秤に乗せられたみたいに感じました。希望と怖さが混ざった重さが、どこに止まるのか、見られているみたいで、少しだけ息が浅くなりました。
「大丈夫だよ、きちんと着く」 おじさんが、何でもないふうに言いました。
その“何でもない”が、幹夫にはありがたかった。大げさに励まされると、胸の中の怖さが逆に大きくなることがあるからです。
おじさんが伝票に文字を書き、印を押しました。 ごん。 朱い印が、紙の上にぽん、と咲きました。朱い花は一瞬で咲くのに、そのあとずっと残る花でした。
祖母が支払いをしているあいだ、幹夫は窓の外を見ました。郵便局の裏手に、郵便袋がいくつも積まれていました。麻の袋は黒く、丸く、どこか海の鯨みたいでした。鯨は黙っているのに、腹の中でたくさんの声を運んでいる――幹夫には、そんなふうに見えました。
そのとき、局の奥の扉が少し開いて、すうっと冷たい風が通りました。
窓辺に吊るしてあるわけではないのに、幹夫のポケットの中で、布に包んだ銀の輪が、ほんの小さく触れ合って、
きん。
と鳴った気がしました。
気がした、だけなのに、幹夫の胸は確かにそれを受け取りました。返事の鈴が、ここでも鳴る。鳴り方は小さい。小さいのに、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、音の通った筒になるのが分かりました。
――父さん。 ――今、送ったよ。 ――受け取る前に、胸が返事をした。
そう思った瞬間、喉の奥がじん、と熱くなりました。涙ではなく、ほどける熱。ほどける熱は、息を通します。
帰り道、空は少しだけ明るさを取り戻して、雲の切れ目が薄く開いていました。そこから、夕焼けの色が一枚だけ覗いて、駿河湾の上にうすい桃色の筋を引きました。桃色はすぐ消えたけれど、消える前に“あった”という跡を残しました。
こういちが言いました。
「米、旅するね」「うん」と幹夫は言いました。 旅する、と言っただけで、米が小包の中で揺れている感じが胸に浮かびました。揺れるのは怖い。けれど揺れないと進まない。進むための揺れなら、少しだけ許せる。
家に着くと、窓辺はいつもの並びでした。青いガラスの星は静かに揺れ、銀の輪はまだ黙っていました。割れた貝の星座の箱も、空の蛍瓶も、虹の海硝子も、短冊も、みんな「ここにいる」顔をしていました。
祖母が言いました。
「送ったら、あとは待つだけだ。待つのは苦しいね。でも、待つってのは、空っぽにすることじゃない。今日みたいに、送った跡を胸に置いておくことだよ」
幹夫は、うなずきました。胸の奥の空洞はまだあります。消えません。でも今日の空洞は、穴ではなく、旅立った小包の形が一度通ったあとの筒でした。筒は、通ったものの輪郭を少しだけ残します。その輪郭があると、寂しさが全部の闇にならない。
夜、幹夫は机に向かって父へ短い手紙を書きました。今日はもう小包は送ってしまったのに、書かずにいられませんでした。書くことは、胸の中の荷物を整えることだからです。
「とうさん」 「しんまいを おくりました」 「こぼれないように ふくろを にど おりました」 「はかりの はりが ゆれて とまりました」 「ぽすとの うらに くろいふくろが いっぱいでした」 「きん が ちいさく なった きがしました」 「とうさんの くちに しろい ほしが はいると いいです」
“早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。でも今日は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。小包は届く。届くまでの時間は、封筒の中の時間みたいに守られている時間だ。
布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。虫の声が、りん……りん……と夜の布を細い糸で縫っていました。
窓辺で、青いガラスの星が、からり、と鳴りました。 少し遅れて、銀の輪が、きん、と返しました。
その短い会話を聞きながら、幹夫は胸の中でそっと思いました。
――小包は、風より重い。 ――重いのに、ちゃんと運ばれていく。 ――ぼくの気持ちも、重いけど、運べるかもしれない。
眠りは、稲の匂いみたいに静かに近づいてきて、幹夫の胸の中の筒を、今夜は冷たくしませんでした。





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