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紙の重さ

 翌朝、幹夫は目を開けた瞬間に、昨日の「甘いね」という声を思い出した。 声そのものより、母の眉間がほんの少し緩んだまま戻りきらなかった形が、先に浮かぶ。あの形は、夢の中で崩れやすい。起きたら消えてしまいそうで、幹夫は布団の中で息を止めた。

 台所から、紙の擦れる音がした。 祖母が何か包んでいる音。紙の音は、軽いのに胸を重くする。包むものが大事なときほど、紙は静かになる。静かになりすぎて、逆に耳につく。

 幹夫はそっと起きた。障子の向こうは白く、朝の光はまだ冷たい。畳の冷たさが足の裏にじわっと広がる。昨日の砂糖の白とは違う冷たさだ。

 台所を覗くと、祖母が例の紙包みを開いていた。角砂糖の残り――四角ではなくなった、白い欠片が小皿に乗っている。祖母はそれを、親指と人差し指でつまんで、さらに小さく割っていた。割るたびに、白い粉がふっと舞う。舞って、すぐ落ちる。

「……今日のぶん、な」

 祖母が独り言みたいに言った。 今日のぶん、という言い方が幹夫には不思議だった。砂糖に「今日のぶん」がある。明日には、きっともっと小さくなる。小さくなっていくものに日付をつけるのは、少し怖くて、少し優しい。

 母は竈の前で湯を沸かしていた。湯気が細く立って、朝の空気の中にほどけていく。母の顔はまだ固いままだった。固いのが当たり前の顔。昨日の「甘いね」の余韻は、台所の隅に薄く残っているだけで、母の眉間にはもう戻ってきていない。

 幹夫は、棚の上を見た。 昨日、男が持ってきた紙包みの、外側の紙――あれはもうなくて、代わりに祖母の小皿がある。白い欠片が、少しだけ減っている。

 幹夫の胸の中で、小さな警報が鳴った。 鳴る音が「今のうち」と言う。

 幹夫は、祖母が目を離した一瞬に、小皿の縁に残っていた白い粉を見つけた。欠片ではない。粉のかけら。指で触れば、すぐ消えてしまいそうな、ほとんど「匂い」みたいな白。

 幹夫は、その白をじっと見た。 見ているうちに、浜辺で砂をこすって貝殻の縁を丸めたときのざらざらが指先に蘇った。丸めると、刺さらない。刺さらないと、誰かの顔が少し楽になる。

 幹夫は、指先でそっとその白を集めた。 集めたと言っても、指に少しついただけだ。けれど幹夫には、それが「持っていける甘さ」に思えた。

 台所の隅に、新聞紙の端が置いてあった。芋を包んだ残り。インクの匂いがする、薄くて硬い紙。幹夫はその端を小さくちぎって、指についた白を内側に落とした。落とした途端、白は紙の繊維に吸い込まれて見えなくなる。

 見えなくなったのに、ある。 幹夫は、その感じが少し嬉しかった。

 紙を小さく折った。四角に。昨日は四角が崩れて悲しかったのに、今日は四角を作りたかった。四角は、ちゃんとしている形だ。ちゃんとしている形は、家の中を少し整える。

 折り目を爪で押さえると、紙は言うことを聞いた。幹夫はその小さな包みを、そっと掌にのせた。掌の汗で白が溶けないように、握り込まない。持っているのに、持ちすぎない。そういう持ち方が、この家には必要だった。

「幹夫、何してん」

 母の声がした。 幹夫はびくっとして、包みを背中側に隠した。隠したところで、隠しきれないのに。隠す動きは、怖さの形だ。

「……なんでもない」

 母は幹夫の手元を見た。見て、すぐに目を逸らした。追及しない目。追及しない目は、幹夫の胸を余計に痛くさせる。

「外、行くなら上着」

 母はそれだけ言って、湯呑みを拭き始めた。 幹夫は頷いた。上着を羽織ると、布の匂いがした。母が縫った匂い。糸の匂い。暮らしの匂い。

 家を出ると、朝の風が頬を撫でた。海の匂いと、竈の煙の匂いが混ざっている。混ざる匂いは、いつも少しだけ遠い気持ちを連れてくる。

 幹夫は、昨日の男の家のほうへ歩いた。 遠くへ行くな、と言われた「遠く」ではない。数軒先。なのに、幹夫の胸の中では、そこが山の向こうみたいに感じる。人の家は、距離じゃなくて空気で遠い。

 戸の前に立つと、幹夫は一度だけ包みを見た。新聞紙の小さな四角。四角の中に白がいる。白がいると思うと、胸が少しだけ温かくなる。湯気みたいに。

 幹夫は戸を叩いた。 叩く音が、自分の耳に大きく響いた。

「……はい」

 中から声がして、次に、がさがさと何かを探る音がした。鍵を扱う音。戸が開くまでの間の、あの短い時間。幹夫はその時間が苦手だった。待っている間に、持ってきた気持ちがぐらぐらする。

 戸が少し開いて、男の顔が見えた。 空っぽの袖は、今日はきちんと折り畳まれていた。折り畳まれた布は、昨日より静かだった。静かすぎて、逆に目に入る。

「おう……幹夫んとこの」

 男は幹夫を見て、驚いたような顔をした。それから、すぐに笑いかけようとして、笑いきれない顔になった。笑いきれない顔は、幹夫の胸の奥を撫でる。

「どうした」

 幹夫は言葉を探した。 探している間に、手の中の包みが少しだけ熱くなる。汗で白が溶ける気がして、幹夫は慌てて包みを差し出した。

「これ……きのうの、おれい」

 男が包みを見た。見て、幹夫の顔を見た。 その目が一瞬だけ曇って、次に、困ったように細くなった。

「おれいなんて……おまえ、そんな――」

 男は言いかけて止まった。止まったのは、断り方を探しているからじゃない。受け取り方を探しているからだと、幹夫は分かった。受け取ることは、時々、断るより難しい。

 男は、残った手で包みを受け取った。受け取る指が、少しだけ震えた。震えは寒さではない。震えるとき、人は何かをこらえている。

「……なんだ、これ」

「……しろいの」

 幹夫はそう言ってしまって、すぐ後悔した。白いの、なんて。砂糖だと言えばいいのに。砂糖だと言うと、重さが出る。重さが出ると、男が困る。困る顔を見るのが怖い。

 男は包みを開きかけて、やめた。開けると、白はきっと見えないくらい少ない。見えないと分かった瞬間、何かが壊れる気がしたのだろう。男は包みをそっと掌に乗せたまま、幹夫の頭を見た。頭を撫でる手が、途中で止まった。撫でたいのに、撫でるのが怖いみたいに。

「……おまえ、やさしいな」

 また、ええ子だな、の仲間の言葉が来た。 幹夫は胸がくすぐったくなって、首の後ろが熱くなった。褒められた熱さと、逃げたくなる熱さが混じっている。

「やさしいっていうのはな、時々……人を困らせる」

 男が小さく言った。 その言葉の形が、母の「もったいない」に似ている気がした。真ん中に、惜しさが入っている。

 幹夫は俯いた。 困らせたいわけじゃない。困らせたくないから、言葉を小さくしたのに。それでも、包みひとつで空気が揺れる。揺れる空気が怖い。

 男は、少し黙ってから、戸口の奥を振り返った。家の中は暗く、畳の匂いが薄く漂ってきた。どこの家にもある匂いなのに、幹夫はその家の匂いが少し冷たく感じた。冷たいのは、窓が小さいからではなく、人の数が少ないからだと幹夫は思った。

「……上がれ、って言いたいとこだけど」

 男は笑って、ごまかすみたいに言った。ごまかす笑いは、幹夫にはよく分かる。自分もよくやる。胸の音を隠すために。

「いい。すぐ、かえる」

 幹夫が言うと、男は「そっか」と頷いた。頷き方が、少しだけ寂しかった。

 男は包みを胸の前に持ち上げて、まるでそこに何か大きなものが入っているみたいに大事そうにした。

「これは……あとで、茶にでも入れるわ」

 茶に入れる、という言い方で、幹夫の胸がふっと軽くなった。 見えないくらい少ない白が、「茶に入れる」と言われた瞬間に、ちゃんと存在になる。存在になると、幹夫の中の小さな警報が少しだけ静かになる。

 帰り道、幹夫は自分の手を見た。 指先にはもう白は残っていない。なのに、指先がまだ少し甘い気がした。気がするだけで、実際には何もない。それでも幹夫は、その「気がする」を大事にしたかった。

 家の戸が見えてくると、胸の中の音がまた少し尖った。 今度は、叱られるかもしれない尖りだ。母に見つかったら、どう言えばいいのか。砂糖のことを言ったら、母の眉間が固くなるだろうか。固くなるのは怒りではなく、家計の痛みだ。家計の痛みは、幹夫の心臓の裏側まで届く。

 戸を開けると、母が台所にいた。湯呑みを並べている。湯気はもう細く、朝は終わりかけている。

「どこ行ってた」

 母の声は低い。低い声は、叱りの入口みたいに聞こえる。

「……すぐそこ」

 幹夫が言うと、母は幹夫の顔を見た。見て、幹夫の手を見る。手が空っぽだ、と確認するみたいに。

「……そう」

 母はそれだけ言った。 言葉が少なすぎて、幹夫は逆に胸が痛んだ。母は分かっているのかもしれない。分かっていて、言わないのかもしれない。言えば、白が重くなるから。

 祖母が奥から顔を出した。

「外、寒かったら? ほれ、手ぇ洗いな」

 祖母の声が、いつもの生活の声で、幹夫は救われた。救われると、今度は罪悪感が来る。救われるのに慣れていない子どもの、変な癖だ。

 幹夫は水で手を洗った。水が指の間を通って、冷たさが骨に触れる。冷たいのに、心は少し温かい。

 洗い終えて、幹夫はふと、窓の外を見た。 遠くで汽笛が鳴った。届く音。波の音も届いている。竈の火のぱちんという音も、ちゃんと届く。

 届かないものがある。 けれど、届かないからといって、何もできないわけじゃない。

 幹夫は、自分の胸の中で鳴っている小さな警報に、そっと耳を澄ませた。 それはサイレンみたいに大きくない。命令もしない。 ただ、誰かの欠けを見つけると鳴って、幹夫の手を少しだけ前へ押す。

 その押され方が、痛いときもある。 でも――今朝、男の家の戸が開いたときの、あの一瞬の光を思い出すと、幹夫はその痛みを嫌いになれなかった。

 
 
 

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